見出し画像

『はつゆきさくら』のメモ

 この文章はSAGA PLANETSのゲーム『はつゆきさくら』のネタバレ考察記事です。ネタバレしたくない方や考察が苦手な方はご遠慮ください。 

恋愛のディスクール

コノハサクヤ

 桜(ゴーストプリンセス)。記紀以前の神話。賢木?それともなんらかの政治的な工作で「修正」があるのか。一方コノハサクヤは明白に編集された神話のディスクールの位置にある。したがってそれは発光の召還によるエクリチュールの俳優として人間同士の利害関係を調整する役目を持つ(内田川邊(佐々木恭吾)=宮東閑=カスガ代行)。先生=教育=伝播(電波)。しかし彼女が学生として過ごすうちにメルヘン=おとぎ話としての甘さを持つ。季節の象徴と移り変わりの意味作用。歴史ではなく。超越的ではなく。宗教的ではなく。卒業=存在の証明書(無垢)。内田川邊への積雪の呪いは初雪への初恋と花嫁の未来と桜の精霊という三つの身分に重複している。ヒステリーは狡猾に偶然として断片化されている→噂話。

 がんもどき:羽の生えた生き物の見立て。神と人との中間地点。二位(三位)一体攻撃→神獣、怪物、幽霊、精霊。変容する身体。僧侶の禁忌を半分だけ破り守る口実。もどき(擬態)。鳥居『とりにくがとりにくい』。花嫁の犠牲。エクリチュールの贈与は個人の宛先ではテロリズムになる。料理の配分/剥奪。現金を自動販売機で使われる。うさぎ=伴侶種。うさぎは餌→テキストの魅惑に向かって走る換喩対象。列車に乗り込むゴールドカード→タマキン→玉樹。乗客(読者)への無防備さの餌食。そして服=学生のコード(コート)として戻ってくる。

 おでん:元々は田楽を意味する女房言葉。胴串(うなずきの糸、心棒)。玉串(榊の枝、供物)。串差し(突き刺される感覚と敏感な部分の肌)。焼酎→蒸留→雪(物理)。ちくわ→魚のすり身→ファインディングニモ? 言葉=調理によって恋に貫かれる。田植え→冬(増ゆ、殖ゆ)→豊作祈願。味噌=大便=穢れ(付着する物)。老人の英気が養われる。チケット→仮面劇の演武。ただし男女はエクリチュールの無常さによって席の場所から引き離され、ゲロを吐き、現実のリアリティに対する距離を喪失する。拒絶による終焉。罪の街(禁止-侵犯の愛)

 反魂香:舞台装置=演出。回転軸の足使い。あるいは中毒=トランスメディアの中継的な分岐点。依存性は排除されているが逆に情念的な、感情的な依存は死者の姿として強調される。甘く焼け焦げた匂い。喪、あるいは深い悲しみ、胸に穿たれた穴。悲しみが理解できない人間には異臭として、強烈な刺激臭として体験される。しかしもちろんプレイヤーにとっては臭い(匂い)はしないため、フラッシュバックと同じやり方で効果=表象が遂行される。オナニーの構造と分離しがたく、その説明を特定の抱きしめの愛情として分離する必要が生じる。ただしその対象でない相手は「小便臭いガキ」として軽蔑的に犬のように扱われる。アニメーション・スプライト。対称命題→猫(獣のファンタズム=孤独の幻)。

 学生生活のタイムリミット。むき出しにされた知覚と自然災害の卑小な身体のギャップ。藪睨み→認識過剰による視覚の現象面の衰退。突いてでてくる言葉は誰の物でもない純粋な加害性の言辞。優しさを表明することが部屋への密封に繋がるような囁き声の音源の脅迫。この作品のもっとも基本的な前提は河野初雪が「誰かに何らかの危害を加える形で」復讐を実行する動機はまったくない、ということである。しかし同時に政治的なディスクールが彼を「生者」として扱うためには父権的な至高権(テレビの記号操作の)と地縁的な継承の霊媒的な集合として復讐を代行する王の器としての役割(ゴーストチャイルド)を演じることなしには社会的な承認は「共同体の権利として」決して生じないという二重の囲い込みによって愛情の不在の場所が求められる。復讐が人形劇であり代行であり、不条理であり盲目的な崇拝であるといかに思い込もうと呪いが死者の説明=記憶を呼び戻さない限り魂への態度は幻想に唯物化される。母からの遺棄の恐怖。いない/いた遊びのゴースト。アキラの無念。その場合にゴーストチャイルドとゴーストプリンセスの契りが「確定し」内田川邊の街を滅ぼす。そうであるにもかかわらず、彼には生活の基盤が欠けている(カスガ=内田川邊のバックアップがない)。分派としての分裂。エクリチュールの因果性と継起性の混同(日付の盗み)。喫茶店住まいというテレビ的な人形の中継地。なので読み進めようとするとホテルのランの追憶に送り返される。養育氏族の家族形態(母、姉、妹)→喫茶カンテラ(ラン、綾、シロクマ)。

