紅野謙介『国語教育 混迷する改革』を読んで、予備校講師が考えたこと・その3

 2020年1月に紅野謙介先生が出版された『国語教育 混迷する改革』(ちくま新書)。今回の大学入試改革に少なからず翻弄された(笑)一予備校講師として、「お!」などと気になったところを引用しつつ、雑感をつらつらとまとめてみたいと思う。とりとめのない文章にはなろうかと思うが、その点は何卒お許しくださいませ。
 なお、前回アップした「紅野謙介『国語教育 混迷する改革』を読んで、予備校講師が考えたこと・その2」も、よろしければご一読ください。

「第2章 複数の資料が泣いている――プレテスト第2問の分析」を読んで考えたこと①

 大学入学共通テスト現代文の"目玉"ともいえる、「法と契約の言説」(いわゆる実用文)の出題、そして複数テクストの横断的読解という形式について、紅野先生は、

 来週までにこれらの資料を読み込んでレポートを作成しなさいというのであれば理解できます。また大学によって二次試験を行っているところで、これらをもとに小論文を作成するのであればまだ納得できるでしょう。しかし、「大学入試共通テスト」では、本来の試験時間から増えた20分間で向き合う試験問題がこれなのです。「情報」を「多面的・多角的」に精査し「構造化」するという名目ではありますが、しっかり、じっくり考えさせるというより、次の会議までに急きょ、資料作成を命じられた事務職員のような仕事をさせようとしているようなものです。(p66∼67)

とご指摘なさる。
 僕自身は、実用文と評論文を組み合わせるという形式それ自体については一定レベルの評価をしているのだが、先生のおっしゃることもとても腑に落ちる。
 端的に言って、少なくとも試行調査問題についていうならば、割り当てられた時間に対し、受験生に提示される文字その他の情報があまりにも多量に過ぎるのだ。しかも、とりわけ【資料】については、その大半の情報は問題に答えるうえで必要なかったりする。となると、受験生に要求されるのは、〈設問の誘導に乗っかって、どれだけ迅速に必要な情報だけをピックアップすることができるか〉という合理的な情報処理能力だけということになり、その意味で、「『情報』を『多面的・多角的』に精査し『構造化』する」という理念は、まさに「名目」に過ぎないものとなってしまうだろう。
 率直に言えば、〈理念を実現するために編み出されたはずの手段が、その理念をないがしろにする〉という皮肉。そのような点が、試行調査問題には多々見られるのである。

「第2章 複数の資料が泣いている――プレテスト第2問の分析」を読んで考えたこと②

 2017年サンプル問題1、架空の都市の「景観保護ガイドラインのあらまし」【資料A】の地図等についてのご言及も非常に大切なものだ。

 資料を複数化して、実際の社会にある複雑な現実を再現したつもりなのかもしれませんが、実はかなり抽象化された設定で、現実から遊離しています。(p69)

 これは実際に類題を作成してみるとわかるのだが、いわゆる官庁の資料や新聞に掲載されている表やグラフ、図などを用いて作問すると、しばしば会議や校正の段階で、作問者の読みの恣意性を指摘されることがある……というより、必ずといっていいほど指摘されることになる。つまりは、「作問者であるあなたはこのグラフの数値にこういう意味づけをしたわけだが、しかし観点を変えるとこういうふうにも読み取れるのではないか? すると、この正解とされる選択肢はバツ、むしろ不正解とされるこちらのほうが正解に近いのではないか?」という具合に。丸一日を議論に費やし、結果、「これはもう問題として成立させることは無理だ」となり、廃案になってしまった問題も、無数にある。
 しかし、こうした袋小路を打破する技がある。
 それは、自分の作った問題の正解を導き出せるようなデータへと、資料に手を加えてしまうこと――いや、そもそも資料自体を、その問題に合わせて自分で作ってしまうことだ。
 先生のご指摘なさる「抽象化」された地図等は、まさにその典型的なものなのだ。
 そしてこれにより、資料の読み取りに対する恣意性は排除することができる。なぜならその資料は、その問題の正答を導き出すためだけにこの世に存在するものなのだから。
 逆に言えば、こうして作られた問題は、たった一つしかない作問者の解釈をなぞるためだけにあることになる。
 「主体性」という、入試改革における最大の眼目と裏腹な構造は、ここにも見られるのだ。

