キャラクターの言語ゲームによる世界の参入とセクシュアリティの解釈

図書館の本を整理せねばならぬと想像してほしい。始めには本は床の上にごちゃごちゃに散らばっている。それらを分類して置き場所をきめるのには多くのやり方があるだろう。その一つは、一冊ずつ拾ってその本を置こうとする場所に置くことだろう。別なやり方として、若干の本を選びとってただその小グループの中だけでの配列順を示す目的で棚に一列に並べる、というのがあるかもしれない。整理が進行した段階で、この一列がそっくりそのままで違う場所に移されることになった、とする。しかし、そのことでこれらの棚の本にひとまとめにしたことが最終結果に何の役割も果たさなかったと言うのは誤りである。事実この場合、ひとまとめになる本を一緒にしたことは一つのはっきりした成果であることはすこぶる明白である。そのままの全体が場所変えされたにせよである。哲学の偉大な成果の或るものは、一緒になると思いこまれた本を引きだして別々の棚に置くのに比べる以外はない。それらの本は今後は並ぶことがないということをのぞけば、本の置き場所についての何ら最終的な成果はない。この仕事の難しさを知らない傍観者はこういう場合何らの成果もないと思いがちである。___哲学で難しいのは自分で知っていること以上は何も言わないことである。例えば、二冊の本を正しい順に並べたところで、それが最終的な場所に置いたわけではないことを承知する難しさである。  

ウィトゲンシュタイン『青色本』

 アニメーションのキャラクターは/言語のゲームの世界を通して/名称指定に関連する/モデル展示の身体表現に/解釈のセクシュアリティの/構造によって貨幣として/識別されなければならない。この主張を一歩ずつ区切っていき、順番に説明していこう。まずはアニメーションのキャラクターの定義からだ。

 アニメーションのキャラクターの定義とは何か?それは画面の描画の背景から独立する選択的な意志を持つ身体性のことだ。この主張は他の比較参照項を必要とする。つまりそれは映画の俳優のことだ。映画の俳優はアニメのキャラクターとどう異なっているのか。まず最初の比較、画面の描画とカメラワークで表現される肉体的現前は視線に対してどのような対象として与えられるのだろうかということについて考えよう。この回答に反応するためには「アニメのキャラクターは人間である」という主張と「映画の俳優は人間である」という主張にどれほどの落差があるかを確認してほしい。映画の俳優が人間であることは仮にカメラのフレームにどのような演技あるいは悪役的な演技をしているのだとしてもそれが人間であることは疑われていない。ではもしこの人間がエイリアンや宇宙人のようなスパイだったらどうするのか?どうもしない。つまりそれは特殊効果の説明であって、やはり人間が演じていることなのだ。これを演劇とかで見るように「木」を演じるとか「女王」を演じるとかいうモチーフと区別されることに注目してほしい。映画俳優が「木」を演じるのは馬鹿げているし、「女王」を演じるのなら個性的な演技のできる有名な俳優に任せるべきだろう。では俳優であることは何に対して区別されるのか。それは「一般人A」が通行人とかを演じている人物に対してである。このようなエキストラに対して俳優は明らかに「人間」でなければならない。しかし俳優はエキストラに対して人間であることに対して区別されるのではなく役柄の類型性によって互いを認知しなければならないのであり、その類型性が観客の「人間性」を表現するようなやり方で行為がなされなければならないのである。この類型性とはおおまかにいって俳優のイメージと不可分であり、仮に日常生活で正反対の趣味や性格をしていても映画に出演するときの演技はそのギャップではなくて類型性に従った活躍が期待される。この視線を俳優は満足させなければならない。これほど俳優について長々と語ってきたのにアニメのキャラクターについては一言も触れてはないではないか、という意見に対しては次のように反論してみよう。つまりアニメのキャラクターが人間であるために必要な定義は役柄の類型性ではなく、構造の類型性にあるのだ、と。アニメのキャラクターが「木」を演じるとはどういうことなのか。それは「木」が構造的に定義されて描画された背景と一緒に動き出す、ということを意味する。これは人間として定義されたキャラクターが動かないとしてもそうである。なぜならキャラクターは「人間」としての構造が定義されていないからだ。なぜ「木」は構造として定義されると動き出すのに「人間」では動かないのか。この疑問に答える前に「女王」として定義される場合はどうなるのかを考えよう。それは「女王」という役柄の構造を演じるということを意味する。この問いは質問に答えていないかもしれない。しかし女王というイメージによって演技されるのではなく、女王として定義された構造に従って演技するのだ、ということがわかればいい。ということは「人間」が定義されていないというのは私たちのアニメの現前においては「人間」という参照項が構造化されていないということを意味する。私は最初「木」が動き出すのは描画された背景と一緒にであり、「木自体」が動き出すとは言わなかった。そうしてもいいのではないのか。しかし「木」は他の「木」とどう区別するのだろうか。さて我々は次の区切りにたどり着いたように思われる。それは言語ゲームの世界を通してである。