東雲希

東雲希

 派生的な武家政権の家柄の代名詞。テレビのジェンダーコードにおいて性別が擬制的に変更されている。特に東雲兄妹。長子相続と王位継承が重ならない母系種のコード。「妻」という名前は明らかにそれを物語っている。人妻→王の側近の女性。しかしだからこそ眼鏡で電波を遮断する明晰な男性としての役割を持っているがそれは放送の観念的倒錯を「物語の事実確認」として信念のように持ち込まざるを得ないためである。テレビの知名度や有名さの権威筋の紹介。したがって初雪の「親友」。腐れ縁ともいう。逆に希はテレビや漫画のヒーローの姿や勇姿を他性として「現実化」する。高スペックな身体として。「噂話にも交渉にも実力行使にも負けない圧倒的な強さ」。しかし「おっぱいに罪はない」。母ではない。少なくとも精神分析的な「よい」対象ではない。お子様ランチ。まりもの増殖。意味不明さ、方向感覚の欠如。学習可能なモデルを見失いがちになる。優秀過ぎて学生としての本分では満足できない。でも人間関係の文脈はあまりに誠実な態度で対応する。それゆえ指示作用と命令形の文章の判別が苦手になる。なのでそれにとらわれない家族の至高権=王を持つ初雪の「情熱(復讐)」を見習いたいと思う。「ホワイトグラデュエーション!」苦しいのが好き。自己の追い詰めで実力を測ろうとするが対等さの距離感は掴めない。その意味では個性を発揮したいと考える「白咲ヤンキース」の4人と似ている。進路指導(恋愛として、卒業として)。二人だけの世界で勝手にヒートアップする子供の変身願望。性的な享楽のモードの鳴き声の模倣。しかし政治的ディスクールには全く関係を持たない。(愛している人の喜んでいる姿しか眼中にない)。献身の、告白主義の戦略性。虚構=フィクションの再構成。それにも関わらず去勢には屈しない(長髪)。

 「白咲ヤンキース」(久保、室屋、竹田、金崎)は初雪を大文字の他者として見立てた時の小文字の他者(久保)を中心の不在として構成される別グループ。野球-雑誌(報映権)的共同体。彼(彼女)らは教師=知っていると想定される主体=分析家である来栖三木からのメール(脅迫/恋文)から初雪との関りを持つ。
 久保完→いなければならない不在(初雪)ではなくて、いなくてもいい存在として必要な代補。したがって象徴的ではなく小物(実力不足)の次元にある。初雪に名前を覚えてもらえない。竹田に何か言おうとするが相手にされない。そうであるにもかかわらず「一般人」としての構造を己を見失わずに仲間たちを正確に下支え(インフラ)するのは彼である。過去のダサさからの脱却と噂話に対する頑健さ。男性が恋の構造に囚われると男女(おとこおんな)になる。おかしなテンションと気持ち悪さ(可愛さ)。お礼参り。反逆の応援。
 室屋透→他の人間から変態的な性癖を隠し持っていると疑われている。なにをやらせてもそつがなく手ごたえがない。バスケ部主将。マネージャーに対して恋のダンクシュートを決める。外見はホストっぽいが進学せずに実家を継ぎ告白したマネージャーと堅実に結婚したいと考えている。愛の要約。彼は「腹心の友」の神話的な形姿である。(よくある恋愛の馬鹿話をしたり、告白して振られたりする役割のキャラ)。しかし見立てがあるのは初雪の方なので、久保の友達であるが安定性の高い受容力のあるキャラクターになり積極性や事態を変えるようなイニシアチブを持たない。だから初雪に恋愛相談をすることになる。趣向を凝らす。拒絶を乗り越える気楽さ(王様ゲーム)。
 竹田直子→お金持ちの令嬢(ホンモノ)。しかし彼女は「貴族階級」ではない(シロクマと違って政治的ディスクールではない)。ファッションブランドの紹介。制服を売って無免事故を起こした「幼馴染み」の頼みを退学の危機があるにもかかわらず聞いてしまう。情に対して優柔不断というより、それしかないからなんとなくでやってしまう。お金の稼ぎ方がわからないにもかかわらずお金持ちであることから家の「所属」がないという推測が立てられる。(声=売春と混同される姻戚関係。家族に迷惑をかけたくない)。「仲間」しかいない(顔-グループ)。仲間を大切にしているが、それを言われると初雪のように本心を隠して悪口を言う(照れる)。彼女は桜を通してではなく初雪自身に「共感」している数少ない人物の一人。しかしだからこそ彼女の態度は煮え切らないものになる。発話のメッセージの食い違い。初雪を(実質的に)助けられるのが財政的な援助でしかないことの微妙さ(カンテラ通い)。好意を持っているがそれを口に出すことはできないので歌のモチーフの素材として扱おうとする。それは「メリーゴーランドをぶっ壊せ」政治的ディスクールの脱線-攪乱である。威圧的ではないが錘を付けた感情で叫ぶことはライブでしかできない。
 金崎恵→本屋の娘。からかうのが好き。身体を持て余しているが実際に事に及ぶ気はない。動画を撮ってちはほやされたがっている。女性が好き(ガチではない)。竹田からは経験豊富な男よりも童貞の方を狙っていると思われている。室屋からはガキ扱いされている。初雪はヘタレであることがわかっている「じゅんすいな」玩具。希に対する態度を見ると、彼女がませている振りをしているが実際は肉体的な性愛についての知識に純粋であることがわかる。グラビアの裸身切り抜きはゴーストや感情的な対象ではなく皮膚の薄さに対する欲求不満のイラつきが「浅い」態度しか取れないことのもどかしさを表現している。モード=書かれた衣服に対する空気を読む態度への反抗。進路としてやりたいことが学生の本分と無関係。なので親身になるという態度がどうしても浮ついてしまう。「想像界の対象としてのおっぱい」とみなされたくない。しかし男性に「中に」入られたくない。なので初雪の「直接的な」愛情をおちょくれる。エロ本-グラビアモデルとエロゲーの対立点。桜に対する隠された報われない思い。マスコットではなくゴーストに肉(身体)を。

