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「生きづらさ」の原因を探るお話

…とタイトルに書きつつ、いよいよアルバム「Dialogue 1991」の話に入ります。それまで書いては保存しつつ非公開した文章ばかりが蓄積していった訳ですが、まず音楽的な部分ではなく、Yu Katsuragiの「設定」と、その中の人である僕自身の接点から、「Dialogue 1991」というアルバムを題材にして話していきたいと思います。

アーティスト表記を本気で変更しようと思ったこと

まず、最初にこのアルバムはYu Katsuragiのアルバムとしてリリースした訳ですが、そこに至るまで紆余曲折がありました。

まず「Dialogue 1991」の1991とは何かという話から。
1991年は今のYu Katsuragiの母体である「葛城悠」という名前を使い始めた年です。いわばYu Katsuragiが生まれた年でもあります。それ以来、曲を書いたり、作ったり、歌ったり、というときに、その名前で活動してきました。その年にオールインワンシンセとカセットMTRで自分の歌の入ったデモテープを初めて作って形にしたのが始まりです。

「Dialogue 1991」は、その頃の自分自身との「対話」というか、曲を作り始めてから、当時、自分自身がやりたいと思った音楽を当時、90年代前半によく聴いて、刺激を受けて、今の自分を構成するに至った音楽をダイレクトに放出したいと思って作った作品です。

作り始めた当時は「1991」を入れずにシンプルに「Dialogue」というタイトルで作っていたのですが、いろんな意味で僕自身のターニングポイントが1991年にあるとわかり、それをキーワードに含めました。

収録曲の中には、アルバム制作の最後の段階で急遽入れることを決めたGuzzle Pittのカバーである「Lonely and Lovely」のように90年代ではないアプローチの曲も含んではいますが、それは別の機会に話すことにします。

1991年以来、自分の音楽活動と「葛城悠」というネームと共に歩んできた訳ですが、ある時期、音楽活動を休止して、人前に出なくなった時期があります。それを境に、僕は自分が「葛城悠」であることを封印し、闇に葬ろうと思ったことがあります。

それが多分、2000年代、00年代後半に入るくらいだったと思います。
その時期に何があったのかは詳しくは話しませんが、僕はその時期に一度、音楽活動を休止します。

1つだけ言えることは、その時期の間に福祉のお世話になる事態が起こり、それが今の僕の職業と繋がり、自分自身の生活スタイルそのものに大きな変化がありました。

そして、社会復帰を始めようと、いろいろ資格取得のために勉強を始めたりした頃から、インターネットと自分自身のDAWと機材の中だけで音楽活動を再開する訳ですが、それが2008年の年末頃で、その時期に「Dialogue 1991」の収録曲で最初に書き上げた「スパイラル」という曲ができます。

ただ、「スパイラル」を発表した名義は「葛城悠」ではありませんでした。

「生きづらさ」から逃げるためのリセット

今では名義を使い分けていますが、2008年末にシングルリリースと、Myspaceで公開された名義は「Willie2400」という名義でした。
それは当時、Youtubeに頻繁にカイリー・ミノーグを中心としたリミックス動画をガンガンアップロードしていたときに、英語圏の人達にも認識してもらいやすいように、あるいは自身が日本人であることがわからないように、当時主力で使っていたRolandのVS-2400CDという機材から、2400という型番を引用して、Willieは今、皇太子となったイギリス王室のウィリアム王子から拝借して「Willie2400」というネームで活動を始めていました。

僕はWillie2400の活動を通して、自分自身が「葛城悠」であったことを封印し、まるで自分自身の「黒歴史」であるかのように扱ってきました。

それは、中の人である僕自身が今も常に日常の中で抱えている「生きづらさ」を前面に押し出した設定を「葛城悠」が背負っていたからです。
そのうちの1つが「目眩」の記述で書いた「ノンバイナリー的キャラクター」という部分、そして、今となっては「繊細さん」という呼称で、かなり一般的な認知もされてきましたが(僕自身はそれに疑問を感じてもいますけど)、HSPといった敏感で傷つきやすい特性といったものです。

「Dialogue」では、「スパイラル」や「Can I Get What I Need」のように、自室に引きこもっていた時期のことや、人とのコミュニケーションに苦手意識を感じていること等、自分の「生きづらさ」の部分を直球に近い形で表現した歌詞もあるにはあるのですが、なるべくそこから脱却したイメージを打ち出そうと考えていました。

なので、歌う際の声の出し方も、ノンバイナリー的な声の出し方から、自分自身本来の生物学上の性別である「男性」の声にシフトしたのが、以前の「葛城悠」と一番大きな変化なのですが、ジャケットのビジュアルも、ブレザーの制服を着た男子高校生をモチーフにしようと思ったことも、アルバムを作り始めた頃から持っていたイメージで全くブレていません。
ただ、僕は高校時代にいい思い出がなかったせいか、1991年当時、実際に着ていた制服である詰襟の学生服を着ようとは絶対に思いませんでした。

