武士論を検証する(5):忠臣は二君に仕えず

 <忠臣は二君に仕えず>という能天気な言葉があります。それは古代中国の事務方の役人の特殊な言葉であって、その特殊故に後世に伝えられたものです。この言葉はやがて日本にも伝えられ、武家社会の中に入り込み、そこで新しい意味が付け加えられました。
 忠臣は二君に仕えずという言葉は中世王や大名が流すプロパガンダとなりました。それは特に戦の無くなった平和な江戸時代に幅を利かせます。というのは江戸時代の双務契約は骨抜きになっていたからです。つまり平和ゆえに武士は戦闘という契約義務を果たすことができず、一方、主君からは保護(土地や米)を受けるだけという苦しい立場に追い込まれていました。それは片務関係です。武士はこの不均衡な関係に苦慮します。主君との関係を双務的なものに復するにはどうしたらよいのか、何を主君に返したらよいのか、と。
 江戸時代の武士は役所勤めをして主君を助けていました。武士は算盤をはじき、帳簿をつける。しかしそんな仕事は武士の契約義務とは言えません。それは農民も又できることでしたから。武士の契約義務はあくまでも戦闘です。
 少なくとも江戸時代、武家の双務契約は破綻していました。そしてそれ故主君との主従関係も希薄化します。平和ボケです。徳川と大名はそんな武士たちに気合を入れる、そして彼らを厳しく統制し、武家支配の強靭化を目指します。この言葉はそんな時、徳川のプロパガンダとなりました。
 この言葉は重宝なものであった。主君がどのような人物であろうと、主君が正当に武士を評価しようとしまいと、武士は一生一人の主君に仕える、決して主君を変えない、忠誠とはそのことである、そんな武士こそ理想の武士である、と。
 すでに片務関係に陥っており、弱みを握られていた武士たちはこの言葉を受け入れた。受け入れざるを得ません。そして彼らは主君に盲目的に仕える武士を演じます。それは武士の奴隷化でした。武士は自らの命を主君に売ったのです。双務契約は奴隷契約と化した。
 確かに能天気な言葉は平和ボケの時代には有効でありました。プロパガンダに洗能された武士もいたかもしれません、しかし戦の盛んであった鎌倉時代から戦国時代までそんな言葉に酔った武士は少数派です。大半は主君の十分な保護を当てにし、命を懸けて敵と戦った、そしてその戦功を主君がどのように評価するのかということを厳しく見つめていました。決して盲目的な服従などではない。あくまでも対等な関係であり、優れた戦功に対しては十分な保護が要求されたのです。保護無に、忠節はあり得ない。
 双務契約とはそういう健全なものです。それは奴隷の契約ではない。ですから場合によっては武士が主君を変えるという行為は当たり前に行われていました。それは武士の基本的な権利です。二度も三度も主君を変える武士はたくさんいました。それは主君選択の自由です。勿論、主君にとっても武士選択の自由がある。中世人の持つ自由であり、自主性です。ですから本来、忠臣は二君に仕えずなどという能天気な言葉は中世の契約社会に生息できないものでした。
 信長の暗殺はその典型です。彼は有名な戦国大名です。そして彼の専制支配も又有名です。彼はまるで古代王のように振る舞った。彼には義務の観念が無い、義務を果たそうとする思いがありません。光秀をはじめとして武士たちは懸命に信長のために戦った、しかし信長は彼らの戦功を公平に、正当に評価せず、あるいは徹底的に無視した。当然のことながら武士たちはそんな信長を恨み、彼から離反し、敵方に寝返る、あるいは彼を暗殺する。
 保護あっての忠誠です。武士を保護しない主君は当然、その報いを受けるのです。光秀は裏切り者と言われますが、むしろ裏切り者は主従関係を踏みにじった信長です。中世は信長を許さなかった。
 尚、<忠臣は二君に仕えず>という言葉はやがて明治時代に入り、再び悪用されます。日本の支配者たちはこの言葉を高く掲げ、国民の奴隷化を図ったのです。それは問答無用の極端な愛国主義を生み出した。それは悲劇でした。
―――(6)へ続きます

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?