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12.何も考えないでしばらく休め(青木志帆)|私たちのとうびょうき:死んでいないので生きていかざるをえない

「私たちのとうびょうき」は、弁護士・青木志帆さんと新聞記者・谷田朋美さんによる往復ウェブ連載。慢性疾患と共に生きる二人が、生きづらさを言葉に紡いでいきます。今回は、青木志帆さんの担当回です。

まずは前回の言い訳から

うふふ、うん。なんだか、ようやく「往復書簡」っぽい話ができそうな気がしてきました。とりあえず、病気を打ち明けないという「戦略」という言葉のチョイスに違和感がある、ということですね。

たぶん、難病者がどこかで働こうとするときには、無意識のうちに病気をオープンにするか、クローズにするか、この二択を迫られていると思います。谷田さんも、まぁ、たしかに、就職活動の年に留学したエピソードを聞いていると、「あれ?私たちの世代って就職氷河期じゃなかったっけ?」という気分にならなくもないですが、新聞社の採用面接を受けるその場においては、オープン戦略でいくか、クローズ戦略でいくかの選択は、無意識のうちにしていたんじゃないでしょうか。谷田さんがおっしゃるような、特別賢さをもった生き方ではなく、誰でもやっているはずのありふれた話です。それを言うなら、この連載の第2回「私たちの生存戦略」で書いたように、公務員の採用面接で、丸腰無防備まったくのノーケアで、無邪気に病気を交えて志望動機を語ってしまった私の方が、無策にもほどがあります。

合理的配慮の考え方は意外とマッチョ

そして、私の「戦力」という単語の使い方が雑だったせいで、ドキッとさせてごめんなさい。「そ、そういう意味じゃないんだ!」と反射的に思ったのですが、じゃあどういうつもりだったのか、考え始めるとよくわかりませんでした。2024年のゴールデンウィーク期間中、ずっと考えていましたが、すっきりと言語化できませんでした。どう書いても、誰かを傷つけて誰かから怒られそうな予感しかしないのです。

まず、この「戦力」は、部署でトップセールスをたたき出すキラキラハイスペック企業戦士をイメージしているわけではありません。むしろ逆で、労働契約で求められている最低限の要求を満たせる状態、いうなれば(仮に正社員であれば)出勤して、就業規則に定められた休暇制度は使う前提で、おおむね週40時間は自席に座っていられる状態の人のイメージでした。

そして、前回この「戦力」の話をしたのは、合理的配慮の提供についての話の一環として、でした。合理的配慮とは、あくまで他の者との平等を達成することを目的とする考え方なので、就労の場においては、配慮を提供した結果、契約上最低限要求される労働力は提供できるようになることが前提にされていると思うんですよ。

でも、考えられる合理的配慮を全部提供しても、1年の半分以上は寝込んで動けない、難病なので治る見込みもないし、という状況になってくると、それはもはや、合理的配慮の理屈だけでは、安定して就労の場にとどまり続けることが難しくなるんじゃないかなぁと思うのです。就労を求める難病者の方とお話をしていると、なんとなく、「それでも雇い続けるのが合理的配慮の提供ではないのか」と言われているような気分になります。そこまで求めると、雇い主の負担が過酷になってきます。

合理的配慮って、基本的に「段差にスロープを渡して車いすが通れるようにする」といった、可視化された社会のバリアをどうにかするところから始まっている考え方です。私たちのように、「考えられる合理的配慮を全部尽くしても、いつ倒れるかわからない」という不確実さを抱えた障害の場合、合理的配慮の理屈だけで克服できないんじゃないかという不安を常に抱えています。これが、私たちの自己効力感というか、自信を失わせる元凶です。

仕方がないので面白さで勝負する

私も、弁護士として最低限の能力を備えているかと言われると、相当怪しいもんです。類型的に体力を使うことが明らかな業務の一つに刑事弁護があります。刑事弁護、とりわけ国選弁護は、名簿登録をすると当番日を年数回割り当てられます。その当番日に警察署や裁判所から出動要請がかかると、とりあえず要請から24時間以内に被疑者が勾留されている留置施設(多くは警察署)へ行って、接見(面会室で会って話をすること。裁判モノのドラマによくある、アクリル板を挟んで話しているシーンみたいなやつ)をしなければなりません。どこの警察署から要請がかかるかわかりません。兵庫県は広いし、私は視覚障害ゆえに運転免許も持っていませんので、これが一苦労です。谷田さんの「夜討ち朝駆け」ほどではありませんが、非常に体力を要します。被疑者の性格や障害の有無、そして犯罪の内容によっては毎日のように接見に行く必要がある場合もあります。でも、刑事弁護は、日本国憲法に書かれた弁護士の仕事の中核です。これができない者は、業界的にそれほど温かい目で見てもらえないのも事実です。

たしかに、私たちは、夜討ち朝駆けも、国選弁護もできません。でも、私が谷田さんを「なんか面白いことができそう」とこの連載企画にお誘いしたように、夜討ち朝駆けができなくても、国選弁護ができなくても、その人特有の面白さがあると思うのです。この面白さは、「Funny(おかしい、笑える)」ではなく、「Interesting(興味深い)」のほうです。谷田さんが、就職活動のスタートが遅れながらも、あの激しい就職氷河期のなか、現役で新聞社に就職できたのは、会社にとって興味をそそられる何かがあったからじゃないでしょうか。しかも、夜討ち朝駆けを外れてスタートできた、ということは、会社が谷田さんの「なんか面白そう」をそれなりに評価したから、というようにも見えます。そうすると、難病者は、波乱万丈の人生を今まで生き抜いてきたという経験だけで「面白さ指標」は健康な人よりもアドバンテージがあるはずなんです。

