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10.地域の専門機関が果たす役割:ボローニャのカヴァッツァ盲人施設が担う機能|フルインクルーシブ教育の現場を訪ねて~イタリア・ボローニャ滞在記~|大内紀彦

ボローニャの街の中央には有名なマッジョーレ広場があり、そこからわずかな距離にはこの街のシンボルとなっている2本の斜塔アジネッリとガリセンダが聳えている。この斜塔の足もとからは、旧市街を囲んでいる城門にむかって放射線状に主要な道路が何本も延びているが、そのうちの1本がカスティリオーネ通りである。斜塔を背にしてこの通りを南に20分ほど進むと、突き当りには城門の一つカスティリオーネ門が見えてくる。その少し手前にあってひときわ人目を引くオレンジ色の外壁の建築物、それがフランチェスコ・カヴァッツァ盲人施設(Istituto dei ciechi Francesco Cavazza)である(注1)。

この施設の起源は1881年にまで遡る。フランチェスコ・カヴァッツァ伯爵を中心として、貴族階級に属する若者たちによって設立されたのがこの施設の前身である。設立以来、社会的な変化や技術的・科学的な進歩も取り込みながら、視覚障害者たちの訓練、学習、リハビリ、社会的・職業的な統合を目的として、この施設では永きにわたって様々な活動が続けられてきた。この施設は1970年代までは盲学校としても機能しており、その末年には著名な全盲の声楽家アンドレア・ボチェッリも在籍していたという。しかし1970年代後半になり、イタリアの教育が特別学校を廃止して、すべての障害児が地域の学校で学ぶフルインクルーシブな教育へと移行するにあたり、盲学校としての機能を停止している。

その後1999年になって同施設内に開設されたのが、「手で触る美術館『アンテロス』」(Museo Tattile Anteros)である。この美術館では絵画作品を浮き彫りのように半立体的に翻案して展示しており、視覚障害者のための芸術鑑賞、リハビリ、視覚教育などを支援する施設として活用されている。美術館の責任者ロレッタ・セッキさんとは、10年以上前に大内進先生(注2)に紹介してもらったこともあり、知己の間柄だった。そのため2023年春からのボローニャ滞在中には、この施設を定期的に訪れてはセッキさんや利用者の方からの聞き取り調査を行うことができた。そこで、今回のレポートでは、これまでの調査で知り得たことをもとに、同施設の様々な機能について紹介することにしよう。

視覚障害教育支援センターの役割

カヴァッツァ盲人施設が提供するサービスは実に多岐にわたっている。学校教育に関わる領域でいえば、視覚障害児と保護者に対するカウンセリングや支援はもちろんのこと、教師をはじめとする教育関係者の支援、学校への視覚障害に関する情報の提供や教材・教具の支援といったサービスを請け負っており、その役割を中心的に担っているのがこの施設内に設置されている「視覚障害教育支援センター(Centro di consulenza tiflodidattica)」である。このセンターはイタリアの学校が連携している校外の専門機関の一つで、この種の機関はイタリア国内の21カ所に設置されているが、それらでシチリア島やサルデーニャ島などの島嶼部を含めてイタリアのほぼ全域をカバーしている。各センターが周辺の地域を管轄していて、来所者の相談や支援に応じるとともに、この機関に所属する専門的な知識・技能をもつ職員が、学校を直接訪問して生徒を指導したり、教員にアドバイスをしたりすることもある。視覚障害教育に関わるこの専門機関は、いわゆる「地域のセンター的機能」を担うと同時に、「訪問教育」を行う機関としての役割も受け持っている(注3)。

ボローニャに滞在中、カヴァッツァ盲人施設にしばらく通ううちに、ぼくは幼い頃からここを利用しているという一人の少年に出会った。それ以来、セッキさんと本人、そしてその保護者から話を聞くことができたので、この少年の具体的な体験をもとに、それを踏まえて同施設の支援策をお伝えしよう。

