中世の本質(19)双務契約

   これまで中世国の支配主体についていろいろ語ってきましたが、それでは次に中世国の国民についてお話していきます。主に武士や農民についてです。
  先ず、双務契約というものについて説明します。双務契約は中世を考察する際、無視できない本質的なものであり、双務契約を抜きにして中世を語ることはできません。実際、武士や農民など中世人のほとんどはこの双務契約に加入していました。
  双務契約は中世の安全保障です。武士たちは双務契約に加入し、安全を保障し合ったのです。双務契約は12世紀、関東の地で開発されたものです。当時の関東は無法の地に等しく、秩序も乱れ、人々の安全は保障されていませんでした。封建領主の領地所有も法によって確実に保障されず、場合によっては近隣の傲慢な平氏方の領主や権力を乱用する地方役人に狙われ、奪われてしまう。それでは安定した領地経営もできず、従って生存すらも危うい。
  そんな武士たちが法の代わりとして開発したものが双務契約でした。領主たちは敵に対し、武力をもって協力する体制を構築しました。彼らは互いに武力を持ち寄り、共同戦線を張ったのです。そしてそのために必要とされたものが双務契約でした。
  さて源義家や平清盛は平安時代の武士です、鎌倉時代以前の武士です。所謂<古代武士>と呼ばれる戦士です。(ここで説明する清盛は平家政権を樹立する以前の古代王に仕える軍事貴族としての清盛です)
  義家や清盛は古代王の命令の下、従者を引き連れ、朝敵を退治しました。その時、戦功をたてた従者には褒賞が与えられますが、その褒賞は古代王が執り行いました。それは義家や清盛の仕事ではありません。二人はあくまでも古代王の代理人ですから彼らはその従者の戦功を古代王に報告するだけです。そして古代王から従者へ与えられるものは基本的に官位や役職(王朝内の役職や地方統治の役職)です。土地ではありません。土地は古代王が独占する王土ですから。
  古代王が命令者であり、従者は服従者です。そして義家や清盛は古代王の代理人です。古代王は命令するだけで、従者に対し義務に相当するものを持ちません。ですから褒賞は義務とは言えません。それは古代王の恣意的な感謝の表明です。義務に相当するものは従者のみが持ちます。すなわち古代王と従者との関係は一方的なものであり、片務関係です。それは古代が不平等な世界であるからです。
  古代王と従者(義家や清盛を含む)とは古代王の敵を討つという点では上下の者が縦方向に協力していたといえます。しかしそれは命令-服従の関係であり、古代王によって強制された協力です。ですから両者はあくまでも上下の関係にあり続ける、その間には高い壁が聳え立ち、決して対等な関係にはなりません。
  一方、頼朝と領主たちとの協力関係はどのようなものであったのでしょう。上位者である頼朝と下位者である領主も縦方向の協力関係を築いていました、それは一方的なものなのでしょうか、強制的なものであったのでしょうか。
  頼朝は領主たちに頼朝の敵を討てと命じる、そしてそれに応えて領主たちは頼朝の敵と戦い、敵の首を刎ねます。それは古代の上下関係と同じに見えますが、果たして同質なものなのかどうか。
  それでは何故、領主たちは頼朝の命令に従うのでしょう。領主たちが頼朝に服従した理由は頼朝が義務として領主たちの安全を保障してくれたからです。つまり頼朝は関東の地の盟主として領主たちの土地所有を認定しました。それは中世王の国土の分割、分与の大権の行使です。
  頼朝は土地の登記書を作成し、それを領主に与える、それはその地がその領主のものであることを証する公的な土地所有の認定書です。それは本領安堵、あるいは新恩給付と呼ばれます。領地安堵は頼朝の義務でした。
頼朝は領主たちの土地を安堵すると同時に領主たちの領主権を認めました。    領主権とはその領地を支配する権利です。彼らを管理し、農耕を指揮し、そして彼らから徴税する権利です。その結果、領主は富を蓄積します。それは領主の生存を約束し、領主の生活を安定的なものにします。すなわち領主は<成り立つ>ことができるのです。
  それは画期的なことでした。領主の成り立ちは日本国民が初めて成り立つことでした。というのは古代で成り立つ者は古代王一人です、しかし国民は誰一人として成り立つことができなかったからです。その点、領主の成り立ちは古代から解放された、すなわち中世の始まりを意味します。
    富を得るだけではありません。領地安堵を得た領主は文字通り、安堵します。というのは最早、近隣の敵におびえなくともよくなったからです。もし安堵された領地を奪おうとする侵入者がいたとします、その者は頼朝の領地安堵を否定する者です。つまり頼朝の敵ということになります。そうであれば頼朝と契約を結ぶ領主たちはそろってこの侵入者を頼朝の敵として討ちます。頼朝を死守することは領主たち自身の死守であるからです。何故なら彼らの安全は頼朝あっての安全だからです。侵入者はその首を刎ねられます。
