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カムカム神回 ふたたび(その2)

どもども。こんばんは。

今日は余計な脱線する前に。
前回のつづき。
カムカムエヴリバディの新たな神回について、じっくり語ってみたいと思う。

知っての通り、カムカムは、非常にハイクオリティな作品だ。
脚本から演出、技術、美術、そして演者の芝居まで、全てにおいて完成度が高く、観ていて本当に気持ちがよく、素晴らしいと感服させられる回もたくさんある。

その中でも特に、全パーツがカチリと音を立てて符号したかのように、得も言われぬ一体感、高揚感、そして完璧な腹落ち感に包まれ、清々しい感動で胸がいっぱいになったとき、私はそれを「神回」と呼んでいる。

たとえば先々週のカムカムを例にとると。

安定の安達もじりが演出を担当した週だったこともあり、心震えるシーンは多々あった。

例えば第17話。空襲の翌朝、家族を死なせた後悔の念から、自宅の焼け跡で慟哭するヒロイン父。
このときの焼け野原の作り込みは、最大級の賛辞を送りたいほど見事で、美術スタッフ方のガチガチのガチ本気を見せてもらった気がした。
また、ヒロイン父の甲本雅裕の芝居も圧巻だった。
全ての感情が削げ落ちた空虚な顔、心にぽっかり空いた穴の如くぽっかり開かれた口、そこから漆黒の闇とともに零れ出る悔恨の叫び。
それは観る者の心にズドンと重く響いた。

また、第18話もとても印象的だった。
心身とも衰弱したまま回復せず、まるで生きることを放棄してしまったようなヒロイン父が、娘の作ったお供えのおはぎをトリガーに和菓子職人としての自分をやっと取り戻し、台風の中、焼け跡から砂糖を掘り起こす最後のシーン。
「あねんまじぃおはぎを供えられたんじゃ、小しずらも安心して成仏できんわ」と言って、痩せ細ったシワシワの顔で、久しぶりに見せた照れ笑い。
その笑顔はとびきりの絶品で、観ていてなんだか無性に泣きたくなるほど、温かくも切なかった。
カムカムの名シーンとして、語り継がれるに違いない。

名シーンというなら、第20話も忘れてはならないだろう。
稔さんの戦死通告を見て、思考が停止し、茫然自失の体でいつもの神社へ足を向けるヒロイン。
その道中、すっと周りの音が消える。
風にざわつく木々。不調和に揺れる光と画。よたよたと走るヒロインの背中。
無音であっても、それらが雄弁にヒロインの心情を我々に語りかけてきて。
「稔さん、稔さん」とただひたすら繰り返すヒロインの声が、まるで祈りのように響いて。
40秒にわたる無音の演出は、緊迫感や息苦しさを見事に増幅させ、続く慟哭のシーンを一層際立たせた。
紛うことなき名シーンだ。

だが。
数々の名シーンを有していても、私はいずれの回も「神回」とは思わなかった。 
この週は、暗く重い戦争の影の下、たくさんの死が続けざまに描かれた。
観る側はその辛すぎるストーリーに毎度衝撃を受け、展開をなんとか受容するだけで手一杯の状態だった。
脚本や演出の意図に思考を巡らせたり、作品を俯瞰的に堪能したり、ましてや「神回だね!」なんて盛り上がるどころではなかったのだ。

それに、内容が内容だけに、腹落ち感や熱い感動といった要素がどうしても欠けていた。
神回はやはり、爽快なカタルシスがないといけない。
(ちなみに、第18話の最後、ヒロイン父の笑顔のシーンについては、そこだけ見るとかなりいい線まで行っていたように思うが、翌日の展開があまりに仰天すぎて、じゃあなんで丸2日もかけて父の再生をあそこまで丁寧に描いたんだって後日色々考えてみてもどうしても腑に落ちず、せっかく甲本雅裕が名演技を繰り出し、凄惨な焼け野原からの復興アイコンとなり得た名場面が、なんだかブラフ扱いされたみたいで、本当に素晴らしいシーンなだけに残念すぎて、この肩すかしは流石にやりすぎのような気がして、神回には入れたくないなと思ったのだ、って説明長いな私。笑)

そんなわけで「神回」はしばらくお預けだったわけだが。

ついに今週。
ついに来た来た、カムカム神回!