「第2章 複数の資料が泣いている――プレテスト第2問の分析」を読んで考えたこと③

このプレテストには大義名分がありました。日本の教育改革の試金石であり、この入試改革を通して高校・大学の教育を変えていく。しかも、論理的思考力を鍛え、「主体的・対話的で深い学び」を目指すというのが、大きな目標です。試験として整合性さえとれればいいじゃないか、しかし、それではふつうのだらしない試験問題と同じになってしまいます。(p83)

 試行調査第2回、第2問の問2についてのご言及だ。
 実はこの問題をめぐっては、僕も何人かの方と意見のやりとりをさせていただいた。というのは、当該設問について、「設問として不成立ではないか?」という主張が識者の間で唱えられていたのだが、僕自身は、「確かに指摘されるようにこの設問は悪問だ。しかし、問題として不成立とまではいえない。すくなくとも、正解の選択肢を導き出すことはできる」と考えていたからだ。簡単に言えば、「問題としてはダメだが、答えは出せる」ということだ。
 この見解については、基本的には、今でも変わっていない。
 実は、共通テスト現代文に限らす、センター試験でも私大の問題でも、「決して問いに答えきれているとはいえないが、他の選択肢と比較すればこれを選ぶしかない」という問題は頻出する。この試行調査第2回、第2問の問2についても、ギリギリその範疇に収まるものであると判断したのだ。
 しかし、ずっとモヤモヤはあった。
 この問題は、設問としてはおそらくギリギリ成立する。
 少なくとも作問者がそのように強弁することはできる。
 しかし、何かが違う…設問としての成立不成立ではなく、もっと根源的なところで、この問題は何かが違う……。
 「試験として整合性さえとれればいいじゃないか、しかし、それではふつうのだらしない試験問題と同じになってしまいます」という先生のご指摘は、僕のこのモヤモヤを言語化してくださった。
 「ふつうのだらしない試験問題」を否定するために生まれてきたはずの大学入学共通テストが、結果として、「試験としての整合性さえとれればいい」というところに矮小化されてしまうなら、これはまさに本末転倒以外の何物でもないのである。

「第2章 複数の資料が泣いている――プレテスト第2問の分析」を読んで考えたこと④

 本章を通じ、引用範囲の恣意的なトリミングによって著書全体の主題が大幅に歪曲されてしまっている点が、たびたび批判されている。出典となった本では〈既存の著作権法の限界と、こらから望まれる著作権法のありかた〉が主題となっているはずなのに、問題作成者は、すべてを〈既存の著作権法〉の中に集約するように設問を作ってしまっていると。
 トリミングによって、文章の主題が出典の意図とはズレてしまうこと、あるいは問題作成者の読みや解釈が設問に反映されてしまうことは、ある意味不可避のことであり、その点は、仕方のない面もあると思う。
 しかし、問題を作成する側の人間が、その責任を無視してよいというわけではまったくない。むしろ、自分がやろうとしていることがどれほどに冒涜的な営みかということは、とことんまで意識すべきだ。
 そしてその責任は、文章を切り刻むという"悪行"をするに足ると誰もが認めるような、良い問題を作成することによって初めて果たせるものであるはずだ。
 予備校講師として教壇に立ってきた経験に鑑みるに、模試や問題集、過去問に引用されている文章を通じ、その本や筆者、テーマに興味を持つ受験生は、実は少なくない。問題作成者が陳腐な内容へと改悪することは、子どもたちからそうした貴重な機会を奪うことに直結するだろう。
 なお、以上はすべて、模試や問題の執筆にも携わる人間として、言葉の最大限の意味における自戒の念をこめてのものである。〈了〉



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