  この侵入者の撃退は上下(頼朝と領主たち)の縦方向の協力が領主たち仲間の横方向の協力を自動的に引き起こしたものでした。いわば縦糸と横糸とが密に交差して一枚の布を生み出すようにこの二重の協力体制は強靭な武力を形成したのです。
  一方、古代にはそんな縦、横の自動的な力の結合は存在せず、従って強靭な武力は形成されません。それは一方通行の、強制的な協力の限界でした。不平等社会の限界です。従って古代の軍は脆い。特に戦において敗戦が濃厚となった場合、従者たちは大将を見捨てて、我先にと逃げ出します。
  関東の地の領主たちはそれまで無法の危険な地で、不安定な生活を送っていました。しかし頼朝のおかげで彼らは秩序と自立を確保したのです。それは何物にも代えがたいものでした。それこそ領主たちが頼朝の命令に命懸けで従う理由です。
  それでは何故、頼朝は領主達にそんな贈り物をするのでしょう。何故、領地を安堵し、領主たちの安全を保障するのでしょう。その理由は頼朝が彼らの武力に依存しているからです。領主たちが頼朝の生命、そして頼朝の関東の地における盟主としての地位を保障しているからです。
  頼朝の保護は彼らの義務です。領主たちはすすんで頼朝を守ります。何故なら領主たちの安全は頼朝に依存しているからです。頼朝を保護することはすなわち領主自身を保護することですから。
  頼朝と領主たちの関係は双務関係です、そして相互扶助です。お互いに持てる力を発揮し、それを相手に与える、そして互いに安全を確保する。頼朝は中世王としての権威を放つ、そして領主たちは武力を誇る、そして両者は互いを支え合う。この関係をまとめたものが双務契約です。言わば両者は相手の首根っこをつかみながら協力し合うのです。それは両者、納得ずくのことです。
  双務契約は無法の地における安全保障です。それは上位者と下位者とが上下の壁を取り払い、同じ地平に立ち、安全を求め合うことでした。そして双務契約は中世王と領主(大名)との間で結ばれただけではなく、大名と武士との間にも、そしてやがて大名と農民との間にも交わされるものでした。そして双務契約は鎌倉時代から江戸時代まで一貫して存続し、武家社会を、そして中世社会全体を支え続けたのです。
  双務契約は無法の地における法の代替物です。それは武力を基礎とする秩序を形成します。従って双務契約は法が消えた、混乱した時代にその力を発揮しました。
  例えば、それは平安時代末期、鎌倉時代黎明期、鎌倉幕府崩壊期、南北朝期、応仁の乱から戦国時代、そして幕末の動乱期などです。大名(上位者)と武士(下位者)は共に緊密に協力し、特に武士は命を懸けてまで主君の安全を追求しました。しかし江戸時代のような平和な時代、そして法が一定の力を発揮し、秩序を形成していた時代、双務契約の出番は限られて、それなりに形骸化しました。
 双務契約はその点、専制(独裁者による残酷な中央集権制)と民主制(国民による高度な中央集権制)の二つの中央集権体制のはざまに咲き誇った封建領主による残酷、かつ高度な体制、すなわち分権制を根底から支えるものでした。
  さて当時の頼朝には実際のところ、封建領主に与える役職や官位はありませんでした。彼はもともと平家との戦いに敗れた敗残者であり、流人なのですから。彼が持っていたものは古代王の血筋を引き継ぐ貴人であること、そして彼の父祖が偉大な将軍であったという歴史事実です。それは当時の関東の地の封建領主たちにとって(とりあえずの)権威となりうるものでした。
  役職や官位もありがたいものです。しかし役職や官位を受けても従者はあくまでも古代王に依存し、古代王に仕えなければいけません。結局、従者は自立できないのです。古代王は国民の自立を許しません。成り立つ者は彼一人です。古代国では上下の壁を超えることは不可能です。そこには絶対的な差別がある、不平等主義です、専制主義です。
  頼朝は上下の壁を越えて、他者(下位者)を認めたのです。そして領主もまた、上下の壁を越えて、他者(上位者)を認めたのです。それは<二者の平等>です。双務契約の出現は中世の本質的な始まりといえます。人と人との基本関係が歴史的に、劇的に変化したからです。しかも二者の平等はやがて現代化革命を通じて法の下の<万民の平等>へと転じます。すなわち双務契約の開発は真に歴史的なことでした。
  双務契約は重要な歴史史実として今日の歴史教科書や多くの歴史書に掲載され、説明されています。その記述は専ら、双務契約を<御恩と奉公>という型通りの表現で済ますものです。それは双務契約のありさまを具体的に表現しているといえますが、一方それは双務契約の歴史的な価値やその複雑な構造やそして古代と中世との本質的な違いを明らかにしているとは言えません。その説明は短すぎますし、皮相的だからです。
  さらにその型通りの記述は双務契約が鎌倉時代から江戸時代までの中世日本を根底から支えたことや中世人の精神を鍛え、育成したことを明らかにしていません。ですから特に歴史教科書は子供たちに対し、双務契約の歴史的意義を解説し、そして古代から中世への本質的な移行を説明すべきです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?