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一万年生きた子ども――統合失調症の母をもって| 第15回(最終回) 誰も助けてくれないんだ

小学校2年生のとき、母が統合失調症を発症。私は生き延びるために、「一万年の子ども」になった――。第11回~15回では、母の症状が落ち着き、ナガノさんが「一万年生きた子ども」の後遺症と向き合ことになった中学生~高校生、成人後を描きます。

***

ある日、会社に出勤する朝、道で大の字で横になっているおじいさんを見かけました。おじいさんのそばにはおばあさんが寄り添っています。私は何事かと思い、声をかけました。
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと、転んじゃって」
「頭打ってませんか?」
「頭は大丈夫です」
「起こしますね」
私はおじいさんの手を引っ張り、座れるように抱き起こしました。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
「そうですか、じゃ、これで」
私はほんの2、3分ほどのかかわりでその場を去りました。

私は道端などで困っている人がいると、必ず声をかけるようにしています。それは、自分がそうされなかったことで世間を憎んだからです。かつて、母が電車の中で大の字になって動かなくなったとき、誰も声をかけてくれませんでした。そのとき、私は「一万年の子ども」になりました。なるしかなかったのです。生死をさまよう事故にあったかのように、走馬灯のような悠久の時の流れの渦に巻き込まれ、黄金の体を備えられ、誰よりも大人であるという意識と、神に近い存在だという自負を与えられました。「一万年の子ども」になるとは、誰の助けも借りずにその場をコントロールしなければならないと思い込むことです。孤独な闘いになります。

そのとき、誰か大人が、大の字で寝転ぶ母を抱き起こそうとしているわずか8歳の私に声をかけていたら、違っていたと思っています。世間というものを信じることができたはずです。世間というのは、漠然としていますが、その実は名前の知らない身近な人間との関わりのことです。私が子どもの頃に体験した「世間」とは、精神障害者を無視する、またはじろじろと見てくる存在でした。精神障害者の薬の副作用である独特な動き――手や唇が震える、ゆっくりしか歩けない、目が虚ろ、呂律が回らない、服装が乱れている――を見て、異質だと見なし、のけ者にしてくるのです。近所の住民からは挨拶もすべて無視されるという嫌がらせや、家の前にクレゾールをまかれるという加害もありました。8歳の私はそれを敏感に感じ取り、「世間」や周りの「大人」は一切、信用できないのだと思いました。

ヤングケアラーを対象にしたインタビューを読む機会があったのですが、そこにも「まわりの大人には家のことを秘密にしている」「言えない」などの文言があり、深く頷きました。社会はまだ精神病者を差別しないようにはできていません。差別しないとは一体なんなのか? それは利害関係のない誰かのことを、レッテルで見ないこと。モンスターとして外在化しないことなのではないかと思っています。

「〇〇は狂ってる」「あいつは頭がおかしい」「キチガイだ」等々の文言をSNSで見かけない日はありません。私の家ではその言葉は禁句でした。母がそういう言葉で差別されてきたことを重々承知していたからです。でも、ちょっと外に出るとそういう言葉があふれています。例えば、自民党の振る舞いが度を越して法律に違反しているのに司法が裁かないことを「日本は狂っている」とか「裁判所は頭がおかしい」「自民党を支持するやつはキチガイだ」というように言われます。私は、自民党支持者ではありませんので、司法が機能していないことに嘆きはしますが、そのような表現を使って、問題を外部化し切断処理することに恐怖を覚えます。すべての「キチガイ」が法を犯すわけではありません。「狂っていて」も、必ず加害するわけではないのです。たとえば、「並大抵ではない」「異様だ」「とんちんかんだ」など言い換えはできないのではないかと思います。

それは非常に悪質な、誤ったレッテル貼りです。自分たちが正常だと言い募りたいがために、精神病者に自分たちの偏見の責任を押し付けているのです。精神病者は長らく、危険な人物だと見なされてきました。特に統合失調症の陽性症状や双極性障害の躁状態は目立つ行いが多く、人々から奇異の目で見られてきたのです。

私は「狂っている」「頭がおかしい」「キチガイ」などを表現を見たとき、他に言い換えることはできないのかなと考えます。たとえば、「裁判所の判断は問題だ」「自民党を支持する人は現実の司法の問題に目を向けてない」などです。「狂っている」という表現まで制限してしまうのは問題かもしれません。それは言葉狩りになる恐れもあるからです。「狂っている」というのは常に人に使われるものではなく、「歯車が狂った」などとものに使われる場合もあります。それらのグレーゾーンの表現も、使うのには注意が必要だと私は考えています。こう考えるのはどうでしょうか? 例えば精神障害者が目の前にいてもその対象を非難するためにあなたはその文言を使うかどうかです。

私はこんな経験をしています。かつての職場では、精神障害者であることをクローズにして働いていました。同僚たちは私が双極性障害者だと知らないのです。そんなとき、ある双極性障害の利用者さんから電話が頻繁にかかってくるようになりました。それを迷惑がる同僚たち。
「あの人、双極だから、気分が上がってるときはうるさいんだよ」
「ほんとだよね、波がありすぎるからね」
私は相当傷つきました。自分のことを言われているように思ってしまったのです。同僚たちはその利用者さんに声の届かない内緒話のつもりでいったのでしょうが、同じ双極性障害者の私がそばで聞いていたのです。