カヴァッツァ盲人施設に通う少年Cさんの体験

カヴァッツァ盲人施設に通うなかで出会ったのが、先天性の緑内障による全盲の少年Cさんだった。現在は13歳で中学校に通っている。彼は一度会っただけでぼくの名前や声、日本からやってきたこと、そして今はボローニャに住んでいることを記憶していた。聡明で笑みが絶えることのない明朗快活な少年で、次に彼に会える日が決まると、ぼくはその日が来るのを心待ちにするようになった。
保護者の話によると、Cさんが初めてこの施設を訪れたのは4歳の頃だった。そして彼が5歳の時には、当時通っていた幼稚園の教師、彼を担当していた支援教師、そしてカヴァッツァ盲人施設の職員、そして母とのあいだで初めてのミーティングが開かれ、その時点でどのような支援から取り掛かるべきかが講じられた。そして、小学校のCさんの入学前には、本人と母がこの施設でブライユ点字の基礎を学び、小学校時代のCさんの支援教師もこの施設に通って点字習得のコースを受講した。
中学生となったいまでは、現在の担任も支援教師も点字が理解できないこともあって点字教材や点字教科書を用いることは無くなったが(視覚障害教育支援センターは学校に対して点字教材の提供や貸し出しも行っている)、その代わりに点字入力が可能で音声読み上げ機能がついたパソコンを日々活用して、クラスメイトと一緒に授業に参加している。クラスではみんなの人気者だというCさんは、勉強は苦手と笑って教えてくれたが、水泳や音楽は好きだ。特に最近は音楽に熱中していて、5年前からはドラムを習っているという。母のスマートフォンに収められた動画で、音楽の発表会でバンドのメンバーとして得意げにドラムを披露する様子を見せられた時には、胸に熱いものが込み上げてきた。
中学生になった今の目標は、いつか一人で外出ができるようになることだという。もう少ししたら、この盲人施設が提供する指導員の付き添いサービスを利用して、白杖を使って街を歩く練習を始めるのだと教えてくれた。

全盲のCさんをめぐるエピソードからは、視覚障害者とその保護者、視覚障害児の教育を担当する教師、そして学校に対して、カヴァッツァ盲人施設が提供している具体的なサービスや支援の様子を知ることができるだろう。カヴァッツァ盲人施設には、旧盲学校時代も含めて視覚障害教育に関わる専門的な知識・技能が蓄積されており、その専門的な見地から学校と連携して視覚障害児の教育活動をサポートする体制をとっている。

アンテロス美術館の機能

次に取り上げたいのが、カヴァッツァ盲人施設内にあるアンテロス美術館が担っている機能である。この美術館は、ルネサンス絵画を中心に中世から近代までの名画を浮き彫り状の「さわる絵」に翻案したコレクションを展示している。ここに展示された半立体の絵画コレクションは、視覚障害者が手で触って芸術作品を楽しむという芸術鑑賞の観点から、あるいは浮き彫りの作品に実際に手で触れることを介して、視覚障害者が形態を知覚し、認知し、解釈する能力を刺激し強化する(または低下を防ぐ)というリハビリや視覚教育の観点から活用されている。

ここ数年で視力を失いつつあるという年配の男性は、月に1度のペースで妻に付き添われてこの施設に通ってきていた。施設では、立て掛けられた浮き彫り状の絵画作品のまえに学芸員のセッキさんと男性とが並んで腰かけ、セッキさんが自らの手で男性の手を導いて半立体の絵画作品に触れさせながら、時には絵画のテーマや技法について説明を加えつつ、形態を把握する練習を行っていた。視覚障害者が自らに残されている視覚とその他の感覚を統合的に活用する技術を身に付けることで、知覚・認知・知的能力を向上させ強化していくのが目的だということだった。

先に紹介した全盲の中学生Cさんは、2カ月に1度くらいの割合でこの施設に通所していた。ここで彼が取り組んでいる作業は、浮き彫り状の絵画作品に手で触れて形態を確認しつつ、それを部分ごとに粘土で再現していき、最終的には作品全体を粘土で作り上げるというものだった。この施設を初めて訪れた4歳の時からCさんはこの粘土を使った訓練を開始したという。初めはリンゴやバナナあるいはお皿など生活のなかで身近にあるものを粘土で作ってみるところから作業を始めたが、現在ではだいぶ複雑な形態のものまで粘土で再現できるようになっているということだった。さらに、アンテロス美術館はボローニャ大学とも連携しており、学芸員のセッキさんが大学で視覚障害教育の講座を担当し、同美術館が有する知見の普及にも努めるのとともに、大学からの教育実習生の受け入れも行っているとのことだった。