今週のサブタイトルは「1948」、初めての単年だ。
終戦から3年を経て、ヒロインも周りも気持ちの整理がついたのだろう。生活も心もやっと落ち着いて、何か大きな転機を迎えるのかな。だから展開のペースを緩め、しっかり分厚く描くのかな。
そんなふうに思っていた。観るまでは。

だが。
実際には真逆だった。
人々にとって、戦争は、そんな簡単に整理のつくようなものではなかったのだ。

進駐軍の軍人に卑屈に謝り続ける花屋の老婆。
息子を殺したかもしれない国の音楽をかけることに複雑な顔をして酒を呷るジャズ喫茶のマスター。
息子を殺した国の歌なんか聞きたくないとラジオ英語を消す稔さんの母。
なぜ自分は父を殺した国の言葉を学ぶのかと尋ねるヒロインの娘。
虚を衝かれて娘の問いに答えられないヒロイン。 

戦勝国と敗戦国。
その間に横たわる、深く暗い溝。

日本は戦争に負けたのだ。
敗戦はきっと、衝撃で、屈辱で、痛恨の極みで。各々の心に深い瘢痕を残していて。
まして、戦争で家族を失った者にとってみれば、アメリカは「家族を殺した国」なのだ。
その痛みは、その恨みは、簡単に消えるわけもなくて。

加えて、進駐軍の豊かさを見るにつけ、己の悲惨な状況や暮らしぶりと比較せざるを得ず、ますます卑屈な気分に陥る。
日本は当時、そんな閉塞感で覆われていたのだ。

終戦からもう3年も経っているから、などと簡単には片付けられない。片付けてはいけない。
暗い思いを皆それぞれが腹の底に抱えたまま、ひっそりとわだかまりが鬱積されていた、1948年。

そうか、1948年はこんな位置付けだったのか。1948年を描くというのは、こういうことなのか。

敗戦を経験していない私は、初めて思い至った。

戦後の復興を描いたドラマや映画は数多くある。
しかし、大抵は、前向きなパワーを持った登場人物たちが、終戦から逞しく立ち上がり、逞しく生きていくというパターンになることが多い。
(戦犯や戦争協力等、戦争の暗部をテーマに据えた作品もたまにあるが、軍人や政治家、著名人等が主役で、史実として有名だから避けて通れないという事情ありきの選択が大半な気がする。)

カムカムも、やろうと思えば、戦争からの解放や復興を、もっと違う角度からもっと希望を前面に押し出して描くこともできたはずだ。
尺を考慮すると、その方が楽な展開だったに違いない。
だが。そうはしなかった。
敗戦国日本の無辜の民に、あえて時間をかけて丁寧に光を当て、戦勝国に対し戦後ずっと抱き続けるわだかまりや卑屈な心情を、特段の外連味も加えず、当たり前の態で、日常の些細な会話を通じて、さりげなくあるがままに伝えたのだ。

凄いなぁ、カムカム。
1948年を真っ向から捉えて描き切る、その覚悟。
かっこいいなぁ。惚れるなぁ。

でも、と私は心配になる。
ヒロインは英語が好きなのだ。
そして英語はこの作品の重要な主軸でもあるのだ。
それなのに、最愛の娘から、英語は「稔さんを殺した国」の言葉だという生々しい事実を突き付けられ、これからどうするのだろう。
作品として、どう折り合いをつけるのだろう。

そう思っていたら。
木曜日の第29話、気づけばヒロインは、やるせない気持ちを進駐軍の中佐にぶつけていた。
「Why am I still studying English when my husband is not with me anymore? Tell me…」
(夫はもういないのに、なぜ私はまだ英語の勉強を続けているのでしょう。教えてください。)

