紅野謙介『国語教育 混迷する改革』を読んで、予備校講師が考えたこと・その1
2020年1月に紅野謙介先生が出版された『国語教育 混迷する改革』(ちくま新書)。今回の大学入試改革に少なからず翻弄された(笑)一予備校講師として、「お!」などと気になったところを引用しつつ、雑感をつらつらとまとめてみたいと思う。とりとめのない文章にはなろうかと思うが、その点は何卒お許しくださいませ。
「はじめに」への雑感①
入試改革だけではなく、幼児から二〇代前半まで、日本社会を構成する若年層の思考や能力をいっぺんに作り変えていこうという壮大な計画が策定され、進行しつつあるのです。(p9∼10)
紅野先生は、こうした「計画」について、〈十分な議論も為されておらず、具体策もない〉という点を強調なさっている。これについては僕も、心の底から同意したい。
と同時に僕は、このご指摘に、また別の観点からの悪寒も覚えた。
それは、近代的な教育システムと国民国家との共犯関係にまつわるものだ。
良し悪しは措くとしても、学校教育は、近代的政治システムであるところの国民国家の支柱として整備され、機能してきたものだ。だからそもそも論としてそれは、〈権力による国民統制〉のための装置へと転化しやすい。明治維新以来、戦前戦中のこの国の歴史を振り返るだけでも、そのことは明らかなはずだ。
これは浅薄な私見に過ぎないが、戦後の学校教育が目指してきたものは、そのような〈権力による国民統制〉の装置となることをいかに回避するか、という点ではなかったか? ともすれば権力と共犯関係に陥りやすいこの巨大な機構の中で、いかにして権力を相対化するか……。
先生のご指摘なさるように、この改革がもし「日本社会を構成する若年層の思考や能力をいっぺんに作り変えていこうという壮大な計画」であるならば、それはすなわち、このような戦後教育の成果や努力に対する明白な反動なのではあるまいか…?
つまりは、学校教育における国家権力のイニシアティブの強化。
あるいは、トップダウン型の学校教育システムへの回帰。
それも、「幼児から二〇代前半まで」を含む、途方もないレンジを対象とした……。
国家が要求する"人材"を確保するために、教育改革の名のもとに、この国の次世代を担う若者たちをそのニーズに見合った国民集団へと「作り変えてい」く。
この動きに僕は、不穏な空気を感じざるを得ないのだ。
「はじめに」への雑感②
これまで国語科は「読むこと」ばかりを中心に教育して、「話すこと・聞くこと」「書くこと」がおざなりだった。今後は「読むこと」を圧縮して、他の二領域の習得を目指す。新しい指導要領にはそうしたことが書かれています。(p12)
塾・予備校という特殊な場ではあれ、僕も長年、生徒の指導に携わってきた人間だ。そしてその中で、近年とくに痛感していることがある。それは、
「読むこと」と「書くこと」は表裏一体である
ということ。
「読むこと」を徹底することで、学習者は、自分の中にモニターを構築することができる。それは言い換えれば、生徒が自己の思いを書く型――一文の型であれ、文章の型であれ――を手に入れたことを意味する。
逆に今度は「書くこと」を通じて、生徒は自らの「読むこと」を可視化することができる。それはすなわち自己の読みの対象化であり、そうすることで初めて、その読みの誤りにも気づけるし、他者の読みとの比較もできる。それは結果として、「読むこと」の鍛錬そのものなのだ。
だから、先生のおっしゃるように、「新しい指導要領」が「読むこと」を犠牲にして「書くこと」を重視するというのなら、それは文字通り本末転倒だと思う。「書くこと」は「読むこと」の実践の中で習得されていくものであり、同時に「読むこと」もまた、「書くこと」の実践の中で鍛えられていくもの――繰り返すが、それが講師経験20年を超えた僕の、率直な実感なのだ。
「はじめに」への雑感③
(前略)新しい指導要領が実施されてから三年後の、二〇二五年一月に予定される「大学入学共通テスト」Ver.2ではさらにもっと大きな改革を行うと予告がなされています。
新しい教育課程に応じたテストになるので、今回の改革で加えられた部分が一気に増量する可能性がありますし、教科をまたいだ合教科型のテストが用意されるのではないかという予測も出ています。つまり、「英語」とか「国語」とか、「理科」「社会」という教科を超えた試験問題が出るのかもしれません。(p16)
先生はここで、かつての「ゆとり教育」における「総合的な学習」の成果について十分な検証もないままに「教科を超えた問題」を前面に出すのには無理がある、と痛烈な批判を展開なさっている。
そう。
例えば「日本史」と「世界史」を融合するという観点は、もちろん意味のあることだと思う。
しかしながらそれを実現するためには、各教科において何を残し、何を削るのかという点を徹底的に議論しなければならないし、そこで答えを出すには、相当な時間を要するはずだ。そして、これまでよりも知識や情報が錯綜するわけだから、教授法や指導のフレームについても、相応の熟考や試行が不可欠であることになる。
さらに言うなら、横断的な学びの重要性や意義を認めつつも、やはり僕は、とくに高校までは、現行の各分野に限定された、〈分析/総合〉でいうなら〈分析〉的な学習にある程度は集中すべきだと考えている。そこでの知識習得や思考力の鍛錬なくして教科を横断したところで、深い気づきや発見には繋がらないのではないか、と……。
原則は〈分析〉型の学習を前提とし、時々他の教科との連携を図る、というほうが、生徒たちの「おお!」という思いを喚起できると思う。
「はじめに」への雑感④
最後に。
今回のこのご著書の眼目は、第2回試行調査問題の分析にあるわけだが、先生は、その問題点が第1問(記述型)と第2問(実用文・評論文)に典型的に象徴されているとご判断なさっている。だから結果として、第3問(文学的文章…詩・エッセイ)については、単独の章を設けられなかったようだ。
ゲスの勘繰りかもしれないが、おそらく先生は、この第2回試行調査問題の第3問について、〈分析に値しない、言及するだけ無駄な、どうしようもない問題〉とお考えになったのではないだろうか?
私見を申し上げるなら、第1回試行調査問題も、第2回試行調査問題も、最悪の悪問は、この第3問であると思う。そもそも問いとして成立しているのかすら危ぶまれる設問もあることは、ここに強調しておきたい。
加えるなら、その酷さも、第2回においてさらにその程度を増しているのだ。
僕は複数テクスト形式のテストを全否定する立場にはないけれども、おそらく文学的文章の作問においてこそ、この形式の難しさや問題点が、より顕著に把握されるのではないか、と考えている。
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