こういう話をすると、「私みたいに面白くない人は生きてちゃダメなのか」と言われますが、そうやって無理やり面白さを醸し出そうとさせるのはなんか違います。面白さは作るものではなく、生きている以上、だれしもある程度標準装備されているはずのものです。問題は、この「面白さ」を評価してくれる人が少ないこと。

この話を書くために、最近『能力のいきづらさをほぐす』(勅使河原真衣著、どく社)という本を読みました。この本にも書かれているように、能力のあるなしを、一人ひとりの個人のせいにされると、へこむ人が続出します。一方、評価する側の人たちは、求職者たちに百花繚乱のいろいろな能力を求める以上に、多様な面白さに対する感度を上げる努力をしてきたでしょうか。私はこれまで、私の面白さを拾ってくれた人たちのおかげで、寸足らずな稼働時間でもまだ、職業人として生きています。気がつけば、弁護士になって15年目ということを意識する機会が増え、今度は私が馬力不足でも規格外の「面白い人」がいれば見つけだして、育てていく側になっていることを感じます。

何も考えないでしばらく休め

「もし好きな女に何かあった時さ 『何も考えないでしばらく休め』って言えるくらいは なんかさ 持ってたいんだよね」

『ハチミツとクローバー』8巻(羽海野チカ著、集英社)

突然すみません。またしても羽海野チカ先生の作品からの引用で恐縮ですが、こちらは「ハチミツとクローバー」という漫画で、社会人1年生の真山巧が、「お金を稼ぐ原動力」として吐露したセリフです。体はそれほど強くない、しかも不慮の事故で夫を亡くしたあこがれの女性、理花さんをどうにか支えたい、という真山の「背伸び」を凝縮したようなセリフです。二階堂晴信とはまた違った「キューン」です。

普通の人が読んだら「背伸び」の裏返しにしか見えないセリフですが、我々は常時、ガチで「何も考えないでしばらく休め、と365日言ってほしい」側なので、おそらくときめき方がだいぶ違うのではないでしょうか。「何かあった時」に、そう言ってくれる人、言えるだけの余裕のある人がそばにいたら、どれだけ武装解除して生きていけることか。

このセリフのポイントは、「お金」じゃないんです(いや、お金も大事なんだけど)。そうではなく、「何も考えないでいい」の部分です。私たちの「何かあった時」って、だいたい自分で自分の身の回りのことが何もできなくなるくらいシャレにならない事態になります。そんな時、食事、着替え、風呂、そうじなどの身の回りのことから生活費のことまで、「何も考えずに寝てていい」と言ってくれる人がそばにいると、「明日の朝、元気に目覚める自信がない」毎日の不安をだいぶ解消することができます。

勤めはじめたころ、私は、大阪と兵庫の県境あたりでひとり暮らしをしていました。でも、ひとり分の家事とはいえ、仕事と両立することが難しくて、実家から電車で1時間くらいのところだったこともあり、週末は親が泊りがけで家事をしに来てくれていました。弁護士になって6年目で結婚し、親に迷惑をかけることから卒業できました。すると、結婚して、毎日隣で一緒に寝ている人がいること(エロい意味ではなく、夜中に何かあったら救急車を呼んでくれる人がいる安心感です)、そして家賃の負担が減ったことに感動したのを覚えています。一人暮らしというものが、マイクロアグレッション(思い込み・偏見によって無意識に相手を傷つける行為)ならぬ、マイクロプレッシャーになっていたことを、結婚して初めて思い知ったのでした。誤解を恐れずに言えば、「結婚って、社会保障だー!」と思ったものです。まぁ、ケアも込みで同居してくれる関係性であればルームシェアでもなんでもいいんですが、私の場合はそれが結婚でした。

昨今、結婚制度への評価もさまざまで、「結婚はいいぞ」と手放しでは言いづらいところがあります。仕事柄、破綻した婚姻関係なら、それを拘泥して維持するのは百害あって一利なしと思っています。でもその一方で、家族に頼らなくても、「一人でも生きていける」と言えるためには、価値観の多様性や経済力以前の前提として「元気であること」が必要なんですよ。

この、「体調管理でしくじってもそれなりに生きていける」という余裕と安心感こそが、失われた自信を少し取り戻すことができる要素のように感じています。心理的安全性が確保された家庭があれば、そしてプライベートの雑事をシェアできる人がいれば、一人でいるときよりも、なけなしの体力をはたらくことに向けられるんです。

ともあれ、すべての人が、すべての人に対して、あと5%ずつでいいので真山同様の精神をもって構えていてくれていたらなぁと思います。

青木志帆(あおき・しほ)……弁護士/社会福祉士。2009年弁護士登録。2015年に明石市役所に入庁し、障害者配慮条例などの障害者施策に関わる。(2023年3月に退職し、現在は明石さざんか法律事務所所属)。著書に『相談支援の処「法」箋―福祉と法の連携でひらく10のケース―』(現代書館)2021、共著に日本組織内弁護士協会監修『Q&Aでわかる業種別法務 自治体』(中央経済社)2019など。


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