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「無意味」の価値、ちゃんとわかってますか?

下記は、先日のつぶやき。

皆さんは、どちらも同じニュアンスで使っていますか?
ボクは意識的使い分けるようにしています。
(意識し出したばかりで、喋り言葉ではうっかり使ってしまっているかも…笑)

今回は有言実行ということで、ボクが思う「無意味」「無駄」という言葉について、ボクなりに書いていきます。

そもそも

それぞれ、ネット上で辞書を引いてみると以下の通りでした。

む‐いみ【無意味】
[名・形動]意味のないこと。価値なく、つまらないこと。また、そのさま。無意義。ナンセンス。

(goo辞書より引用)
むだ【無駄/▽徒】
[名・形動]
1 役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。無益。
2 「むだぐち」に同じ。

(goo辞書より引用)

ふむふむ。何とも辛辣。(笑)ちなみに、『意味のないこと』ではそのまますぎるので「意味」も辞書で引いてみましょう。

い‐み【意味】
[名](スル)
1 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。
2 ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。
3 価値。重要性。

(goo辞書より引用)

上記の「意味」を「無意味」に代入すると(なんか数学みたい…)

無意味
1 言葉が示す内容がないこと。また、言葉がある物事を示していないこと
2 ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容がないこと。また、表現・行為がある内容を示さないこと
3 価値がないこと。重要性がないこと

こんな感じになります。日本語として設定されたこれらの内容は正しいのだと思います。ただ、ボクはここで2つの点で違和感を覚えてしまいます。それらを少し紐解きたいと思います。

「無意味」と「無・意味」の感覚のズレ

便宜上、最初に引用した辞書の「無意味」と”意味”を代入した「無・意味」を分けて表記します。
まず、「無意味」について、もう一度記します。

む‐いみ【無意味】
[名・形動]意味のないこと。価値なく、つまらないこと。また、そのさま。無意義。ナンセンス。

いくつか書かれていますが、恐らく大抵の人は、これらをほとんど同じ意味だと捉えるのではないでしょうか?実際、辞書でもそういった意味を込めて、分けずに表記していると思います。

では、「無・意味」についても、もう一度記してみます。

無意味
1 言葉が示す内容がないこと。また、言葉がある物事を示していないこと
2 ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容がないこと。また、表現・行為がある内容を示さないこと
3 価値がないこと。重要性がないこと

こちらになると、3つに分けられています。3については、「無意味」と同義として良いでしょう。しかし、1・2についてはニュアンスが異なることにお気づきでしょうか。

それをお話しするのに肝となるのが、上記の中で出てきた言葉たち。羅列をしていくと以下の言葉。

・価値(がない)
・つまらない
・(無)意義
・(ナン)センス
・役に立つ(立たない)
・かい(がない)
・(無)益
・重要性

これらは全て、人間が勝手に生み出した概念です。「価値」なんてものは人間が生んだ後付けだし、その後付けを基準として「面白い」のか「つまらない」のか、「センス」があるのかないのか、「重要」かそうでないかが判断されています。要は人間のエゴと言ってもいいかも知れません。

1・2にはこういった人間のエゴが含まれていません。単純にその物事を指し示す内容が存在していないことを表しています。

ここまで説明したように、「無意味」と「無・意味」には若干のズレがあることはお分かりいただけたでしょうか。正確には「無意味」は「無・意味」の狭義だということになります。

そして、大抵の人はこの狭義の「無意味」を日常的に使っていて、広義の「無・意味」の1・2を意識していないのではないでしょうか?

はい。
ここまで日頃使っている「無意味」という言葉を少し深掘りしてきました。
ここからは「意味」というものができる過程を見ていきたいと思います。

(そろそろ「意味」のゲシュタルト崩壊が始まっていると思いますが、まだまだ続きます…(笑))

万物は「無意味」から始まる

すごく極端な話になりますが、この世の全ての「もの」「事象」はまず『無意味な状態』からスタートするとボクは思います。ここでいう「無意味」とは狭義のものです。

皆さん一度は考えたことないですか?

「宇宙やこの地球は何のために誕生したのだろう」

とか、

「自分の生まれてきた意味って何だろう」

とか、そんな途方もない哲学を考えたことはないですか?ボクはあります。(笑)そして辿り着いた答えは「意味なんてない」です。(ここ、ちゃんとお話しします(笑))

そもそも、先程の考え方で、人間が後付けした価値に左右されるのが「意味」なのであれば人間が関与できない世界や生命、万物の誕生に「意味」が付与される訳がありません。

もしも有神論者がいたら、「神の意思で生み出された。意味はある。」とかいう話になって、恐らく平行線となると思いますが、敢えてそちらの土俵で話すとすれば、「人間の価値観を基準に神の意思や行動の『意味』を説こうなんておこがましい」と思います。(笑)

話を戻します。
スケールの大きな話をしてしまいましたが、もっと小さな事象にだって最初は意味がない状態からスタートすることは当てはまります。人間は、あらゆる意味を持っていなかった万物に「意味」を与えていきます。