あずま夜

あずま夜

 メッセージと伝聞の一般常識的な隠蔽。匿名掲示板で募集されるストレス発散の金銭的レトリックの介入。内田川邊の外線ネットワーク的な人身奉納。しかしそれは書かれた文面の意図を伝えるための知能ではない。プログラム=コードによる音声変換の反響的な置換によるログ消去の誤配。無意識の外示的モード→ファントムローズの香水/桜の隠喩的連鎖。あずま夜への初雪の態度は最初、反魂香の負債を取り除くための身体への性的侵犯という立場からアイスダンスのパートナーとして不良やゴーストなどの噂による存在の代入機構の貶めから守ろうとする。態度を改めさせる「代入機構への貶め」。まさにこの作品の核心部分。あずま夜が玉樹桜との仲がいい理由。まず前提として内田川邊の街には桜の事件とは無関係に噂話による防衛が存在する。それは内田と川邉という二つの市町村の「統合」の軋轢の結果であり、それを佐々木と宮東閑がディスクールとエクリチュールの両面から護持しようとしている。ディスクール側は学生という身分が(佐々木は白咲学園の校長である)、エクリチュール側はゴーストのバニッシュと桜を討つための反魂香のばらまきによる悪影響を金銭的に「解決」するという宮東の占いの二重操作がある。ゲーム的な操作からはモードの記号の意味作用という音節的な囲い込みがシナリオの抑揚を支えている(シロクマの受験勉強)。あずまはこの操作の二重性のどちらも侵犯する___ただし社会的な規則の違反や政治的暴力事件などは一切関係なしに(一人飯と「処女だもん!」)___という理由で噂話の対象となる。何が違反なのか。魔女の生意気さのコード(ナイトメア-メアの衣装はカスガのエクリチュールの対象ではない。それは蟲毒=虫の蠢きと区別できない)とアイスダンスの俳優的な側面に対する挫折と栄光のテレビ的な支配権への挑戦(母系氏族でも家父長的でもない小市民家庭-夫婦-姉弟)という点である。このどちらも桜との関係をゴーストとして彷彿させるからこそまったくエクリチュールの種類が違うにもかかわらず呪いと換喩的伝染の噂話の標的となる。類似的な表題:フィギュアスケート⇔アイスダンス。リンクの上での氷面下のもがき。だから共通点はカスガ側から意図的にばらまかれた反魂香がきっかけになって生じる。故に初雪との接触は完全に偶然というわけではない。他者の神話体系への呼びかけ→ゴーストチャイルド(王)。まさに元カスガ側のホストである大野敦が桜と初雪に巫女と霊媒師の家系として新興勢力に対する政略結婚をしようとしたのと同じ理由。したがって内田川邊の住人は無意識的に噂話の媒体となって桜の呪いの跳ね返しを行う。ただし標的はまちがったままで、あるいはまったくの悪意の反転的な伝聞によって(交叉イトコ婚の構造。ミクの「おにーちゃん攻撃」とか元選手の贖罪の振りとか。これは佐々木の贖罪の身振りの反映に見える。彼が「本心から」贖罪することにいかなる政治的意味もない→バレンタイン祭)。俳優的な身振りとエクリチュールの個人性を代入操作で「転倒」させる(アイスダンスの舞台でも)。内面の自由の侵害と抑圧の統合を妨げる声。「うざい」→ウザギの着ぐるみ→中の人。まさに人が別人に成りたいと願うその情念を捻じ曲げて利用するトリック。あずま夜にコノハサクヤもランも共感している理由はまさにあずまの敵は「内田川邊」だからであり、カスガとか政治とかは関係ないからである。過去の自分をなに食わぬ顔で圧し殺して生きようとすることは音の破壊衝動を誘発する振動のエクリチュールの殺意を押さえることができない。換喩的伝染を理性が注意する限り合唱の嫌がらせは有効な弱点への反響を意味するから。あずまが初雪を呼び寄せるのは「ゴーストの王」としての神話体系なので初雪は生者としては悪魔のままであくまで卒業できない。あずまの家族は引っ越してしまう。その復讐にまったく意味が伴わないからである。そこにあずまと桜の「性的な」つながりがアイスダンスの「夜」として電撃的に刺激される理由がある。ロマンチックでホラーな噂話への書き換え。反逆のメルヘンへの参加。