英語にナチュラルに感情を乗せ、長回しも難なくこなす上白石萌音の英語力と演技力には、感嘆するしかない。
(でもラジオ英語の独学のみであそこまで英会話が達者になるものだろうか、花屋のシーンでは拙くしゃべっていたのに急にどうした、、、なんていうツッコミはこの際我慢するとして。)
英語だからこそ、相手がアメリカ人だからこそ、ヒロインは胸の内を吐露できたのだろう。

その切実な問いかけに対し、中佐はこう返す。
「There's a place I want to take you」
(連れて行きたい場所がある)

そしてヒロインを進駐軍のクリスマスパーティー会場へと連れて行くのだ。

いやいやいや、回答になってないし!
しかも、どこ連れてくの!それ、逆効果!
アメリカの豊かさを今見せつけるの止めてあげて!
ほら、安子ちゃんの目、明らかキレてるやん!!

今度こそ我慢しきれず、ツッコミが口から飛び出す。
そんなハラハラする視聴者の目に飛び込む「TO BE CONTINUED」の文字。

それは、今思い返せば、神回へと続く完璧すぎる前フリだった。

そして、物語は「神回」第30話を迎える。
このツッコミどころ満載の事態をどう収めるのか、心配しかなかったのだが。

だが、しかし。
ふいに始まった「Silent night」のアカペラが、全ての流れを変える。
会場のあちこちで、目頭を押さえる人や、それを慰める人が現れ、場は一気に静粛になり、中佐はしみじみ言うのだ。
クリスマスは大切な人を想う日なのだと。
亡くなった人たちが安らかに眠れるように、この聖なる夜に祈りたい。愛する人を失ったあなたや、すべての日本人のためにも、と。

今まで「Silent night」は100回以上聞いてきたが、綺麗な曲と思うことはあっても、さほど心を動かされることはなかった。
だが今回、カムカムの舞台から流れてくる歌声を改めて聴くと、なんと魂が清められる鎮魂歌であることか。
深深とした静粛さと豊かな叙情を併せ持つ響きに心揺さぶれ、厳粛な気持ちになり、居住まいを正したくなった。

ヒロインも同じだったのだろう。
怒りの表情が消え、思わず歌声に耳を澄ませる。
すると、目裏に次々浮かんでくる、懐かしい大切な人々の姿。

ここの脚本と演出がとてもいい。
一人の日本人が、進駐軍人の言葉により、アメリカ人の心を理解し、英語の歌に共鳴し、癒され、救われる。
その数分間を、演者も制作陣もとても丁寧に大切に表現していて、画と音がひたすら温かく優しく、観る者の心に沁みわたるのだ。

敗戦国も戦勝国もなく、ただ大切な人の死を悼む同じ気持ちを持った者同士が集う場で。
ヒロインは、美しい歌の調べに包まれ、在りし日の家族との情景を思い浮かべながら、清らかな涙を流し続ける。

このとき、ヒロインの胸底にあった戦争やアメリカに纏わる諸々の痼は、涙とともに溶け出し、昇華されたに違いない。

そして、中佐は言葉を重ねる。
「私は亡き妻と出会わなければ、この国に来ることもなかった。
あなたも同じではないですか。
ご主人と出会わなかったら、英語とも出会わなかった。
毎日radioで英語の勉強をすることもなかった。
ご主人と出会ったから、あなたは今日も生きている。」

ヒロインと英語についての解を、ここに持ってくるとは。

中佐も愛する人を亡くした過去があり、その実体験に裏打ちされた言葉は、説得力も十分で。
ヒロインと稔さんと英語を運命として結びつけ、真心を込めた言葉でその意義を諭されたら、もはや納得するしかない。
これはもう、不可避の因果因縁なのだと。

そんな中、ステージから届けられる「On the Sunny Side of the Street」。
思い出の曲とともにまさかのマスター登場に、ヒロインが驚いていると、中佐がまたしてもいいことを言う。
ご主人は、娘さんだけでなく、きっとあなたにも「ひなたの道」を歩いてほしいと望んでいた、と。
その瞬間、ヒロインの心に鮮やかに蘇ったのは、稔さんの甘く優しい「メリークリスマス」の声だった。

