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再会、そして内弁慶パフォーマー誕生のお話

前回の更新で話が脱線しましたが、前々回の続きの話をしていきたいと思います。「葛城悠」を封印したいと思った話から、どうして「Yu Katsuragi」になったのか?という経緯を含めて、今の僕の音楽活動には欠かせない音楽酒場ブギとの出会いについて話していきたいと思います。

旧友とのアポなし再会と「リセット」失敗

前々回の話では、 「葛城悠」をエゴサーチして出てきたネット上の掲示板の文言の話までしていました。

”誰か、葛城悠さんと連絡が取れる方いませんか?“

その言葉が載っていたのは、Sound Summitというイベントの関連のサイトだった様に記憶していますが、僕はそのイベントの最初の方で数回出演していたので、その繋がりで書かれていたのかもしれません。

そして、それを書いていたのが、音楽酒場ブギのマスターであるKUROさんでした。

調べてみると僕自身のiPhoneにブギでの画像が登場するのが2016年。僕がSound Summit等で付き合いのあった人達と交流を断ったのが、詳しく覚えていないのですが、2006年頃だったように思うので、まる10年くらい全く交友がありませんでした。

その理由は前々回の記事で書いたように詳しくは話せないのですが、その理由の全ては自分自身や家族にあって、当時交友のあった人から離れたい訳ではありませんでした。
ただ連絡を取らないうちに、そのまま時が過ぎていったような感じではあったし、やはり顔を出しづらい気まずさみたいなものも、自分の中で感じてはいました。

僕はその掲示板の言葉をきっかけにKUROさんがブギを始めたことを知る訳ですが、その時は少しだけ自分のバンド「Locomotive」が活動していて、音楽をやることを少しずつ思い出している最中ではあったので、ふと、久しぶりにKUROさんに会ってみたい気持ちが湧き上がりました。

そして、僕は夜勤明けの足で、博多住吉にあるブギに、事前に何のアポもなしで足を運びました。

余談ですが、それ以前にKUROさん達と頻繁に付き合いがあったときに、その界隈からは、僕自身はピンと来なかったのですが、2000年辺りくらいは、体重が70㎏くらいあって太っていたこともあってか、松坂大輔に似ているとのことで「おマツ」というニックネームがついていました。
KUROさんにとってみれば、僕は「葛城悠」でもあったけれど、それ以前に「おマツ」だったので、「葛城悠」を封印するつもりでいた僕にとっては、その点も好都合ではありました。

10年の年月でお互いいろいろ変わった部分も、それなりにはありましたが、自分が想像したり、不安に感じていたような「わだかまり」みたいなものは、いい意味で杞憂に終わりました。

僕は初めて行ったブギで、その次に行ったときに「オープンマイク」という飛び入り参加的なライブイベントで、再びソロのステージに立つことを軽いノリで決めてしまう訳なのですが、そこで少しだけ困ったのが出場する「名前」でした。

僕は「葛城悠」であったことを黒歴史にして、闇に封印するつもりで、ミュージシャンとしても、ある意味、活動をリセットするつもりでいたのが、この10年ぶりの再会で、僕が「葛城悠」として活動していた頃の人と再会したことによって、その「リセット」という行為が、「リセット」に至る心境とか、説明とかも含めて、すごく愚かで面倒臭く感じてしまいました。

結局、僕はそこで「葛城悠」として活動を続けていくことを選ぶのですが、せっかくなのでWillie2400も音楽プロデューサー的な裏方として、そしてダンスミュージックに特化した活動をするとき(主にリミックスなど)に、Willie2400を使用して、「葛城悠」は歌う人になってもらおう、ということで自分の中で使い分けをすることにしました。

今、現在、自分で歌った「歌モノ」の曲を発表するときには、「Yu Katsuragi」という表記を使ってはいますが、自分の中では使い分けや拘りがあったとしても、他の人にはそれを押し付けるのはやめよう、ということは自分の中でルール作りをしています。
なので、音楽酒場ブギのイベントで出てくる僕の名前は、ほとんど以前の「葛城悠」表記で出てくることがほとんどですし、対外的にもそれで認識されていることが多いので、それで通しています。

ただ、作品の中で「Yu Katsuragi」とローマ字表記にしている理由として、1つは以前書いたようにノンバイナリー的なキャラであることを示す【記号】として、漢字よりも「男」か「女」か文字だけではわかりにくくしたかったため。そして実像を知らない人が聴いて、より中の人の姿をわかりにくくするため
もう1つは、1度リセットを試みた感情の名残で、単純に「葛城悠」で活動していた頃を知っている人に対して、フィルターをかけたい部分があったためです。

ホームグラウンドと「アウェー」に対する苦手感

そして、僕が「Yu Katsuragi」および「葛城悠」としてのソロ活動は、自宅での打ち込みやレコーディング作業と言った、本当の意味での「ホーム」作業の他に、ライブやイベントに、音楽酒場ブギを「ホーム」とした出演活動が新しく加わりました。
一時期、コロナ禍の時期には自分の職業である福祉職であるが故に、行きたくても行けない時期があったりもしましたが、再会以来、割と出不精な僕にしては、少し波はあるもののコンスタントに音楽酒場ブギさんとの付き合いは続いています。