小坂井綾

小坂井綾

 初雪が「不良である」という噂話を支える代入機構は何によって成り立っているのか。アキラとの類縁性。ゴーストチャイルドとしての使命。つまり「卒業する気がない(機会がない)」ことへの直観。このことこそ小坂井綾と初雪を引き合わせるための条件である。内田川邊の商業的侵略(不良達のシマの拡大)は旧市街のゴースト的な怨嗟を反動的に招致してしまう。不良狩りの饗宴=言葉の槍襖と「胸を賭けて勝負をしよう!」→運命の糸のもつれ。だから東雲妻が初雪を不良と勘違いする形で割り込んでくるのである。壇之浦の戦い。「武家政権」の没落。ある意味ではランの人形劇。文化財の象徴性への挑発。ただしこの人形劇を宮東の仮面芝居のような観念ではなく痴情のもつれの所作だけを黒子として愛らしく見せる男女の掛け合いによる背進の労働として異化すること。綾辻→『十角館の殺人』?アキラと綾の名前のラベルの交換ではなく初雪と綾の役割の入れ替わりを身籠った復讐の季節の舞台の風景として重ね合わせる。オーナー(ラン)の声は外線ではなく折り返しの導線。コノハサクヤに生霊としての魂を剥奪されてカンテラのオーナーとしての役割しかなくなった時に反魂香の利用によって初雪と似たような匂いを持っている優秀なアクター(綾)が手に入るという二重の利益。コノハサクヤも宮東もエクリチュールとしての立場から初雪を桜の記憶に(無情にも)縛り付けておかないといけないという物語の構造的理由から金銭的な生活の援助ができないことを母の愛情として再利用する。年代記が逆転する執事のコスプレと有閑老人(オーナーに投影される祖母)への『オペラ座の怪人』のプレゼンテーション。しかし綾と初雪だけでは恋人として現世への未練がなさすぎるので構造的な安定は満たされない。だからシロクマという子供を招き入れる。敵の急所としての最大の駒(佐々木の孫娘)をまさに初雪のゴーストチャイルドではない個人的な役割に対処させることで愛情の役目を果たさせる。ランの狡猾さと愛情の真摯さが同時に例証される事態。スペックでは綾は最上級ではあるが筋書きという意味では綾はどんな振る舞い方も想像的に自由であるという点を脚本として組み込めるランの政治的な手腕を敵ですらほめざるを得なくなっている。とはいえ、ランは鏡像的に表舞台には出てこれないので噂話を否定する役割を受け持つことはできない。ある意味では綾も浪人あるいは元生徒会長としてその役割をカンテラでしか果たせないのである→記憶喪失(キュン死)。肯定の強度としての初雪への憐れみは自己憐憫の宿痾に物語として無気力な差異に翻訳されてしまう。バトミントンの羽の軽やかさは汗の臭いがある。妻の剣道部の顧問(来栖三木の兄)の名誉を復活させるというのは初雪のこの部分が満たされていないと発生する桜の呪いへの跳ね返しである。初雪の度胸の誤った使用例(剣道)。迷っている妻に希は振り返らない思いの強さだけで完勝してしまうが、それでは十分ではない。初雪が不良ではないと証明するというのは薮内という教師にあくどい質問をされてアキラに憑りつかれていた綾の代わりに殴りかかろうとする初雪を否定するのと同じくらい難しい(とはいえこのことで三木からの信用を得たのだが)。ここでは不良が政治家の孫としての機能も担っているからこそ教師が手を出すことも積極的に注意することもできないという虚栄心の政治的構造を念頭に置かなければならない。初雪が煙草を吸っていないということはアキラとの暴力を否定する材料にならないが、なぜそれが「不良でない」ことになるかは、旧市街グループ=恥の粋、キレやすい(妻、アキラ、来栖兄)と現在の新興勢力である商業施設からのはぐれ者=不良とは明確に在り方が別物であるということを理解する必要がある。愛の陶酔と理念的崇拝の差、現実の無関心としての狂気としらけの無関心の不快の違い。自己の憐憫が陶酔への懐古を抱く情念は必死さをあざ笑うようなあるいは自己の必死さを取り繕うような感情の混濁した擁護とは別だということ。シロクマが逆にコネとか裏口入学とか噂されるのはこの反動である。後輩-年下グループは厳密にはこの対立関係に参加していない。そしてアキラの無念→門下生への手出しの要因とは旧市街グループと新興勢力の間に恋愛関係で結ばれることはおそらく持続可能でないということである。(柔道部のコミカルな事件もそれを裏付けている→臭い。匂いではなく)。教師としてであれ学生としてであれ残された姉妹は社会の受容性に向けて動く。バレンタイン祭の「馬鹿馬鹿しさ」、甘い恋愛のモノローグが成立するのはゴーストチャイルド=王として初雪がカーニバルの主賓になることによってだからである(マカロン)。初雪の決心は綾への恋の自覚においてそれをアキラの(ランの)遺棄への恐怖を同母姉弟の近親愛的に綾に担わせてしまった自己の甘さを断ち切ることから生じるが消去しきれない自己が残る(まかのろんさ)。それが綾の性的な記憶を初恋として消去する=同母妹のバニッシュの操作と同じ自己だからあずまと桜は展開上の例外なのである(父側の姉弟と異母妹)。シロクマは当然このイベントはない。希の場合初雪は父-子供と兄-妹の二重表象になる。とはいえ、だから進路指導委員として希は旧市街勢力と新興勢力を兼ねる素質があるのだが(「白咲ヤンキース」との付き合いにおいて)。シロクマの引継ぎ。