意味付けの順序

物事に『意味』が与えられる前には、必ず人間の『欲求』『行動』が先行しているとボクは考えています。

例えば下の図。

名称未設定.001

階段の登り下りは何もないと少し危険です。そこで、たまたま転がっていた棒を壁に固定すると、それを支えに登り下りがしやすくなりました。
元々、それだけでは何の意味もなかった「ただの棒」に「階段を登り下りしやすくする支え」という『意味』が与えられました。そしてその『意味』が与えられた棒には「手摺」という『名前』が与えられています。

つまり、『欲求』→『行動』→『意味』→『名前』という順番で「手摺」というものの概念が生まれています。この順番があらゆるものに適応されるとボクは考えています。

一つ注意するとすれば、『行動』→『意味』の過程は時間差があるものもあれば、ほとんど同時に発生することもあります。ただし、『意味』が『行動』より先行することはありません

誤解

本来、人間が『欲求』を満たすだけなら、『行動』まですれば十分です。しかし、人間は社会的な生き物。『意味』と『名前』はそれらを共有するために生まれます。そして基本的に社会で共有されるのは『名前』という名のアイコンです。人々はその『名前』を見ただけで、それが生まれるまでの過程である『欲求』『行動』『意味』も一緒に共有することになります。

先の「手摺」を例にしましょう。

人に「手摺」について説明しようとすると以下のようになります。

「これは手摺と言います。」:『名前』
   ↓
「手摺とは階段を登り下りしやすくするための支えのことです」:『意味』
   ↓
実際に手摺を使って登り下りしてみる:『行動』
   ↓
登り下りが達成される:『欲求』

つまり、『意味』と『名前』が既に与えられているものが共有される時は、それらが生まれるまでと真逆のプロセスを踏むことになります。

ボクは、これによって多くの人が誤解をしていると思っています。

皆さんがクリエイターなら、上司やクライアントに、提案に対してこんな事を言われたことはないでしょうか。

「どういう意味を込めて、こういうことをしたんですか?」

もし「こういうこと」の部分が手摺のように、既に意味付けがされた『既存のもの』が入るのであれば、問題ありません。

しかし、大抵のクリエイターさんは「新しい何かをつくり、提案する」ことがお仕事ではないでしょうか?

クリエイティブな思考を持てていない多くの人は、物事を『名前』→『意味』→『行動』→『欲求』の順番でしか捉えることができていません。

だから、質問でも『意味』→『行動』の順番で聞いてきます。

しかし、これは的を射ていない質問だということは、もう分かりますよね?

クリエイターは、

「こういうことをする事によって、こんな意味が生まれてくると思うんです!」

という風に、『行動』によって新しい『意味』を提案している訳です。
ここに多くの人の誤解と、クリエイティブな人とそうでない人が相容れない原因があると、ボクは思います。

もう一度、辞書に書かれた「意味」を見てみましょう。

い‐み【意味】
[名](スル)
1 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。
2 ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。
3 価値。重要性。

(goo辞書より引用)

ここまでスルーしていた1・2をちゃんと見てみると、実は1というのは、『名前』→『意味』の事を示していることが分かります。そして2は、『行動』→『意味』を指しています。

クリエイティブでない人は1のつもりで話を進めるけど、クリエイターは2のつもりで考えてる。何とも悲しいすれ違いですね。(笑)

『意味』の付け外し

大抵の人は、『名前』まで付けられた物事をずっとそのままでしか捉えることができません。いわゆる「固定概念」というやつです。

これは、先にも言ったように、物事を『名前』→『意味』→『行動』→『欲求』の順番でしか捉えることができないため、最初の『名前』を取り外すことができないということが生じているのだと思います。

しかし、クリエイティブな人は物事を『欲求』→『行動』→『意味』→『名前』の順番で捉えることができるため、『名前』や『意味』、何なら『行動』だって後付けなのだから付け外し可能だということを、感覚的に理解しているのだと思います。

またまた「手摺」を例にしてみましょう。

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「手摺」は本来、壁に設置された棒でした。壁から外し、床に放っておけば、何の意味もない、それこそ「無意味なただの棒」です。しかし、それを拾い、山道でその棒を地面について歩けば、「歩く時の支え」という『意味』が与えられた「杖」になります。
あるいは、その棒を人に向ければ「武器」になります。
キャンプの時、テントに使えば「ポール」になります。

無意味な状態に戻してから、『欲求』に合わせて『行動』『意味』『名前』を自由に変えることは可能なんです。

「無意味」の可能性

さあ、ここまで説明してきましたが、どうでしょう?