簡単に説明しようとすると、「葛城悠」を封印して、「Willie2400」になろうとしたのは「イメージチェンジ」とか「リニューアル」とか、そういう言葉で端的に表現できるのでしょう。「イメージチェンジ」的な部分で、一番わかりやすい収録曲は「On Sunny Days」で、失恋の歌ではあるのですが、正調である「葛城悠」らしくない「さわやかさ」や「明るさ」が前面に出ていると思いますし、受け入れられやすいのか、収録曲中、一番、人気が高いようです。

しかし、自分の中ではもっと重い意味を含んでいました。
「イメージチェンジ」でも、「リニューアル」でもなく、
僕の中では「リセット」でした。

もちろん、Willie2400のネットでの活動を通して、オフィシャルのリミックスの依頼を頂くようになったり、あるいは、一度もリアルで会ったことがないにも関わらず「Dialogue 1991」に参加してもらえるようなコネクションができたりと実りある活動はできたと思っています。

上に挙げた動画は、僕が作ったリミックスの中でも、特に気に入っている曲です。今なら若干、ミキシングの点でやり直したいところもあるにはありますが…。

そして、「Dialogue」を自分自身が歌う「Willie2400」のデビューアルバムとして作り上げようと曲を作り続けていくことで、20代の時の音楽活動のように、月に5~6曲作るようなことはできなくなりましたが、2年くらいかけて、2010年くらいには、アルバム収録曲の8割がたはできていたと思います。

ただ、そこまで作っていたにも関わらず、「Dialogue」の制作が1度目の頓挫を迎えることになります。

「老いる」ことを直視し始めた福祉職への転職

僕が今、職業欄に真っ先に書く職業は「介護・福祉」関連の職ということになりますが、もうこの職についてから、早いもので10年以上の月日が過ぎました。
その時は近所に別の世帯で住んでいた祖父母が二人とも、共倒れで骨折し、要介護状態になったことで、自分の仕事面での転機が訪れたのですが、福祉職を志す直接のきっかけになったのは、祖父母のケアマネージャーが祖父母にかけた言葉がすごく印象に残ったからです。

「残りの人生を私に預けてください。」

そこから、僕は転職のためにハローワークへ行き、介護職になるため、資格を取るために半年間、高等技術専門校が主催する介護職員基礎研修の取得を目指すことになります。そこを卒業して間もなく東日本大震災が起こったのが記憶に残っているので、もう12年の月日が過ぎたことになります。

僕は福祉職に転職した後、2010年あたりくらいから、まるまる3~4年くらい、ライブや曲のリリースはおろか、自宅での打ち込みや曲作りも含めて音楽活動をすることがありませんでした。

自分の意志で活動をやめた…のではなく、正直、仕事をするのが精いっぱいで、なんとなく自然に音楽活動をしないまま時間が過ぎていった…というのが、実情でした。
福祉職になったことで、給料はお世辞にも良くはありませんでしたが、以前と違って、そこそこ安定はするようになったことで、なんだか自分の中で、必要だった自分の曲を作るという生活スタイル、作って歌って表現する、ということ自体が自分の中で必要なものだったのか?疑問に感じるようになり、このままフェードアウトするのかな…と思った矢先、1つ予期せぬ事態が起こります。

僕が過去アップロードしていたYoutubeのリミックス動画とMyspaceが残っていて、それが上司にバレてしまったことです。
その時期は、半分自分が音楽をする人であることを忘れていたくらいなので、本当は見られたくなかったのが本音でしたが、バレてしまったのは事実なので、自分の音楽活動の話をしたところ、その当時の職場の夏祭りに、ライブで出演することを打診されました。
それがきっかけで、僕は冬眠状態だった自分の所属する音楽ユニット「Locomotive」を再始動させて、しばらく離れていた音楽に、また向かい合うことになります。

福祉職になったことで、若い頃とは違う音楽の向かい合い方ができたのも事実で、さすがに若い頃と同じように、すぐに曲が浮かんで、すぐに打ち込む…と言ったことはできなくなり、新曲を書く頻度やペースがかなり落ちましたが、いい意味で曲の作り方、詞の書き方も変わって、肩の力が抜けるようになったし、後先に残すことを考えて、曲を作るようになったと思います。

しかし、仕事上で高齢者にふれあったり、あるいは祖父母の介護のキーパーソンをすることで、その先にある「死」という避けられない現実に向かい合ってきたことで、自分自身の「老い」と「終わり」を意識し、具体的に考えるようになりました。

そんなとき、インターネットでふと封印したはずの名前である「葛城悠」をエゴサーチしてみたことがあります。

そこで、見つけたあるSNSか掲示板だったかの文言に、こういう文章を見つけます。

誰か、葛城悠さんと連絡が取れる方はいませんか?

その文章を見つけたときから、また僕の音楽活動のベクトルが大きく変わっていくことになり、「リセット」もいい意味で失敗に終わるのですが、それはまた次回以降の話にしたいと思います。


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