シロクマ

シロクマ

 シロクマ→音節連結部分の抑揚。アップテンポ、ダウンテンポ(初雪の-ランの-調教)。モードの体系、レトリックの記号、街の偽統辞の等値関係。「ほっぽうりょうど!」明らかに政治的ディスクール。しかしシロクマという伝説上の生き物が住む場所になっている。数学的方程式の初等的無限性。北の分極した楽園。ゴーストランド。シロクマという名前は記号であり、オットセイや鮭やクマなどの山の観光客の擬音はエロティシズムの連想なのだかがどう考えてもまるでエロくなく甘さもない。充実感ともの悲しさの文楽のテキスト。意味作用のじゃれつきのマスコット。この説明をロリコンとして指示内容を置き換えても全く機能しない。全力でディスクールに参加させないことが目指されている駒。というのも性的な恋愛のディスクールでも政治的なディスクールでもエクリチュールの参加という口実でも彼女が役割を果たすことができる唯一の身分は「人質」だからである。襲う-襲われる動物のモチーフ。故に初雪を店長と呼ぶ→品物の仕入れ。身分に合う服がない。彼女が卒業に加入するのは物語の構造分析という重ね合わせにおいてだけである。つまり桜の身分との不在の連想と代入のドット模様。舞踏会・パーティ・ドレス。王女様≡お姫様。うさぎ≡シロクマ。書かれた服≡モードの記号。白≡街……。居住可能性の排除という点も桜と等値する。ミイラ≡ひきこもり。彼女は頑張るということの学生の本分である代数方程式≡テストの点数と受験の合格を代表象する。つまり現実とゲームとの違い。しかし彼女は希と違って頑張るという点において立派さの目標を妨害される初雪の方に似ている。特にその政治的境遇が。同情、親の子供の政治利用に対して。彼女の行動や本名は何らかの歴史的ディスクールの再現になっている可能性があるのだが、どのルートでもその実現は何が何でもシロクマ呼びで回避される。アナグラム=回避という点で初雪も同じ。直接性。例えば「3131」という受験番号は、「咲いた咲いた」でも猫の鳴き声でもなく初雪が受かったときの番号である。露骨な説明。物語のキーパーソンという役割も露骨な説明である。つまりそれは桜の玉樹桜とゴーストプリンセスと精霊の三位一体の暗示だからである。したがって各ルートのEDの解説にもなっている。つまり初雪にも大野ゆうきという元の名前とゴーストチャイルドと卒業の精霊という三位一体がある。復讐の原動力は父の遺言執行のディスクールの輪舞で成り立っているので、季節の象徴が繰り返されるだけでは人質の代理表象の操作は母の魂の願い→ランの魂に捕縛され、桜の精霊の人柱としての役割も解放されない。シロクマは記念写真というものを飾るのだが、それは科学のディスクールの写真=証明である。オナニーと写真へのキス=画像のイメージへの染み込み。つまり現実に写真を撮った-撮られた人間が存在し、それは過去の記憶として見返すために存在する客観的な物である、と。ラジコン。25歳の少女の必死さ。思い出の美化は二重に裏切られる。一つ目はその人物を正確に知らないという点において。そして二つ目はその人物が自分の思う通りの人間であったのに結局犠牲になるという点において。彼女は綾を見習った方が多くの場合有意義なのだが、父親の代理としての立場だけは旅立ちの初雪の見送りを待つことが希と同じく絶対に必要なのであり、その点で、成長の可能性を残しつつ綾の卒業の未練を解消するのになくてはならない(ダブル)ピースである。