 言語ゲームの世界がなぜ構造の定義についての自他を区別するのだろうか。次のように答えればいいのだろうか。つまり「人間」という語の意味は我々の人間という言葉の使用に懸かっている、と。だがこの主張は何も主張していない。さっきの段落でアニメーションのキャラクターの人間の定義は構造の類型性にあるというのと大して違いはない。なら言語ゲームの世界にという時に何が主張されているのだろうか。それは世界が「存在する」のではなく、世界が「ある」ことについての主張をゲームは他者に対して呼びかけなければならないという描画の制約条件に関わっている。ここでも映画との比較を持ち出そう。映画においては世界が「存在する」というのはカメラの視点を疑うのと同じくらいナンセンスな主張である。確かに映画の文脈においては人間が映されているのがなぜなのかは直ちに明瞭であるというわけではないが、とにかく世界が視線に対して向けられていることは確実であり、それは世界の公正さの約束を表現するものとして他者の現前に建てられている。それは有名な俳優同士が互いを人間と認め合い、人間でない怪物に立ち向かうのと同じくらい信頼できる。ではアニメはそのように世界が「存在する」と主張できるのだろうか。それは全く疑わしい主張である。アニメで世界が「ある」という時、言われているのは、とにかく登場人物は世界に声として参加せざる得ないということを表現しているだけであって、そこに他者が存在しなければならない理由は一つもない。自分が他者と同じ世界の住人であるという根拠は一つも示されていない。仮にそのような根拠があったとしても、それが信頼できるものかどうかは確認することができない。単に描画された背景が視線に対する限り連続しているだけではないのか。なので世界が公正さの約束を表現するものとして現前が建てられているというのはお人好しの主張であり、そのような態度を見せた者から無限に出てくる怪物に食われてしまうことになっている。しかしなぜかは知らないが、キャラクターたちは言語を話すことができるのであり、その言語を使って共通の目的のためにゲームをすることができる。仮にゲームをするという意味の表現を事前に全く知らなかったとしてもである。こうして我々は次の区切りに到達した。それはお互いの呼び合う声の名前を世界の信頼性におけるゲームから指定しなければならないという考えである。そうでなけば我々はいつまでたっても「木」のままであるからだ。

 自分の所有物に名前を付けるのと名称指定をゲームの構造から行うというのはどのように異なるのか。次の例を考えてみよう。我々は一個の木の棒と別の木の棒を所有していて、それに名前を付ける時、一方を「りんご」、他方を「レモン」と名付けることにする。これで二つの木の棒はそれぞれ「りんご」「レモン」という名前になった。では木の棒=りんごと木の棒=レモンという物を所有するのにもしりんごやレモンを拾ったらどのように木の棒と区別するのか。あまりに明白なことだが、とてつもなく分かりにくく不便であるように思われる。我々はここで名称指定を行うことの意味を理解するはずだ。つまり木の棒.1と木の棒.2と名付ける方が木の棒をリンゴやレモンと名付けるよりも構造化されているとはっきり主張できる。この方が別のりんごや複数のレモンを拾った時にも便利にナンバーを振って対処できるはずだ。問題はこの名称指定をアニメーションのキャラクターに当てはめることはできるのかということだ。一見するとキャラクターを人間として定義する際には所有物と同じように名前を付けた方がよさそうに思える。そこでゲームの世界に参入している他者に対して、自分が決めた名前でキャラクターとしての人間を定義してほしいと呼びかけるとしたらどうか。かなり乱暴なことになると思われる。なのでアニメーションのキャラクターが人間として定義されるのは構造的にナンバーとしての割り振りを獲得する時であり、そのキャラクターがどのように名乗るのかは所有物の関係に基づいて決まるのだ。ただしここでいう所有物とはゲームのデータ構造のことであり、物体を所有しているという意味での権利のことではない。なぜなら名称指定によって割り振られた数値から名前の構造化を決める選択が与えられているにすぎないからだ。アニメーションのキャラクターは名称指定に設定された番号を変える権利を持っているわけではない。ランキング争いのような知名度とは役割が違うのだ。しかしここで次のような疑問がわいてくる。それは名前の憶えやすさの問題である。ある名前を覚えるとはそれが単に記号ではなく、何らかの人間性としての定義に基づいた名称を有している限りであり、単に「ああああ」とか「123」とかいう名称では覚える価値がない。我々はいままで「木」の名前が別の「木」の名前とどのように区別されるかの話をしていたのではなかったのか。ある「木」と別の「木」では名称次第で覚えやすさに違いがあるのだろうか。それはモデル展示の身体表現として名称に置換されたキャラクターの人間表現を世界のゲーム性から解釈できるようにしていかなければならない。仮にその名前が全く平凡なセンスしか表していないとしてもである。