だから、きっと、どんなときにも精神障害者を揶揄したりするのはやめたほうがいいと思います。誰が精神障害者かなんて、見た目で判断できることはほとんどないのですから。差別がある今の日本での社会生活のなかで、カムアウトして生きていくのは大変です。隠している人も多くいます。

母の時代はおおらかであったかもしれません。母には明らかに精神障害者だとわかる手や唇の震えがあったのに、お菓子工場で採用されていました。結局、そこで母は台車に乗って走ってみたいという欲求の通りに行動し、クビになっていましたが。

かつて勤めていた職場に、上司の子どもが来ることがありました。スイミングスクールのバスで帰ってくる娘を迎えに行くために、上司は職場を中座します。その子はちょうど小学校2年生で、私が「一万年のこども」になった歳と同じなのです。小学校2年生はスイミングスクールのバスのほんのちょっとのお迎えまで母親にしてもらっているのか、と私は驚嘆しました。

かつてのその頃の私といえば、警察署まで母の身元引受に行ったり、母の精神科に付き添ったりしていたからです。その子を客観的に見て、あまりに幼いことを私は実感しました。8歳という年齢で、精神障害者の母を持った私に、一体何ができたというのか。その頃に黄金の体と神の意識を供えた私とは一体何者だったのか。目の前にいる8歳の子どもの素振りと、かつての自分とを比べたとき、当時の私の想像を超えた大人としての意識にに驚かされるばかりです。あんな、小さな子どもであっても、自分を保護してくれる対象がいなくなったら、自らの命を守るために神が宿ってくれるのです。

その子は恥ずかしがり屋さんで、私が職場を去るときに「バイバイ」と挨拶しても首を傾げるだけで、なかなか挨拶してくれたことがありません。それに比べたら、私の子どもの頃というのは、警察でもしっかりとした対応をし、寝そべる母を駅で下ろし、起こし、歩かせ、家路につくということをやってのけたのです。私は母を守る保護者でした。母もまた私を守ってくれようとする保護者でしたが、その守り方は統合失調症の妄想の中でとりおこなわれるため世間との齟齬が生まれます。生まれた齟齬は私に降りかかります。世間は助けてはくれないからです。

世間と私はいつも対立関係でした。それも複雑な対立関係です。私は自分が世間から差別されたくないあまりに、母に世間に即した行動をさせようとコントロールします。もしくは、母の意志と世間の間に齟齬が生まれないような細く狭い隙間を探そうと賢明に努力するのです。けれども、その努力はいつも失敗に終わってしまいます。私は恥という概念で世間から脅かされていました。母親のすることが恥ずかしい、普通の母であってほしい。自分が差別する側になっているのです。

一方、姉はそういったところはほとんどありませんでした。母の妄想にもそんなに寄り添おうとしてなかったように思います。そして、それでも、なお母の一番の味方でした。姉は母に世間のいう普通を求めなかったのです。母が世間から見てどんなおかしいことをしていても、母の論理でそれがあってるのならば、世間からどう見られてもいいと思っているような節がありました。姉は母の訴える苦痛にいつも真正面から向き合い、母の楽なほうを選んであげていました。私は母の苦痛のことはそれほど考えていませんでした。どうしたら、母をコントロールして自分が生き延びることができるかそればかりを考えていたように思います。姉はとても優しい人なのです。

姉はいつも私にお菓子などをゆずってくれました。また、二人でたくさん遊んだことを覚えています。特にクリスマスは特別でした。1カ月前くらいからお互いへのプレゼントを机に並んで座って作るのです。お互いの机は覗き込んではいけないことになっています。そのプレゼントは何十種類にもおよび、お互いのプレゼントを開封するのがとても楽しみでした。

その中でもよく覚えているのが、私が姉に作った「葉巻」セットのプレゼントです。紙にサインペンでヤシの木の絵などを書いてそれをくるくるとまるめ、一本の棒にします。それを吸うのです。サインペンの色によって味が違い、その風味を楽しむというものでした。私は姉に「これはハワイの葉巻だ」と説明してプレゼントしました。姉は一口吸って「たしかにハワイの味がする」と言いました。他にも小さなレターセット、折り紙でできた小物入れ、一枚一枚に違う絵の描いてあるメモ帳など細々したものがたくさん散りばめられました。

 私が「一万年のこども」であった頃、それはつらい記憶ばかりではないのです。母が万年床で寝ている間、姉と私はこどもの楽園を作り上げていたのです。

そしてそのこどもの楽園は世間と相対したものになりました。二人とも世間とは敵だと思っていたし、母を攻撃してくる大人がたくさんいる危険なところだと思っていました。私は、母に何か起こるたび、ああ、世間はやっぱり助けてはくれないんだと思っていました。

ナガノハル……1979年、神奈川県生まれ。双極性障害II型という障害をかかえながら、日々の苦労をまんがにすることをライフワークとしている。著書に『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』『不安さんとはたらく』がある(山吹書店)。

『不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》』

不安さんとわたし


『不安さんとはたらく』

不安さんとはたらく


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