Graduation

玉樹桜

 卒業の幽霊の噂話(宮東の仕掛け)。玉樹桜の存在は噂話と同じレベルの記述であり、初雪への絡み方は「うざい」しぐさであるということ。そこに何げなくいる存在であると同時に呪いの言葉が初雪に覆いかぶさる。初雪の視覚と桜の画像的な姿の対比は白光のシルエットという表記以外では区別ができないこと。瞬きのスクリーン上の存在。第一の説明原理では言語的な統辞のナルシズム的な対象と神経刺激の興奮的な表象=知覚は区別ができないということが利用される。なぜならそれは愛情の温もりだからである。母の-恋人の-手の結びつき。しかしそれはメディア=スクリーンの壁に阻まれており、その直接性において切断され、目に見えない形で離されている。第二の説明原理では言葉を与える対象とそのしぐさを読み取る視覚との間に連辞的な関係が設定される。「私は-あなたを-愛しています」。しかしこの言葉の音声=声はテキスト的なプログラムの共犯関係、文字=エクリチュールの因果関係と区別ができない。主人公=初雪はしゃべるときに声がない。プレイヤーの読み取りと視覚的な共時性の音声映像の共犯関係。カラオケでの初雪の低い点数をなんとか誤魔化そうとする希の必死な努力。私はあなたが好きだと言ってくれたことに対してそれに決してこたえることができないことが私の首を絞める。重さ。いかなる音節的な抑揚を構成してもこの言葉に対して「私は」それを返すメッセージを読むことはできない。なぜなら作品の世界にプレイヤーが参加することはないからである。第三の説明原理では、物語のシナリオとの感情移入と音楽のテンポを通じて登場人物や劇の振る舞い方に感動を記憶の共有としてトーンに重ね合わせることで統合的な関係を構築することができる可能性があると主張される。しかしそれは「楽園の設定の構築」と同じ外的世界の没入-錯乱に基づいているのではないのか。というのも可能性が開かれているだけで構造化が機能するのなら、安易な設定で作り話をして感動させる演出を舞台で行うのと何が違うのかという問いが反芻されるからである。この説明に対してプレイヤーがメタ物語の想像力を行使するという選択を取ることはエクリチュールの一般化としての無常さ(宮東が初雪を殺すこと)を分岐可能性の選択として復讐の原動力を設計することになるが、それはいかなる愛の空間も(実際には)創り出しはしないだろう。ここで問題になっているメタ-物語を「大きな」と「小さな」に分けることではなく(これを大文字の他者と小文字の他者の社会学に転移してはならない)、エクリチュールとディスクールの身振りの亀裂としてテクストのコードの対決をもたらすという方向でメタ-物語の読解を進展させなければならない。このように考えるとすべての人物をデータベース的に等値に置くことも、信号の発生源のキャラクターとしてすべてを人間-実在として擁護することからも距離をとって超越-メタ言語の倒錯的な産出を制限できるからである。例えば桜は実際の宗教的な犠牲言明として自然的に呪いとして「機能すべきだ」とか、初雪とゴーストチャイルドの関係はテレビや記号的な愛情関係の言説として純粋な表象=ファンタズムに留まるしか不倫の(エロゲーの)愛情の硬直性に介入する王の観点を考察できない、とかいうことに反論できる(河野初雪は何者か)。

 狂気のディスクールの記述レベル。例えば最も低い次元では「河野初雪は政治的要人暗殺のためのテロリズム的な犯罪の首謀者だった」という物語が狂気として説明される。原則的に言えばこの説明でも問題はない。しかし『はつゆきさくら』という作品を読解している以上、この記述にはまったく満足できない。少し段階を上げると「河野初雪は数年前に起こった政治的爆破事件の被害者として復讐を実行しようとしている」という記述になるかもしれない。しかしまったくそれは表層的な説明である。では次の記述はどうか。「河野初雪は白咲学園の有名な不良としてゴーストパレードを率いて、政治的な爆破事件を引き起こそうとしていた」解析度が上がっているのではないのか。しかし明らかにそれは間違っている(なぜ我々はそれがまちがっていると「確実に」言えるのか。所詮フィクションの出来事ではないのか)。では知人や友人の証言はどうか。「河野初雪は憧れの先輩として、自分たちを様々な面で助けてくれて、恋人にすらなったことがある」。これは「主観的」説明ではないのか。なぜこれを事実として根拠づけることができないのか。それがゲームの出来事だからなのか。それとも登場人物の心理描写を読んでいるからにすぎないのか。このようなことを主張するヒロイン達は初雪の「何を」知っているというのか。初雪がどこに住んでいて、どのような人生を歩んできたことを単にクリスマスから卒業までの間として知っているに過ぎないのではないのか。ある人物が「わかる」というのに何が必要なのか。それは明らかにその人物の一生分の記録ではない(それは死ぬまで手に入らないだろう)。人が何に対して頑張っているのかを証明する存在としての卒業。考えなければならないのはこのことである。逆に言えば噂話とはこの頑張りを否定する代数機構として人物名を一般的に記入する役割を果たすということ。卒業証書を受け取れば確かに学業を「卒業」できる。しかしそれは河野初雪や玉樹桜という存在が何でありどのように生きたかということを何も証明しない。だから噂話の悪評と都市伝説の物語だけが残される。確かに物語の記号的な操作においては学業の卒業が頑張りの成果として認められることでその人物の卒業が語られることになる。しかし単に卒業に署名したというだけでは十分でないのなら何が未練として、不安として、復讐として、願いとして残されているのだろうか。いかにして名前を一致させて呼びかけることが可能なのか。

