中世の本質(27)武士の成り立ち

 中世王と大名とが主従関係を結んでいたように大名と武士も双務契約を交わしていました。大名は武士を保護する義務を持ち、そして武士は大名に忠誠を尽くします。特に武士の主君に対する忠誠は崇高なものといえるほど純粋であり、その律義さは高く評価され、国内ばかりではなく世界的に知られています。
 双務契約の下、大名は武士の領地と武士権を安堵します。武士は与えられたその地で農民を使役し、農耕を営み、生き延びることができます。武士は(小規模ながら)一国一城の主です。武士の生命と財産は保障されているのです。
 武士の領地に侵入する者は誰であろうと大名によって討たれます。何故ならその地は武士の所有地であると同時に大名領国の一部でもあるからです、大名がその者を討つことは当たり前です。
 しかも同時に他の武士たちもその者を襲います。何故なら大名により安堵された領地を侵す犯す者は大名を無視し、否定する者です、すなわち大名の敵だからです。つまりその者は大名の指揮、命令の下、武士たちの一斉攻撃を受け、首を刎ねられるのです。
こうして武家の双務契約は縦方向の協力(大名と武士の協力)と横方向の協力(武士同士の協力)を堅く結び付け、強力な共同体を造り、そして強靭な戦闘力を編み上げるのです。この堅牢な武家の体制が大名の成り立ち(領主権の成立)と、そして武士の成り立ち(武士権の成立)を保証しています。
 さて武士は平安時代に誕生しました。例えば源義家や平清盛などです。いわゆる<古代武士>です。彼らは古代王に仕える軍事貴族であり、古代王から官位を授かり、あるいは王朝の地方統治に従事する戦士です。そして古代王の命令に絶対的に従い、彼らの軍隊を引き連れ、朝敵を退治しました。ですから彼らは古代王朝の従業員です、そのため古代王から自立しているとは言えません。(この時の清盛は軍事貴族としての清盛です。)
 義家や清盛は専制主義を信奉していた武士です。古代の主人公は古代王であり、しかし彼等ではないのです。従って土地を従者と分かち合うという発想もなければそれを行う権力も持っていません。それ故、双務契約は成立しません。契約義務というものも発生しない。当然、従者の人権(領主権や武士権)というものもあり得ません。人権という概念そのものがないのですから。すなわち古代には<他者を認める>思想が存在しません。
 一方、鎌倉時代に登場した武士が中世武士です。頼朝や封建領主や地頭などです。彼らは古代王朝から自立した武士です。彼らは自ら彼らの棟梁(中世王)を選び、土地所有の問題を処理し、領地制を確立します、そして武家独自の法(御成敗式目)を制定し、分権統治という武家独自の支配体制を築きます。
 さらに彼らは(素朴な)平等主義や現実主義を確立し、自律する生き方を貫き、そして領主権や武士権を設定しました。それは中世世界の基本であり、やがて現代世界に連続するものでした。
 古代武士と中世武士とはこのように本質的に異なっています。まったく別の人種です。中世武士は古代の未開を切り開き、その野蛮さや残酷さを排除し、新しい世界、人間性のある、そしてやがて現代世界へとつながる中世世界を形成したのです。そして何よりも中世武士が成り立ったことは史上、画期的でした。(古代国において成り立つ者は古代王一人です。)
 この古代武士と中世武士の違いを無視して中世論や武士論を語ることはできません。従って中世が平安時代から始まっていたと主張する中世800年説や中世500年説は誤った説です。中世武士の存在しない平安時代を中世とすることはできません。平安時代は依然として古代です。
 800年説や500年説は中世の始まりにおいても誤った指摘をし、そして中世の終わりにおいても間違った主張をしており、両面において間違っています。それは荘園制という土地制度を中心として歴史区分を行った結果です。繰り返しますが歴史は人間が造るものです、しかし土地制度が造るものではないのです。
 中世は中世武士の登場から始まった。すなわち、12世紀の関東の地における頼朝と関東の封建領主たちによる挙兵から始まったのです。その時、領主権と武士権が誕生し、大名と武士とが成り立ったのです。
次回に農民の成り立ちをお話しします。

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