あしたのジョーを読んだ

仕事がひと段落してしばし自由になる時間が取れたが、
忙しいときは時間ができたらあれをしようこれをしようと思っているものの
いざ余裕ができると急に何もできない自分がいる。
やってた仕事がひと段落すると緊張の糸が切れるというのか、何かに邁進する”ズク”がでない。
これではせっかくの時間を無駄にしてしまうので、久しぶりにノートの記事でも書くことにする。
アウトプットのハードルとは、雑草みたいにほっとくとどんどん丈が伸びて手が付けられなくなるものだから、定期的に、継続的に何でもちょっとでもいいから描くなり書くなりすることで維持管理する必要がある、と以前誰かが言っていた。

というわけで今日読み終わった「あしたのジョー」の感想を書こうと思う。
しかしさすがに漫画史上に残る名作を今更どこの馬の骨とも知れない…事実特に何かの見識のあるわけでもない者が何やかや言ったとて特に目新しいものが出てくるとも思えないが…まあチラ裏の駄文です。
ネタばれを含みます。

アウトプットのハードルが、などともっともらしいことを言ったけど、実際はジョーを読んで興奮したので何か吐き出さずにいられなかったというのが正直なところだ。
面白かった。
私はアニメを先に見ていたので、大筋は知っていたのだがそれでも夢中になったし、アニメとの違いを楽しむこともできた。
原作たる漫画を先に読む方が物の道理だし、その順番で読んだ人は幸いであったかもしれないとも思うが、まあこれは仕方ない。

私はアニメで観た時から金竜飛というキャラクターが好きだった。
一推しだったかも知れない。
これは完全に私の悲劇好きが影響していると思うのだけど。
幼少期に朝鮮戦争の最中、僅かな食料欲しさに行き倒れた自国の軍人を殺してしまい、しかもそれが自分にその食料を与えんがために軍を脱走してきた生き別れの父だったーという体験の為、以来わずかな食事しか身体が受け付けなくなったというバックボーン故、減量に苦しむジョーを普段腹いっぱい食ってやがる「満腹ボクサー」呼ばわりするのは衝撃であった。
あのハングリーで鳴らしたジョーが!
しかしジョーは同じく減量に苦しんでいた力石のことを思って闘い、勝利する。
確かに力石やジョーは減量に挑み、これを克服してリングに上がったが、
金竜飛のそれは言ってしまえばトラウマによる摂食障害であり、
彼は何も克服できなかったことを露呈していたにすぎなかったのだった。
悲しい。

また今回漫画を読んで、カーロス・リベラというキャラクターがさらに好きになった。
彼はかなり人気キャラクターだと思うし、アニメで観た時も当然良かったんだけど、なんだか漫画版はよりかっこよく見えた。なんでだろう?
陽気でプレイボーイな描写がより多かったからかもしれない。
あるいはちばてつやせんせいの画が良かったからかも。
ベネズエラの黒豹の呼び名にふさわしく、肌に斜線のトーンが貼ってあるのだがこれが精悍でかっこいい。
しなやかで強靭なイメージがすごく伝わった。
なぜアミ(ドットのトーン)ではなく線だったのか、どういう基準で使い分けているのかわからないがなんかすごくかっこよかった。
そしてその陽気さかっこよさが際立つほど、終盤廃人となってしまった彼により哀愁を感じずにはいられないのだった。
悲劇好きすぎだろ。いや、皆好きだと思う。
ただの乱暴な悲劇じゃなく、いつもペーソスがあるから。

今回私は文庫本で読んだので、絵が小さいのでそこはもったいなかったが、各巻の最後に有識者のコラムというか、短い「ジョーへの思い」みたいなのが載っていて、それもなかなか興味深かったので良かった。
一番印象深かったのは故・小池一夫先生のお話で、原作者の故・高森朝雄先生とのやり取りである。
同じ漫画原作者同士語らっていたのだが、高森氏に「俺の作で一番のはどれだ」的なことを聞かれ、「あしたのジョー」だと答えたのだそうな。
すると高森氏は少し遠い眼をして、「やっぱりか…」とつぶやく。
「あれはちばてつやの才能だよ。」とこぼした姿に、小池氏は高森氏からちば氏への嫉妬心だろうか、と感じたとのことだった。

