見出し画像

なぜ現代文学習において多読が必要なのか?

はじめに

 僕は大学受験の現代文講師として、ここまで様々なメディアや場を通じ、現代文学習における「読書」の重要性を力説してきました。教室では生徒たちに「推薦図書」のリストなども配布していますし、自著『無敵の現代文』では、読書の大切さや書籍の紹介などにかなりの字数を費やしています。またnoteでも「大学受験のための読書案内」等のシリーズでは、受験までにぜひ読んでおいてほしい本を紹介しています。
 もちろんそこには、様々な目的や理由があります。
 例えば『無敵の現代文』などでは、〈精読〉というメソッドを実践して読解力や記述力、解答力、そして表現力を要請することに主眼を置きました。そしてこの〈精読〉を通じた訓練が、現代文学習の要となることはここでも強調しておきたいと思います。
 ですが、今回については、「たくさんの文章に目を通すこと」すなわち〈多読〉の重要性について、手短にではありますが、触れてみたく思うんですね。

例題

 さて、いきなりですが、ここで以下の問題を解いてみてください。根拠となる本文は……ほぼありません! 「え!?」とお思いになるでしょうが、とにかく、自分なりに答えを出してみましょう。

問 以下の空欄【   】に当てはまる語として最も適切なものを、ア~オの中から選び、記号で答えなさい。

▶○○○○○○の【   】者である。

ア 具体  イ 充実  ウ 理念  エ 抽象  オ 体現

 「え~? 前後も文脈も何もないのだから、解答のしようがないよ! こんなのは悪問だ!」という声が聞こえてきそうですが、そうではないのですね。この問題は、きちんと答えを決めることができるのです。

例題の解答・解説

 この例題、僕たちに提示されている唯一の根拠は、空欄の後に続く「者」という漢字だけですよね。つまりこの問題のコンセプトは、ア~オの語のなかで「者」という名詞につながることのできるものを識別することにあるわけです。というわけで、一つ一つの語を空欄に当てはめながら、「者」という名詞につながることができるかどうか、確かめてみましょう。すると、

ア 具体+者⇒言えない
イ 充実+者⇒言えない
ウ 理念+者⇒言えない
エ 抽象+者⇒言えない
オ 体現+者⇒言える。よってこれが正解!

となるわけです。

多読の重要性

 では、なぜそれぞれの語と「者」との組み合わせについて、我々は「言える/言えない」という判断をくだせたのでしょうか?
 もちろん、日本語文法や言語学的な見地からいろいろなことは説明できるのかもしれません。ですが、恥ずかしながら僕はそういった学問に疎く、また、仮に知っていたとしても、おそらくは難解で、高校生・受験生の用いる解法へと応用できるようなものではないでしょう。ですからここではあえて、以上のように結論しておきたいと思います。

我々はなぜその表現について「言える/言えない」と判断できるのか? それは、それが日本語の表現として妥当かどうかのセンサーが、我々のうちに内面化されているからだ!

 簡単に言えば、我々がここまで経験してきた日本語表現のなかに、例えば「具体者」「充実者」などのストックがない、だからこそ、そうした表現に出会うと、「理屈はわからないけれど、なんだかおかしい」と、違和感を覚えることができるわけです。そしてこの〈表現レベルでの違和感〉という観点は、上に挙げた例題のような空欄補充問題以外でも、時に相当な威力を発揮する"解法"となる。例えば記述答案を作成するうえでは、それは必須の力とすら言えます。なぜなら自らの記述解答に表現レベルでのミスがないかチェックすることは、合格答案を作成するうえで極めて大切な作業になるわけですから。
 では、どうすればそうしたセンサーを身につけることができるのか?
 その答えはもう明らかですよね。
 そう。それは端的にいって、

良質の文章を数多く読み、大学受験レベルの文章に共有される〈一般的な表現・文体〉を吸収していく

しかない。つまりは、〈多読〉を通じて慣れていくしかない。そしてこの点こそが今回の記事のタイトル「なぜ現代文学習において多読が必要なのか?」についての答えの一つであることは、もちろん言うまでもありません。

蛇足

 僕は以前、中学受験や高校受験の塾で指導していたことがあるのですが、例えばそこでの基礎クラスなら、例題で示したような、〈空欄に語句を当てはめていって、日本語の表現として違和感のあるものは切る〉という"解法"は基本的には教えません。なぜならば小中学生のレベルでは、大半の子が、いまだ〈大量に日本語表現を経験する〉という条件を満たせていないからです。
 でも、大学受験では、あからさまに「日本語表現として違和感の有無」を基準に解答させるような問題がしばしば見られます。これはつまり、「大学への進学を望む者ならば、一定量以上の文章を読み、標準的な日本語表現に慣れ、それについてのセンサーを内面化しておくべき!」という、出題者側からの暗黙のメッセージなのかもしれませんね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?