ただ、僕は出演活動に関しては、音楽酒場ブギ以外には出演していません。

それには前向きな理由と、自分の「生きづらさ」に繋がるすごく「後ろ向き」な理由があります。

まず、「前向きな理由」と言うのは、かつて知ったるKUROさんが仕切る箱なので、「いろんな意味」で他のどこよりも安心してステージに立てるということです。
それは僕の音楽的資質とか、音楽ジャンルとか表現方法の他にも、僕自身の芸風とか、あるいは「どういう人なのか」という部分を含めた話です。
音楽面で言うと、僕は歌以外の部分は基本全てDTMで作って、それをバックに歌っているので、今でもそのライブ方法に揶揄の意味で「カラオケ」と言われたりすることもあったりして、楽器を持って歌う人と比べると、その辺を引け目に感じたことも正直ありました。でも、その不安はブギで歌うと解消されるし、楽器を持って歌うのと同じくらいのポテンシャルを持って、ステージ表現ができる場所であるのは、ブギで歌うからだと思っています。

そして、もう1つ「後ろ向きな理由」です。

ほんの数段落前に、僕が自分自身が「出不精」であると書きました。
僕は「普段と違う」環境に適応するのがすごく苦手なのです。
僕は福岡県に住んでいますが、住んでいる福岡県を出ることがあるのは、年にほんの数回だけです。それもマラソン大会とか好きなアーティストのライブに行くのに久留米へ行く際に、佐賀県の基山町と鳥栖市を通るのですが、福岡県を出るのは、その通過目的だけです。
基本、福岡県から出ることなく人生を送っています。
引っ越しの回数も、指2,3本くらいですし、他所に泊まるのにも、他所でその土地の名物とかも苦手なものが出てくる不安からか、食べる楽しみよりも不安しかないので、旅行とかも苦手です。
つまり自分の「アウェー」になる場所に対して、すごく不安があります。
なので、ランナーの人なんかはマラソン大会とかで、よく他所の土地へ遠征に出たりすることがあったりしますが、僕は基本、自分の車で行ける場所にしか行かないし、エントリーするのはほとんど県内の大会だけです。一度、山口の大会に出たことがありますが、そこが一番遠い場所だと思います。

僕は子供の頃から、人見知りが強い子供だったことは非常に鮮烈に記憶に残っていて、夏休みとかに母の故郷に帰ったりしても、人見知りだけでなく、そこで出てくる食事も食べられるものがなくて、トイレも臭いがキツくて、なかなか入れなくて不自由に感じてしまい、すぐに「家に帰ろう」と親に泣きついた記憶ばかりが残っています。

そう言った理由から、僕は自分の人生の中で、「冒険すること」を敢えて避けて通ってきたところがあり、そのせいで他の人から見ると、何倍も損しているような人生を送ってきたようなフシがあります。その辺が自分の思う「生きづらさ」の一部に繋がっていると思うのですが、その「生きづらさ」を自分自身で許容できるようになってきたのも、割と最近のことです。

マラソンに関しても、歌のステージに関しても、「武者修行」と称して、自分の考えの中だけで、他所にエントリーすることを「やってみたいな」と思うことはありましたが、未だ実行には至っていません。ただ、「やってみたい」という気持ちが生まれただけでも、僕の中では大きな進歩で、その辺は重ねた経験と年の数が物を言ったところだと思います。

「『Dialogue 1991』完成!」と思いきや…

話をブギのKUROさんとの再会に戻しますが、再会して間もなく、僕はKUROさんが率いるバンド、僕も大好きなGuzzle pittのライブを見ることになるのですが、そこですごく衝撃を受けた曲があります。

「君は僕の友達」「願い」の2曲です。
この2曲は僕が10年、KUROさん達と会っていなかった間に出来た曲で、曲の素晴らしさはもちろん、コール&レスポンスのあるパフォーマンスや、思わず泣きそうになる曲の展開やKUROさんのシャウトにヤられたり…と、以前、僕が知っていたGuzzle Pittから、その何倍も何倍も、バンドが大きくなっていました。

『Dialogue 1991』の実質ラストを飾る曲に「ともだち」という曲が入っていますが、この曲は僕がそのライブを見たからこそ生まれた曲で、言うなればYu Katsuragiによる「君は僕の友達」へのトリビュートソングと言ってもいいくらいです。

僕は、この「ともだち」という曲を、約6年ぶりくらいに葛城悠のためにソングライトしたこと、そして、ブギに通い始めたことで、苦手と思っていたステージに立つことが楽しくなり、一時期はオープンマイクに出る度にSNSの連絡先がどんどん増えていくようなリアクションもあり、そこの繋がりからアルバムのレコーディングに参加してくれたミュージシャンの方との出会いもありました。(「ともだち」については、また別の機会で詳しく触れたいと思います。)

こうして、一度制作を頓挫した『Dialogue』を完成させるべく、また曲作りをしていくことになります。
そして『Dialogue』を自分が書いた曲を形にし始めた1991年、17歳の自分に対するフィードバックを意味するために、タイトルに「1991」を追加します。

そうして、一度、2018年に全曲11曲が出揃い、初めて自分の曲のリミックスの外注も実現し、12トラックが揃って、やっとアルバムが完成した!!
と自分では思いました。

…が。実際にリリースしたのは、2023年の3月15日です。
その間の約5年間。アルバムを出さなかったのには、どんな理由があったのでしょうか?それに、実際リリースされた曲数は12曲13トラックです。
そのうちの1つがコロナ禍ではあったのですが、それ以上に大きな理由がありました。それを、また次回以降の話で書いていきたいと思います。

アルバム『Dialogue 1991』へのリンク
2CD 通販サイトはこちら (2枚目のRemixesはCD版のみの収録です。)
https://willie2400.stores.jp/items/640705388ac3945d5d4b4fe6

ストリーミングサービス、ダウンロードはこちら(CD版のDisk1のみ)
https://linkco.re/17U3nHn9

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