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ざっくり語彙 ~スキマ5分の「スマホでボキャビル!」~ 022

【○○の発見】
大学入試の評論文を読んでいると、しばしば、「○○の発見」といったフレーズに出会うことがあります。そして往々にして、「え…? ○○の発見? ○○なんて、発見も何も、いつだって普通にそこに存在してるはずじゃん……」などと、頭をひねることになる。
とりわけ、「子どもの発見」などという言い方は、その典型ですよね。
子どもなんていう存在は、発見するもしないも、人類の誕生以降必ず存在する発達段階の一ステージであって、それを「発見」などと言うとは、いったいどういうことなのか……?と。

近代以前、僕たちが"子ども"と呼ぶ存在は、そこそこの年齢に達すると、かなりの早い段階から、貴重な労働力として、その社会の中心的な役割を担っていました。つまり僕たちが"子ども"と呼ぶ存在は、その当時は、すでに大人と同じような役割を担う存在として社会に組み込まれ、いわば、「小さな大人」として意味づけられていたわけです。
ところが、近代以降、学校教育制度の整備によって、そうしたかつての「小さな大人」は、一定期間、社会の中心的な場から隔離され、教育されるべき存在と位置付けられるようになる。こうなると、もはや大人と同じような役割を担う存在としての「小さな大人」とは言えなくなるわけであり、結果としてこの時点で、然るべき教育によって訓育されねばならない、大人とは異なる存在としての"子ども"として意識されるようになるわけです。
これが、「子どもの発見」
すなわち、それまでも、僕たちが"子ども"と呼ぶ存在は、そこにいた。しかし、それは"子ども"という、大人とは異なる存在としては認識されていなかった。ところが、種々の要因によって、彼らは大人とは異なる存在としての"子ども"なるものと、認識されるようになった……。
もうお分かりいただけるかと思います。
つまり、「子どもの発見」とは、"これまでは子どもという特異なカテゴリーとして認識されていなかった存在が、大人とは異なる集団として分節化され、子どもという新たなカテゴリーに属する者として認識されるようになった"ということなのですね。
フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』(みすず書房)に詳しく論じられているので、大学に入学してから、ぜひ読んでみてください。難しい、と思ったら、本田和子(ますこ)『異文化としての子ども』(筑摩書房)あたりから入るのもオススメです。
ともあれ、大学入試の評論文で「○○の発見」とあった場合には、〈それまでも存在したけれども、他と異なるような何かとしては意識されていなかった○○が、他とは異なる○○として認識されるようになった〉といった意味で解釈しておけば問題ないでしょう。

~例文~

近代は、人間存在における"理性"の働きの重要性にスポットライトを浴びせた時代であった。それはいわば、"理性の発見"とでも言えるような、認識の画期的な転換点であったともいえる。

~関連知識~
なぜ近代に入ると、「小さな大人」は一定期間、社会の中心的な場から隔離され、教育される存在となったのか。それは、近代以降の国家が、国民国家と呼ばれる形態を採用するようになったことと不可分の関係にあります。国民国家は、領土内に生活する国民"一つのまとまりのある集団"として存在することを前提とする政治システムです。が、そうした"まとまり"を構築するためには、例えば"同じ一つの言語を共有している"という状態を、国民の全般にわたって意識させる必要がありました。では、それはどうすれば可能なのか? その一つの答えが、学校教育ということになります。学校教育を通じて、国家が制定した一つの言語――標準語、あるいは国語――を徹底的に教えることで、国民は"同じ一つの言語を共有する一つのまとまり"として意識されるようになる。こうした背景もあり、かつての「小さな大人」たちは、学校という場に隔離され、一定期間、然るべき教育を受けなければならない"子ども"という存在として、認識されるようになった――いや、「発見」されたということですね。

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