実際、ジョーの初稿はちば先生に「これでは伝わらない」と修正されて当時は相当に憤慨したという話も以前どこかで見たが、どこまでがどちらの才能によるものかは外野にはわかりようがない。
が、やはりこの二つの巨大な才能があってこその、奇跡みたいな作品だと思う。
小池氏は前述の文の中で、二人の合同作業を「切り結んだ」と表現していたが、やはりこういう的確な言葉遣いはさすがの一言。
互いにあまりにもまばゆい才能であるがゆえに、色々な思うところはあったかもしれないが、否あったからこそ、きっと全力で切り結んでここまで昇華しえたんでしょう。
これは私の個人的な偏見なのだけど、すごいビックネームが揃って作ったものってそれぞれが別個に作った物から考えると何だか期待外れ…みたいなことがままある気がしていて、それ故スタッフの豪華さを一番に推すような宣伝を見ると私は懐疑的に身構えてしまうのだが、もしかして…この現象の原因の一旦は、切り結んでねえからじゃないのか。
なんか互いに遠慮しちゃうとか、衝突しないように周りが忖度して腫れものに触れるようにやってるとか、わからないが切り結んでないから才能が生かされないことがあるんじゃないか。
偉そうなことを書いているが、正直わかるんだけれど。
衝突したりダメ出しされながらそれでも歯を食いしばって創作をする、嫉妬すら感じる相手にこれでどうだと毎回めげずに話を考えるなんて普通に考えてものすごく苦しい。辛い。私にそんな経験はないし、なんなら逃げてきた側の人間です私。逃げた覚えある。
でも今後は少し、ジョーのような傑作はそうして生まれたのかもしれないということを覚えていようと思う………

あともう一つ思ったのが、人間が描いた漫画の良さである。
これはAIの事を念頭に言っている。
現在の生成AIは様々な問題を抱えているのは聞いているし、
それについて必要な措置や対応は不可欠だろうと思うが、
個人的にはAIという技術そのものの未来には特に批判的な立場ではない。
現在のAIを取り巻く議論から離れ、純粋にロボットが漫画を描くという未来を想像するに、私はそれがどんな作品になるか興味がある。
もしかしたら見たことのねえ完成度のめちゃくちゃ面白い話がみれる…かもしれない。
実際人間が好むお話の型というのはいくつかの分類で大筋決まっているし、アイディアというのも既存のモノの組み合わせであると聞く。
伏線張って回収とかのテクニックは一発でお話を作れるロボの方がうまくやるだろう。
人間はどうしても書きながらつじつまを合わせていくことになりがちなので。
が、
読み手が人間である以上、人間は人間に感情移入しがちである。
ロボットがどんな苦労でその漫画を描いたのかなんてわからない。
そもそも苦労という概念があるかわからないが…
しかしこの漫画は間違いなく人間が描いたと知っていれば、
それがどんな労力をかけて作られているか、多少は推測することができる。
この最終話の線の密度!
この圧倒的な筆致には何らかの意味が!
カケアミやタッチの一本一本をちば先生がどんな情熱をこめて刻み込んだのか………そこになにが込められているのか、何を伝えようとしているのか?
これもおよそ完全にわかるとは決して言えないが、とにかくその熱量のボリュームの一旦は間違いなく伝わってくる。少なくともそう感じる。すごいって思う。これに胸打たれるってことがあるんじゃないだろうか。
商業的なことだけを考えるなら、売り出す際に仮想の著者人格を作ってあたかも人間が描いているように偽装すればこの問題は回避できるが…まあ各個人が全世界に向け気軽に発言できる時代にそんなことを完全に偽装するのも難しいだろう。それに商業的にはそこまでする価値があるかどうか…いやそれは本質的な話ではないので今回は置いておく。
とにかく人間が描いた漫画ってそういう良さあるよなと再確認したということです。

他にもいろいろ思うところはあるけれどこの辺で寝ます。
おやすみ。

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