 エクリチュールの狂気の言葉。「それは-かつて-あった」。第一の確認は「事実確認」、初雪と桜の結びつきが内田川邊の統合に関わる破綻としての象徴を持つという歴史的性格に訴える。いわば警察の責任追及。「あなたはその事件が起こったことで因果的にまつわる行為の帰結を引き受ける必要がある」。この説明が機能しないのは我々がプレイしているものは「ゲーム」でありテキストを読む行為であるからである。したがって「記憶」を思い出すという行為は遂行文の位置と継起的に混同される。原理的に私は先の(まだ読んでいない)文章を知ることができないし、それが過去にまつわるエピソードであったところでその名前に対する記入の存在を引き受けることはできない。しかし『はつゆきさくら』はノベルゲームであり、複数のシナリオの参照先を先取りすることが「できる」。問題になっているのは各ヒロインに対する恋愛的な態度にまつわるエピソードの負債である。いわばメリーゴーランドの輪。産み出される子供の将来への代数性の身振りを次々とメロディのように破壊しなければならない。したがって第二の確認。物語の「別性」、転換子を構造的に自己-参照する。いわば恋愛のきっかけとなった事件を反芻することで悲しみの穴に落ち込むことを回避する。「恋のダンクシュート」。各ヒロインは各ルートにあった恋の乗り越えの核を持っており、その玉樹桜の存在に触発された反逆の行動が初雪のランへの魂の送り返しを妨げるあるいは希と協働して卒業に至る道筋を照らす。政治的ディスクールの義務を解除するための初雪と桜の疑似-新婚生活。性愛はゴーストプリンセス、ゴーストチャイルドとその記憶を肉としての身体に浮上させる風呂での行為と二度に分けて行われる。媒質への密着とあだ名による親密さ。しかしそれは桜の呪いを解くための策略であり、桜が願いを叶えて幸せを感じるようになったことで宮東によって学生としての玉樹桜は安全にバニッシュされる。天気の移り変わり。それは初雪が決してできなかったであろう眼前で別れの切なさが再現され、ホテルへの冒険が夢のカケラの欠落で反復される。

