元気谷は何故ご飯を残さないのか

 私は給食というものを初めて目にした時、その量の多さに開いた口が塞がらなかった。隙間なく敷き詰められた麦ご飯。お椀いっぱいの汁物。250mlの牛乳。おまけの一品煮物。給食の定番とも言える献立だったが、生来少食であった私の腹を十二分に満たす為には十分な量であった。無論、完食することなどできるはずはなく、当然の如く食べ切れなかった分を残した。その残飯が廃棄されることなど知る由もなくー

 以来、私は完食する気などさらさらなく、友人との雑談に興じながら給食の時間を過ごすことが日常となった。時間内に食べきれなかった分は、当たり前のように残す。そんな日が週で5回もあった。あの晴れた夏の日、あの一言を聞くまでは。

 小学校に入って初めての夏休み、幼い私は今にも空中を闊歩しそうな程に浮き足立っていた。その日は、奈良県黒滝村に在る父の実家を訪れていた。祖父は父が高校生の頃に他界しており、大自然の中に在る一軒家には小柄な祖母が一人で暮らしていた。私は、祖母の家に行くと、決まって家のすぐ近くを流れる川に入り、日が暮れるまでずぶ濡れになりながら遊んでいたため、祖母とじっくり話す機会は食事の時を除いてあまりなかった。

 その日の昼食の時も、私は例の如く自慢の少食を家族と祖母の前で堂々と披露し、祖母からは小鳥のような食事量と揶揄された。しかし、その皮肉の効いたヒュウモアの直後に祖母の口から発せられた一言は幼い私の胸を打った。


大東亜戦争の時分は、食べ物も少なかったから、今みたいに残すなんて考えられへんかったんやで


 夏休みが終わり、2学期に入ると私は給食を残さなくなっていた。祖母のあの言葉が原因だったのか、はっきりとしたことはわからない。しかし、何故か提供された食事を残すことに大きな抵抗を覚えるようになっていた。


 中学・高校を経て、大学に進学した私は、しばしば友人と行きつけのチェエン店にて、牛丼を食べている。彼はひどく少食家で、並盛りの牛丼も半分食べると満腹になってしまう程だ。彼が残った牛丼をそのままにし、会計をしようと席を立った刹那、私は無意識のうちに匙を取り、気がつくと友人の残した牛丼は綺麗になくなっている。(その際の私の滑稽なまでの早食いは、恒例行事にもなっている)食事を残すことに生理的な抵抗があるという、この後天的な性質は、遂に他人の残飯を処理するまでに私を至らしめたのである。

 あの夏の日から長い年月が経ち、祖母は他界したが、今でもあの言葉は私の意識の中に棲みついているのだろう。時折、中華料理店や焼肉屋にて、空腹時の勢いに任せて過剰に料理を注文した為に、後々フウドファイトになってしまうことがある。その際にも、私は気合と根性でそれを絶対に完食する。苦しんでまで食べることに何の意味があるのだ、と自分でも分からなくなる時がある。だが、それでいい。私の消化器官の健康の為にも、注文の量は今後、真面目に取り組まなくてはならない課題であるが。

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