これでもかという怒涛のダメ押し波状攻撃に、こちらまでキュンキュンやられっぱなしだ。
況や、ヒロインは。
先ほどまで心を覆っていた暗い靄は完全に消え去り、晴れ渡る青空に太陽が輝き出したことだろう。
これでヒロインはきっと大丈夫。
蒼穹の下、前を向いて堂々と「ひなたの道」を進むことができる。
そう思わせてくれた、清々しい15分間だった。

そして、さらに。
忘れてはならないのは、この15分で心を再生できた人間がもう一人いたということだ。

そう、ジャズ喫茶のマスター。
彼は、息子が戦場から帰ってきておらず、本当はアメリカの音楽に憧れと尊敬を抱いているはずなのに、真っ直ぐ向き合えない。
そんな自分の葛藤を、ニヒルにせせら笑いながら、昼間から酒を飲むことで、なんとか誤魔化して生きていた。

だが、このクリスマスパーティーの会場で。
音楽に魅せられ、キラキラの瞳でステージを見つめたまま動こうとしない少年を見かけたことで。
唐突に思い出すのだ。
稔さんの「ひなたの道」の話を。

どこの国の音楽でも自由に聴ける。
自由に演奏できる。
自分たちの子供にはそんな世界を生きてほしい。

そう願った稔はもういない。
息子のように可愛がった稔。
自分の息子と同じようにいなくなってしまった。
だが、彼の願いは、今もこうして息づいている。
目の前の子供は、アメリカの音楽を聴いて、こんなにも楽しそうじゃないか。
演奏したくてうずうずしてるじゃないか。
子供たちにそんな世界を。
ひなたの道を。
息子だって、そう望んでいるかもしれない。
あいつもアメリカの音楽が大好きな子供だった。
俺だってやってやる。
そうだ、うじうじ悩むことなんかない。
息子たちの願いを俺がかなえるんだ。

と思ったかどうかは定かではないが、私にはそう見えた。
稔さんを想い、息子を想い、子供たちを想い、音楽を想い、そうして彼は初めて、未来へ真っ直ぐ目を向けることができたのではないかと。

うるんだ瞳で前方を見つめ、ニヒルではない本当の笑みを浮かべながら何度も頷くマスターの姿は、とても人間味にあふれていて、辛さや葛藤を今まさに乗り越えようとする心がひしひしと伝わってきて、私の涙腺は崩壊したのだった。

その後のマスターこと世良公則の圧巻のステージパフォーマンスは、言わずもがなだろう。
アメリカの音楽を、稔さんの特別な曲を、再生した魂で、ありったけの願いを込めて。
本当にかっこよかった。最高だった。

でも何より素敵だったのは、ヒロインが伝えた稔さんの願いが、マスターの荒んだ心を再生に導いたということ。
そしてその結果、「ひなたの道」の願いを込めたマスターの「On the Sunny Side of the Street」が、今度は逆にヒロインの心に届き、彼女の昇華と再生に寄与したということ。

そしてそして、もしかしたら、ステージ袖にいたキラキラ瞳の少年も、このときのこの曲を契機に、これから音楽の道へ進むかもしれない。
そしたら、いつか、彼の奏でる「On the Sunny Side of the Street」を大阪でるいが聴く、なんて日が来たりして。(妄想)

幾重にも願いが重なり、くるくると巡り巡って繋がり拡がっていく。
これぞカムカムの真髄ではないか。

このクリスマスの夜は、1週間を費やし真摯に丁寧に向き合ってきた「1948年」を締め括るにふさわしい、本当に最高の夜で。

最高の神回だった。

※ ※ ※

ということで。
カムカム「神回」の話でした。

うわー、6000字超えてる…
うわー、長々ごめんなさい。

最後まで読んでくださった奇特な皆さま、本当にありがとうございました。

また神回きたら、熱く語りますね!

…え?もうおなかいっぱい?

そんなこと言わずにー。

ほなまた!

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