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ゲンバノミライ(仮)第38話 飲み会モードの明美ちゃん

「何これ? こんなの飲みたいって、意味が分からない」
「あはは。そのうち、ぷふぁ~、ああ、旨い!っていうようになるわよ」
「やってられない!とか、愚痴言いながら、くだをまいたりね」
「そんな風になりたくないな」

若いっていいなあ。
山瀬明美は、吉本奈保の戸惑った表情を見ながら、嬉しい気持ちになっていた。隣にいる森田真知子も、ほほを緩めている。こういう集まりって幸せだ。

山瀬明美は、夫が社長を務める小さな鳶・土工会社で働いている。総務や経理などを取り仕切っているというと聞こえは良いが、実際は、その他もろもろの雑用を一手に引き受けているのに近い。

復興事業を一手に担うコーポレーティッド・ジョイントベンチャー(CJV)の下請に入る際に、森田と知り合った。森田は沿岸部の建設会社を率いているやり手の社長だ。沿岸部の会社だけでは作業の手が間に合わないため、内陸に入った地域を仕事場にしていた山瀬の会社にも声を掛けてきたのだ。
同年代ということで意気投合し、時間が合うと二人で飲む間柄になった。
だが、感染症の問題が起きてからは、そうもいかなくなっていた。

今日は、森田の秘蔵っ子である吉岡の二十歳の誕生日祝いだ。少し感染症が落ち着いていて、早い時間帯でマスクをしながらであれば、何とか大丈夫だろうと考えた。本当は大々的にできれば良かったが、二人の女子会に参加してもらう形にして、3人だけにとどめた。

久しぶりの集まりであり、ちょっと贅沢しようと、山瀬がお気に入りのフレンチレストランを予約して招待したのだ。
奮発してシャンパンを注文した。
手慣れた手つきで静かに栓が抜けられ、フルート型の細身のグラスに静かに注がれる。鮮やかで濃密な泡がシュワシュワと弾けながらグラスの中で踊っている。吉岡は、目を輝かせながらじっと見つめている。

私にもあんな時があったなあ。うらやましい。
でも、こうやって頑張っている若い子にご馳走できることも、すごく嬉しいのだ。

乾杯してから、まずは吉岡に飲んでもらおうと、山瀬と森田はじっと吉岡を見つめていた。
「そんなに見ないでくださいよ。恥ずかしい」
「いいじゃないの。可愛くていいなあ」
「私たちも、奈保ちゃんみたいな時があったのよ」

吉岡が、シャンパンを口にして、おそるおそるゴクッと飲み込んだ。
初めてだから飲みやすい甘口にしてはと森田からは言われたのが、せっかくだから大人の味が良いだろうと、山瀬は辛口を選んだのだ。
吉岡は、ちょっと首をかしげている。
「美味しいような気もするんですが、ちょっとよく分かりません…」
「いいのよ。最初はそういうものよ。私も、こんなにお酒が好きになるなんて思っていなかったもん」
「明美ちゃんの飲みっぷりで、よく言うわね~。私たちもいただきましょう。さあ、改めて奈保ちゃんの大人の門出に乾杯!」

そう森田が掛け声を出した瞬間だった。
携帯で嫌なブザー音が鳴った。

時をおかずに揺れが来た。
長い揺れに感じた。
最近ではちょっと大きめだ。
しばらくすると収まった。

山瀬は、携帯で、CJVの災害リアルタイム情報サイトにアクセスした。震源地や震度、現場カメラなどを確認する。インターネットのニュースサイトでも確認した。森田に目をやった。

「とりあえず、この規模だったら、極端に大きな被害はないと思うけれど。でも心配ね」

山瀬も同意見で、静かにうなずいた。

吉岡が少しこわばった表情をしている。
森田が寄り添って「大丈夫よ」と声を掛けた。
店員も周りの客も落ち着いており、混乱は生じていない。

山瀬は、森田の方を向いて、「お互いお酒に口を付けてないから良かったわ。すぐに旦那を呼ぶから、お互い会社に戻って待機しましょう」と呼び掛けた。
森田は、「ギリギリセーフよ。運転できるのとできないのとでは大違いだわ」と笑顔を見せた。
そして、吉岡に、「奈保ちゃん、せっかくのお祝いだけど、この後のことも心配だから、今日はすぐに帰りましょう」と、諭すように伝えた。吉岡も、見習いのような立場とはいえ、建設会社で働く一員だ。去年の台風の時にも同じような場面があったから、緊急時の振る舞い方は分かってきている。

「今度は、もうちょっと飲みやすい甘口のシャンパンを用意してあげるわ。またリベンジしましょう」
山瀬が笑顔で言うと、吉岡も笑顔でうなずいてくれた。
「その頃には、毎日晩酌してますよ~って言うようになってたりして」
「もう、そんなことないですよ。でも、一人でちょっと練習しようかな」
「駄目よ、勉強もあるんだから」
「はいはい。分かってます~」
「よろしい。頑張りたまえ~。なんてね」
「あはは。また、3人でやりましょう」

シェフは、山瀬の顔馴染みだ。こういう事態になると建設会社がすぐに待機することを知っている。
カウンター越しから、「今日のシャンパンは俺が飲んじゃうから、お代は良いですよ」と声を掛けてくれた。


店の外に出て、森田の方に目をやると、表情が仕事モードに変わっていた。

この後、揺れがなかったら、ただの空振りで終わる。その方が良い。
でも、何か起きるかもしれない。その時に即応できる準備はしておきたい。

会社に戻ったら、どう動くか。

山瀬は、頭の中でシミュレーションしながら、夫の車が来るはずの方向を見つめていた。


※実在の人物や組織、場所、技術などとは一切関係ありません。しかし、現実に、行政の方や建設会社の方などたくさんの人が、こうした動きをされています。大きな災害が起きないことを祈りつつ、こうした方への敬意を込めて、注釈させていただきました。



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