 玉樹桜とは何者だったのか?→もうひとりのゴーストチャイルド、復讐の欲望の核。初雪の誕生の祝儀としてのクリスマス-贈与。ここで問題になっているのは綾とゴーストチャイルドとの結びつきである。なぜならバレンタイン祭での恋の乗り越え(桜への告白)を行うためにはゴーストチャイルドになる決心が必要なのだが、それは綾の場合だけ過去のきっかけ=おさげの髪結い=去勢としての位置を持っており、だから初恋としての性格を切り捨てる覚悟を恋愛として復活させるための「物語」が綾と全く関係のないエピソードとして押さえつけにくるのである(コノハサクヤのエクリチュール)。初雪と桜のエピソードが特権的であるのではなく参照されるためにはテレビの記号操作であるゴーストのいない/いた遊びに驚かされることなくメルヘンの構造に依拠する必要がある→モードとしての王様と王女。宮東の場合、問題になっているのは内田川邊のイデオロギー的な防衛の方に当たるため潜伏しているテロリスト/ホテルの部屋の指示作用と違って生者/ゴーストという二者択一ではエクリチュールの思いの狂気を失わせることはできない。綾は他のヒロインと違って桜との関連も卒業の共時性への関連も学生生活としての思い出という次元では未練も希望もないため、なんらかの(たとえば生き死にの)「事実確認」に訴えることは無意味なのである。綾は説得されない。希が主人公になるのとは逆に綾は物語にも騙されない(肯定の強度だけで意味が免除されている)。エクリチュールの重みに想像界のシナリオを当てはめることでしか抑えることができない。綾の内面性への指摘は当たっている必要がないかあるいは当たっていてもそれは本質的ではない。あずまのローラースケートの陣のように動きを止めるだけで十分なのだ。蛍光塗料→光のモール。しかしそれで動きが止まるのは筋書きだけである。第三の事実確認。エクリチュールにおいて生死はテキストのディスクール的な力能に基づいて声としてそれ自体にループするのかということが問われる。鎮魂歌の奏上。ランの声はメディア的な=生霊的な遠隔操作の愛情の献身において欲望を摘み取ることが目指されていたことが告白される。しかし初雪にとってそこは問題ではない。問題なのはテレビの至高権=父親と記号操作の代入機構=死んだ父が同じ「復讐」の本能において母の不在の場所として重層決定しているということにある。スクリーンから再生される声は記号的な容姿や名前の定型文から切り離すことができない。父親である大野敦が母親の死の復讐のために初雪とランを駆り立てていることは「事実確認」でも「初恋の参照」でも季節のディスクールの輪舞(というよりは横滑り)でもある。復讐によってしか救われない思いというものはある。エクリチュールはその構造化された一般性のゆえに手を出すことができない。したがって亀裂を入れるにはゴーストプリンセスがメルヘンとして「復活」しなくてはならない。なぜだろうか。まさにゴーストプリンセスとゴーストチャイルドの婚礼の誓いを学生生活の初雪と桜の思い出の記憶として電撃的に明かりを灯す体験(ゲームキャラクター)の「センスデータ」から初恋を告別することによって冬までの一瞬に瞬きの生の愛をすべて注ぎ込むためである。内田川邊の街への精霊の狂気(父母のエクリチュール)に拮抗するには「かつて-そこに-あった」はずの舞踏会における狂気の境を「懐かしい人たちの思いとしてよみがえらせる」復讐を完遂することで、死者の声を一瞬だけでも聞き届けることが「できた」という「事実確認」の言葉において父親の復讐の代行を無効にしなければならない。それを可能にするのはランの初雪への卒業の願いを託された想像界の自由さを持つ綾だけであり、だから初恋の思い出と共に死んだ父親を「バニッシュ」することができるのだ。父の愛と母の祈りがテレビの至高権と「自然災害」の雪が降り積もるような魂の厚みの重複した復讐から解放され、そうしてホテルに閉じ込められていた桜の死体は初雪の存在に常に張り付いていたという子供のエピソードを挿入することが積雪の服われない日々の愛の重苦しい思いの束縛を取り払い、春風を入れることが匂いの延焼として失われた視覚の心の中に明るい部屋として生き続ける。それはかつてあったことであり、「今も」優勝の言葉のように眼差しの裏側に死者の夢として生々しく焼き付いているということなのだ。(咳払い)

 ノベルゲームの孤独の経験はいかにして存在となるのか。キャラクターとの思い出は仮にそれがCGやエロシーンとして保存-回収されていても「所詮」電子的なゲームフィクションの幻ではないのか。そうでなかったら観念的なおめでたさを倒錯的に追求する夢語りに過ぎないのではないのか。「卒業おめでとう」。この言葉をどう拮抗させるべきなのか。振り返りの風景の明晰さ。音の意味作用の拡散を涙線の汚染で崩壊させること。政治家に定型文以外の言葉はしゃべらせないこと。放射する充実感ともの悲しさとピンチ。「もう一つの」アルバム編集。モードの偽統辞の等値-音節を逆向きに利用する。後輩の(前周期の)の合格の引継ぎとして「1095日の憂鬱」を春夏秋冬のプログラムで涙の快楽の生成を再演する。ゲームのキャラクターは姿が見えないし声も聞こえない。しぐさのひとつひとつに喪としての悲しみが刻まれる襞の感触。しかし確かにそこにいるということの仲間たちの荷物の確認によって退学の嘆きの更新の集合が恋愛の回帰によって雪結晶の色彩に定着される。したがってもはやそれはメッセージの音声の嘘を機械的に受信するだけの視線の「ゴースト」ではない。蘇るのは懐古的な思い出の記憶ではなくて、確かにそのゲームをやり切ったという(プレイヤーの)参加の事実の証明であり、兄弟のような読み替えの卒業の身分証明なのである。だからそのサービスの代価として与えられるものは呪いのフェティッシュではなく確かな手ごたえのある欲望であり、その展示-分配として何度転んでも起き上がる雪だるまの傘の下に再会の約束が名前として書き添えられる。アリアに代わる歌によって確認される狂気と別れの挨拶。明滅する光の媒質によって揮発的に写し取られたその本質には確たる痕跡としての声の名残が無垢なほほえみとして私の隣に張り付いている。呼び止められた時間の二重の名前が愛する者の雰囲気と一致する並木道の飽和性。四季の季節がいかに容赦なく死んでいようともその恋の巡りの季節が繰り返されることを信じて春の匂いの香りが別れの涙の霞によってその存在の場所をいつまでも空けておくよう予感に導かれる。はつゆき×さくら。卒業おめでとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?