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ブンガクのことば【0072】

Xの森は窓から三丁ばかり離れた右手の方に在った。ずんずん開けて行く大都市のはずれに一廓、ここばかりはそのままに保存されている或る旧大名屋敷の後庭となっていたところ。太古のような老樹の森林。そのXの森の中に一棟、森の老樹と同じような古色を帯びて立っている小さな茶室──今は茶室として使われていない。只、取残された昔のかたみとして、なかば朽ちている軒が、かすかに樹間を通して外から気味悪く窺われていた。──が焼けるのだと、窓の下をわめいて行きちがう人の声々で知った。 ぱしゅ、ぱしゅ。ぱち、ぱち、ぽん。ぽ、ぽん。どしん!! 火勢がすさまじい音を立てて募って行った。

〜岡本かの子「窓」より〜

炎の燃え盛る様を「ぱしゅ、ぱしゅ。ぱち、ぱち、ぽん。ぽ、ぽん。どしん!!」などという、それ自体は稚拙としか言いようのない擬音語で表しているわけだが…これがまったく稚拙とは思えないのだ。むしろ、生々しく、鮮烈な"映像と音声"として、読み手の脳裏に焼きつけられる。
なぜか?
それはひとえに、ここに至るまでの、緻密に構成された記述のありように拠る。
まず、「Xの森は窓から三丁ばかり離れた右手の方に在った」から「かすかに樹間を通して外から気味悪く窺われていた」という箇所まで、茶室についての異様とも言えるほどに冗長な説明が続く。読み手は、ここまでは、一連の叙述を単なる茶室の説明、描写として読むわけだ。ところが「──が焼けるのだ」という表現で受けられることにより、このくだくだしい叙述が、全体で「焼ける」の主語であったことが明かされる。単なる茶室の説明、描写に過ぎないと思われた叙述が、実は、尋常ではないほどに長い長い主語であると突如として明かされた読み手は、皆、相応の驚きを心に覚えるだろう。
こうした過剰な記述、きわめてレトリカルな構成のあとに、この「ぱしゅ、ぱしゅ。ぱち、ぱち、ぽん。ぽ、ぽん。どしん!!」が配置される。そのことで、幼児でも思いつきそうなこの擬音語は、際立った輪郭を持つ表現として、煌々と照射されることになるのである。



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