見出し画像

【本の紹介】荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)

□難度【★★★☆☆】
世間の通念を解体していくような内容なので、その意味で、"簡単に読める"という言い方に馴染む本ではない。ただ、語り口自体は平易で、具体的な体験談から抽象的なテーマへと落とし込んでくれるので、大人の補助付きなら小学校高学年でも読めるはず。中高生からは、独り思索に耽りながら読んでほしい。

□内容、感想など
筆者がとことんまでこだわることの一つに、出来事の固有性がある。具体性である。まさに、「誰の人生も要約させない」という決意である。人間の個別具体性を徹底的に追求しようと試みたのが、本書なのである。

ここで考えたいのは、個別具体的な出来事を言葉で表現することはできるのか、ということだ。

むろん、それは一つの矛盾である。どこまでいっても言葉のアイデンティティはその抽象性にある。個別具体性の捨象にある。だから個別具体的な出来事を言葉で表現するというのは、矛盾である。

では、それは不可能か。

『まとまらない言葉を生きる』の筆者は、そこに一縷の可能性を示唆してくれる。例えば、

自分の力ではどうにもならない事態に直面して、それでも誰かのために何かをしたくて、でもどうしたらいいかわからなくて、それでも何かしたくて……という思いが極まったとき、ふと生まれてくる言葉が「詩」になる。

と述べるとき、「極まっ」た「思い」は「詩」の「言葉」、すなわち言葉ではないことを志向する言葉として表されると言う。例えば、

きっと、人には、人の体温でしか温められないものがある。その体温を、単なる「温度」として捉えるのか、それ以上の「何か」として捉えるのか。この「何か」として受け止めようとする力が「文学」なんじゃないか。

と筆者が言うとき、「それ以上の『何か』」とは、「単なる『温度』」であることを否定する「文学」の言葉で表されるものである。

言葉であることを否定するような詩の言葉。

「何か」、つまりは言語化できない"そのもの"を捉えようとする文学の言葉。

僕は、宮沢賢治「なめとこ山の熊」のラストシーンを想起する。猟師の小十郎と熊とは、殺し殺される関係にある。実際、物語の最後で、熊を殺そうとした小十郎は、熊に殺されている。しかし、そんな両者は、互いのことを愛している。好きなのである。小十郎は熊を愛し、熊も小十郎を愛している。それなのに、殺し殺される間柄であることを強いられ、実際に、殺し殺されている。そんな絶望的な物語の最終場面…愛する小十郎を殺してしまった熊たちが、愛する小十郎の遺体を輪になって囲み、じっと見つめているシーンが、以下である。

 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴(さ)え冴(ざ)えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。
(宮沢賢治「なめとこ山の熊」)

小十郎の顔は、「何か笑っているようにさえ見え」る。そう。「何か」。しかし小十郎の思いは、一切語られない。それは、小十郎がすでに死んでいるからなのか。否。この以前で小十郎の内面に幾度も踏み込んできた語り手であれば、たとえ死後であったとて、その笑みに至った思いを述懐することはできたはずなのだ。
ならばなぜそうしないか。
しないのではない、できないのだ。
なぜできないのか。
ここで小十郎の思いが、ついに純然たる個別具体的なものへと昇華されているからである。
小十郎をじっと見つめる「大きな黒いもの」すなわち熊たちもまた、言葉では表象することのできない次元へと、己れの思いの個別具体性を高めている。だから、語り手も語ることができない。
しかし、この沈黙…僕にはこの光景が、果てしない沈黙として明瞭に想起される…こそが、小十郎の、熊の、個別具体的な思い、決して言葉にはできない出来事がそこにあることを、示している。語らないことによって、語り得ない"それ"がそこにあることを、読み手に感得せしめるのである。そしてここに、僕は、『まとまらない言葉を生きる』の筆者の言う、〈言葉であることを否定するような詩の言葉。「何か」、つまりは言語化できない"そのもの"を捉えようとする文学の言葉〉を感じるのだ。

筆者の真意にはそぐわないかもしれないが、僕はこの一冊を、文学論として読んだ。

□こんな人にオススメ
・人間の尊厳について考えてみたいすべての人々。
・言葉の不可能性と可能性について考えてみたいすべての人々。
・より良き社会の構築について考えてみたいすべての人々。
・真に"他者"とつながることを望むすべての人々。
・大人の補助付きなら小学校高学年から。中高生なら独力で。

https://a.co/hHzTNwP


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?