抵抗としての学び

権力を一手に集め、国家を自分たちの思うがままに操ろうと企む側にとって、最も都合のよいことは、この社会に住む市民たちが、思考を他者へと全面的に委ねる集団=大衆へと堕落してしまうことです。これ以上に統制しやすく、それでいて力に満ちた存在はいないですから。

だとするならば、僕たち一人ひとりの学びとは、まさに、権力のそのような思惑に対する真正面からの抵抗である、そう言えるのではないでしょうか。

何も、誰しもが難しい"学問"に挑まねばならない、などというつもりはありません。

昨日までは知らなかった新しい言葉を覚え、使えるようになるだけでもいい。

あの時に苦手だった比例・反比例を復習してみるだけでもいい(僕も「さんすう」からやり直しています)。

あるいは、これまで読もうとも思わなかった本を、1ページめくってみることだって、立派な学びです。

学びによって得た知識、あるいは思考は、大きなうねりに流されそうになる自分を、今、ここに留めておくための、杭になってくれます。自分を飲み込もうとする奔流に抗うための、碇となってくれます。

僕も、学び続けます。

どれほどに絶望的な状況が訪れようとも。



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