まだ、「無意味」は「価値のないもの」という捉え方になるでしょうか。
ボクからすれば、「無意味」は「これから意味を与えることができる」という風に捉えることができます。
ちょっと前に流行った『伸びしろですねぇ』ってやつですね。(笑)

こんな風に「無意味」に可能性を見出せるかどうかが、「クリエイティブな人」かどうかの一つの判断基準になると思います。

「無駄」について

さて、ずっと放置していた「無駄」について、やっと触れます。(笑)
忘れていると思うのでもう一度見てみましょう。

むだ【無駄/▽徒】
[名・形動]
1 役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。無益。
2 「むだぐち」に同じ。

(goo辞書より引用)

言葉は違いますが、基本的には「無・意味」の3の「価値がない」などと、ほとんど変わりませんね。

まぁここまで説明をしっかり読んでいただいた皆さんなら、ある程度「無意味」との違いが分かりますよね?(わかるって言って……ブルブル)

ただ、ボクは「万物は無意味な状態からスタートする」と言いましたし、「意味は取り外し可能だ」と言いました。つまり、ここまでの説明で行くと、あらゆるものは「意味のある状態」から「意味のない状態」になることはありますが、「無駄な状態」になるタイミングがありません。

例えば、皆さんの部屋に実用書は置いてありますか?

「実用書」つまり「本」は元々、「文字が書かれた紙の集合体」なわけですが、それを「本」たらしめるのは、「専門家のHow toを伝える」という意味があるからで、「読む」ことで「専門家の教えを手に入れる」ことができるからです。

しかし、中には積読状態で読んでないものもあったりしませんか?その場合、それはやはり「文字が書かれた紙の集合体」で、「無意味」と言わざるを得ません。

必要になった時に、その本を開けばそれは「意味のあるもの」に変わり、読み終えて本棚に仕舞えば、また「無意味なもの」に逆戻り。なぜ「無駄なもの」にならないかと言えば、もしかしたら、また読み返すかもしれないし、もしかしたら、押し花や何かを抑えるための「重し」という別の意味が与えられるかもしれないから。

将来的に「意味」が与えられる可能性があるのであれば、それは「無意味」な状態と言えます。

そして、もう読まない。あるいは、もう使わない。という風に、そのものに対して今後「意味」を与えることがないと判断された時、初めてそれは「無意味」から「無駄」に転じます。

どんな時でも必ず「無意味」な状態を経由するわけですね。

この「無意味」と「無駄」の境目がわからないと、「もしかしたら着るかもしれない」と言ってタンスの肥やしがドンドン溜まるなど、捨てられない人となっていくわけです。(人のこと言えない…(笑))

蛇足ですが、「無駄なことも人生には必要だ」なんて言う人いますよね?ボクが思うにそこは「無意味なことも人生には必要だ」の間違いだと思います。無意味な事をしているうちにいつの間にかそれが意味あることに転じることはあり得ることだと思うので、ボクも必要だと思います。無駄なことはどこまで行っても「無駄」なので、さっさと切り捨てた方がいいです。(笑)
まぁこれを言ってしまう人は自分が何もしない、ぼーっとしている時間を正当化したい人だと思います。(汗)

まとめ

無茶苦茶長くなってしまった…
今回の内容をまとめましょう。

・「無意味」には広義のものと狭義のものがあり、狭義は『「人間のエゴが基準とした価値」がないこと』
・物事が生まれる最初はみんな「無意味」からスタートする
・物事は『欲求』→『行動』→『意味』→『名前』の順番で成り立つ
・物事は『名前』→『意味』→『行動』→『欲求』の順番で共有される
・『意味』は付け外しが可能である
「無駄」は「無意味」に意味が与えられないと判断された時に生まれる

以上、「無意味」と「無駄」の違いがわかるかどうかで、クリエイティブな人かどうかがわかる理由を並べていきました。

本当に、軽い論文みたいになってしまって申し訳ない…
こんな役に立たない事を日頃グルグルと考えてしまうのが、ボクの悪い癖です。せめてこの考え事が「無駄」にならないようにこのnoteにこれからもちょくちょくボクが思ってることを書くと思います。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
ここから下は蛇足になります。良ければもう少しだけお付き合いください。

ちなみに…

前半の方で「自分が生まれてきた意味なんてない」と断言してしまったので、少しフォローしようと思います。(笑)

人間が生まれてくる意味と言うのも、他の万物同様「無意味」からスタートすると言うのがボクの考えです。

それは決して皆さんの人生を否定するものではありません

お伝えしてきた通り、『意味』と言うのは『欲求』があり『行動』した先に生まれるものだと言うのがボクの持論です。

人生においても同様です。その人が何かを望み、それを満たすために行動した先に「人生の意味」と言うものが生まれてくると思います。

時には挫折をすることもあるかもしれません。ボクもそうです。何なら今、挫折を味わって絶賛無職です。ダレカシゴトクレ(笑)

挫折を味わうと自分の人生が「無意味」状態に感じて、すごく不安だと思います。でもお伝えしてきた通り、「無意味」は決してネガティブな言葉じゃないと思います。

『伸びしろですねぇ』

これ、すごくいい言葉だと思います。

それにボクは「意味は付け外しが可能だ」と言いました。決して「意味が消えて無くなる」と言うわけではありません。

挫折をした人は、行動をしてきた人です。その先には必ず意味は生まれてるし、今後その意味が消え去ることもありません。

全部がその人の人生の意味になると思ってます。

皆さん、強く生きましょう!
ボクも頑張ります(笑)

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