アンテロス美術館が担っている多様な機能のなかで見逃すことができないのが、美術館のユニバーサルデザイン化にむけた助言・協力という役割である。先述した「さわる絵」についていえば、アンテロス美術館が作成した作品は、実際に多数の美術館に設置されており、視覚障害者の芸術鑑賞のために役立てられている。そのなかの一つが、ボローニャにある国立絵画館(Pinacoteca nazionale di Bologna)(注4)に設置されている14世紀の画家ヴィターレ・ダ・ボローニャの作品『聖ゲオルギウスの竜退治』を浮き彫り状に翻案した作品である。この作品は常設展示のなかの人目に触れやすい入り口付近のスペースに配置されているので、ボローニャのこの絵画館を訪れたことのある人であればご存知かもしれない。ぼく自身もボローニャに滞在中、この国立絵画館を訪れるたびにこの浮き彫り状の作品に触れる体験をしていた。ちなみに日本国内では、公立美術館としては唯一山梨県立美術館にアンテロス美術館が作成したミレー作「種をまく人」を翻案した「さわる絵」の作品が展示されている(注5)。

イタリアでは美術館および博物館のユニバーサルデザイン化が、着々と進行しているようである。イタリア国内には、ボローニャの「手で触る美術館『アンテロス』」の他にも、視覚障害者の美術教育や鑑賞を目的として、主として彫刻、建築作品を収集・展示しているアンコーナ「国立触覚美術館『オメロ』」があることが知られている。それに加えて、今回のイタリア滞在中に確認できただけでも、ローマ、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェといったイタリアの主要都市にある有名な美術館においても、まだ点数は少ないとはいえ、各美術館の代表作を模した「さわる絵」を設置するところが増えてきている。

ミラノにブレラ美術館(Pinacoteca di Brera)というその名を広く知られた美術館があるが、ある日この美術館の研究者チームが、所蔵されている絵画作品を翻案した「さわる絵」の試作を携えてアンテロス美術館を訪れている機会に遭遇することがあった。ブレラの研究者チームに対し、アンテロス美術館の学芸員セッキさんは、「視覚障害者にとって手で触れて形態を感知しやすのはどのような絵画作品か」そして、「絵画作品を浮き彫りに翻案するにあたりどうした点に留意すべきか」など専門家の観点から助言を行っていた。そして、実際にブレラ美術館が収蔵している代表作の中から、浮き彫りへの翻案に適した作品として、バロック絵画の巨匠カラヴァッジョ作『エマオの晩餐』と19世紀ロマン主義の画家アイエツ作『接吻』の2点の作品が取り上げられ、浮き彫り状に翻案をする際の留意点等についてもいろいろと示唆されていた。(2024年1月25日にミラノのブレラ美術館を訪れてみたが、カラヴァッジョ作『エマオの晩餐』とアイエツ作『接吻』の両作品の手前には、現段階ではアンテロス美術館の作成ではない別の浮き彫り状の作品が設置されている)

これまでボローニャにあるフランチェスコ・カヴァッツァ盲人施設、そしてその館内に設置されている「視覚障害教育支援センター」と「手で触る美術館『アンテロス』」が果たしている多岐にわたる役割を紹介してきた。学校でインクルーシブ教育を推進するにあたっても、美術館等でユニバーサルデザイン化を促進するにあたっても、時にはそれぞれの機関に蓄えられた資源だけでは賄えない、高度に専門化された知識や技能が必要になることがある。たとえば「視覚障害教育支援センター」が提供している点字に関する理解や知識に基づく視覚障害者や教師の支援、そして点字教材・教具の開発、あるいは「手で触る美術館『アンテロス』」が携わっている浮き彫り状の「さわる絵」の作成といったものがそうしたものに相当していよう。カヴァッツァ盲人施設は、特殊な知見を蓄積させてきた地域の専門機関として、学校や美術館との協力関係においてきわめて重要で不可欠な役割を担っているといえるだろう。

(注1)カヴァッツァ盲人施設 https://www.cavazza.it
(注2)大内進先生が東京に開設した「手と目でみる教材ライブラリー」は、ボローニャにある「手で触る美術館『アンテロス』」の東京分館としても位置付けられており、アンテロス美術館が作成した「さわる絵」も多数展示されている。https://spot-lite.jp/tetome-library/
(注3)カヴァッツァ盲人施設の機能については以下の研究が詳しい。(大内進ほか『イタリアにおける視覚障害教育に関わる触覚教材への対応』)
https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F10193853&contentNo=6
(注4)ボローニャ国立絵画館 https://pinacotecabologna.beniculturali.it/it/
(注5)山梨県立美術館 https://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/

おおうち・としひこ………1976年生。イタリア国立ヴェネツィア大学大学院修了。神奈川県特別支援学校教員。訳書に『イタリアのフルインクルーシブ教育―障害児の学校を無くした教育の歴史・課題・理念―』(明石書店)など。趣味は、旅行、登山、食べ呑み歩き。


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