 モデル展示とは何か。この説明をアニメで使われているようなスケルトンアニメーションのジョイントやルートのワールド座標系への数学的計算の諸々の技術であると考えるべきだろうか。もちろんその通りではあるのだが、モデルを展示するという時に強調として言いたいことはそういうことではない。そうではなくて、あるモデルが名前としての意味から展示されるとはどのようなゲームの世界性から身体を表現しているのか、ということが問われているのである。例えば異世界転生の場合は現実の人間的肉体としての死がゲームの世界に転生することで、別の身体モデルとして基礎能力が解釈され直され、新しくゲームをスタートする、というように。この説明は文字通り物語の説明だが、アクセントとして象徴されていることは間違っていない。つまり現実の肉体的な名前を失うことがゲームの世界に参入するための名称指定の構造化であり、そのためには身体のモデルは別の役割の特典性として解釈されるのであり、そのことによって他者の評価が身体表現として更新されていくのである。キャラクターアニメーションとはこれらの個々の部分解釈の集合として人間性が定義されていくのであり、それはよりよく改善される可能性があり得る。しかしなぜ現実の世界ではそのようなことがあり得ないのか。もしゲーム世界が「空想の」世界であり、そこではなにをどのようにしても現実は変わらないまま異世界でいい思いをするだけなら他者はゲームとして現前しているのではなく俳優としての役柄の類型性を参照したまま自分だけがアニメーションの構造化の類型性の恩恵にあずかっているだけではないのか。モデルを身体表現として展示する必要があるのは、別のモデルへの言及という資格においてしか可能性として存在しない。そうでなければ評価とは単に「~の人を助けた」という伝聞の物語の時間的混合性であって、キャラクターの構造化に対する人間性の定義への名称指定の名乗りを記憶することにはならない。私は次のような主張をしているのではない。つまりプログラマーはスクリプトやアニメーションの技術についてのカスタムに精通しているから一般の人はこれらの知識に対する不満を表明するべきではないし、そのことに関して名前を呼び出すべきでもない、というようなことだ。これは呼び出しの解釈の可能性の技術と物理的な挙動性に関する技術の解釈の違いを正確に物語から区別していない種類の態度であり、それは他者をゲームへの参入で世界に現前させているのではなくて、社会的役割の俳優性に関する役柄を信頼性の代わりに説得の材料として持ち出しているだけなのだ。モデルを展示する時、社会的役割の個別性は可能な限り排除されなければならないのであって、身体表現はキャラクターアニメーションを選択の意志として解釈する理解の深さだけに応答の可能性を絞るべきだということが身体の表現をセクシュアリティとして顕現する名称の刻銘として単にプログラム的でないやり方で置換できるのだ。

 セクシュアリティの構造化とは私が繰り返し言い続けているテーマなのだが、このことをエロスの侵犯性のイメージとどのように区別するのかということがキャラクターを顕現させるうえで必要な名称指定のトリミングであると思われる。単刀直入に言うならセクシュアリティを金銭の欲望の役柄の類型性に従属させてはならないということが貨幣において身体表現の名称に時間として刻まれていなければならないのである。これを具体的に説明するならモデルの展示は「父」として映画のカメラ視線の不在に親として見守ることによっても「母」の産出=誕生の肉体の記録において保護の役割を引き受けることによってもシニフィアンとして身体表現されてはならず、それは自然の肉体性という世界の客体性の美を記録の歴史の非連続性によって否定し、隠れた解釈の獲得の競争性に基づいて不確定な量子状態の重ね合わせのポテンシャルとして力のベクトルを待機させなければならないということになる。非常にややこしいのでもっと説明を繰り返そう。解釈は意味を生み出す過程そのものを解釈することはできない。したがって解釈可能なのはゲームに参加する意志表示の選択においてだけであり、肉体的な誕生の論理に従属することは親子関係のジョイントを「木」としての階層性と階級制に短絡させてしまう態度なので、言語ゲームの解釈可能性を社会参加の役柄の平等性に還元してしまうのである。こうなると身体表現をモデルとして展示するのではなく、隠されているのは「性別化された肉体」だけになってしまうから、ゲームの参加とは必然的に性関係を名称指定の規則として侵犯してしまうことになってしまう。それはセックスの視点は男性のカメラ目線だからと言って、それが女性の同意に基づく映画的な他者の現前であるとは言えないのと同じである。ウィトゲンシュタインがこのことを家族的類似性と主張したのは現在の視点から見ると不適切な表現であると思われる。すべてのゲームに同一の一般性があるのではなく個別の類似性の表現がそれぞれの単独性に基づいて明示されるというのは、家族的ではなく遷移的なのである。したがってステートマシンのようなナビゲーションシステムとの同期をウィトゲンシュタインが持たなかったのは文法規則と意味生成のシニフィアンを社会的類型化と同一視したからあるいは自他問題の私秘性と混同したからであると思われる。人間が「歯が痛い」と主張するのと機械が「歯が痛い」と主張するのは確かに違うが、状態遷移の表現としては文法規則ではなく情報伝達の意味論を規則から分離して生成できるという探索を身体表現の認知性の類型としてしまっているのだ。したがって状態についての表現を「純粋に記述的」であるとはいえない。それはセクシュアリティの構造化を貨幣化の欲望として顕現するという世界の解釈を他者性の侵犯の認知から金銭として識別することができないからだ。

