便意とナショナリズムのあいだ
AustraliaはCairnsから成田空港に戻ってきた瞬間、便意が復活した。あれほど頑なに動くことを拒んでいた腸が、いきなりフル稼働し始める。トイレに駆け込み、用を足し、ふうとため息をつきながら思わず口にしてしまったのは、
「日本のトイレ、良いなあ」
という言葉だった。
帰宅後に食べた権兵衛のおにぎり(梅干し)のうまいこと。
米の味の甘いこと。
たまらずに勢いで作ってしまった味噌汁(わかめ、豆腐、玉ねぎ)の出汁の、体の芯に染みること染みること……。
私は、普段、愛国心とかナショナリズムなる心性について、批判的な姿勢をとっている。これからも、そのスタンスを変えるつもりはない。
けれども、そんな私でも、「この国」という表象のなかに属する様々なものごとについて、愛着を持っている。しかも、もはやそうした思いは、私のなかでの"自然"となってしまってすらいる。腸の活動を律してしまうほどに。
それならば、どうする…?
これは自己矛盾ではないか……
いや、しかし、日本のトイレは捨てがたく、おにぎりは、味噌汁は、自分の肉と血に等しい……
そんなことをつらつらと考え、結局、
具体的なものを具体的なままに愛すること。それをいたずらに抽象化しないこと。それしか、ない
という結論に至った。
パトリオティズム(郷土愛)がナショナリズムを相対化するためのカウンターとなる…といった考え方については、私はそこまで信頼することができない。
けれども、ナショナルなものが"想像"の範疇に属するのであるなら、身の回りの具体的なものごとを、具体的なままに愛すること──言い換えれば、そうした具体的で個々別な愛を、いたずらに敷衍、抽象化しないことは、きっと、私のなかに根深くわだかまるナショナルなものへの欲望を、抑えつけるための方途となるだろう。
私は日本のトイレが好きだ。けれども、それをもって日本や日本人なる抽象的なカテゴリーを称揚するつもりはない。
私は梅干しやおにぎり、味噌汁が好きだ。けれどもそれはあくまで、梅干しやおにぎりや味噌汁が好きだということであり、それ以外に何らの含意もない。
ナショナルな枠組みのなかで主体化することを余儀なくされている私たちの多くは、自覚していようと自覚していまいと、ナショナリズムへの欲望を持たざるを得ない。ならば、そうした心性を相対化するための方途は、一つでも多く持っておきたい。
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