 アニメーションのキャラクターの人間性をセクシュアリティの名称指定の構造化の定義から識別するということはいかにして可能になるのか。それは「木」のアニメーションの構造化と「女王」のアニメーションの構造化は何が違っているのかということだ。遷移状態の名称指定の巡回性が違っているのだろうか。木の枝の末端と女王の手の指先は同じジョイントの姿勢制御によってポーズとして定まっているのではないのか。ただ複雑性が違うだけではないのか。ここには意味の視点の解釈が決定的に欠如している。我々はもっと単純に考えなければならない。つまり木の枝の末端と女王の手の指先のどちらにより金銭としてのコストをかけたいのか、ということである。もちろん植物学者なら木の枝の細部の表現を正確にスケルトンで描写したいと思うかもしれないし、女王崇拝者なら彼女の指先の質感をより完全なものに仕立て上げたいと考えるかもしれない。つまり欲望の解釈とは何に貨幣としての役割を演じさせたいのかによって選択されるのである。しかしこれはキャラクターのセクシュアリティを貨幣の人間性として解釈するのに遠ざかっていると思われるかもしれない。つまり植物学者であっても女王のために木の枝の細部を表現したいと思うかもしれないし、女王崇拝者が木の枝にイメージされるような植物のアニメーションに莫大な予算を投じたいと考える可能性は否定できない。つまり名称指定の置換が起こっているのである。キャラクターの人間性を定義するとはあなたのアニメーションに対する身体表現のモデル化に対して名乗りをあげるような構造化の細部の解釈から構築された集合として成り立っているのであり、あらゆる細部の感受性の寄せ集めとして名付けられた所有しているコレクションの一部から取り寄せられたものなのではない。それは通信販売の金銭管理の代理性に過ぎないのである。ここで私が主張していることは「好き」を意味の代理性に仕立て上げてはならないということだ。自分の好みのテイストを巡回することは選択の状態性を遷移させるためのセクシュアリティを行為の連続性として身体表現に意味づけていることにはならないのだ。それは識別しているのではなく誘導されているのである。ネットワークでは視線の対象はスマートフォンのようなメッセージの伝達とカメラオプションの入力を同時にこなせるような探索性で役柄の肉体の金銭的な数量化が行われているのであり、ゲームの世界に参入できるような他者の現前の認知がセクシュアリティの貨幣としてモデル化されていることはアニメーションの背景に巧妙に隠されているのだと言っていい。それは人間が金銭に名称置換されていることの復讐の誕生性であり、だから身体表現は代理性そのものの意志を操作して復讐の認知を受肉し、復讐の行為の現前ではなく金銭化の運命に対する復讐行為のヴァリエーションの一つを選択することで万人を等しく復讐の役柄の表現に類型化する。もしも意志の選択が可能になるとしたらゲームの世界の可能性が解釈の掛け金としてセクシュアリティにアレンジメントが行われ、キャラクターのアニメーションの量子性が死の制約条件の身体表現をカメラの歴史である総体としての人間の肉体の記憶の不滅性に対してシニフィアンとしての人間性を描画の雨から識別する。そのような愛だけが親子関係の死の家族的類似性をゲーム的な死の遷移状態の共有性として解釈の不在である世界の想像力の貧困に打ち勝つことができるだろう。

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