村上春樹を料理に喩えるならば

村上春樹を料理に喩えるならば
ここ数ヶ月ハマって、村上春樹の作品を5作品ほど読んだ。初めはアフターダークだった。なぜそこから、と思うかもしれないが、アジカンの曲とタイトルが一緒だったからだ。

なぜ村上春樹を料理に喩えなければならないのか。という問いには、お前はやらなければいけないことだけをやって人生探してるのか。と言いたい。なら今すぐこんな記事読むのはやめて寝なさい。睡眠は必要だからな。

村上春樹といえば、なんか高尚っぽい文章だけど意外と読みやすい。読むという苦労をそれほど書けずにコスパよく質のいい文章を味わえる。
あとなんかすごそう。なんか表層を読んでるだけでは味わえない裏の部分を味わってる感。独特なものを味わってる感。

言うたら出汁ですね。本物の和食料理人を雇ってる感だしながら、実は裏に巨大資本があって、出汁もセンターキッチンで作ってるみたいな。
それか本当にちゃんと取ってる出汁かもしれない。あるいは。あるいわ。
まあでもいいもの食べてる気持ちになれておいしければそれでいいじゃない。本物かどうかは二の次だ。

何か和食を食べて、それに使われている出汁が本物の出汁なのか、麺つゆなのかを自信を持って当てられる人はそこまで多くはないのではないだろうか。
それくらいだったらわかる!と言う人も、本物の本枯節を使ってるかいなか、適切な時間や手間をかけてとられた出汁か、それがわかる人はごく稀だろう。そもそも何が本物なのか、知識の上でも知らない人が多いだろう。本物というものがあるとすれば。
まあでも、出汁って飲みやすいし、麺つゆでも十分美味しい。
ほんものじゃないからダメだ!まずい!なんて言っても自分が幸福に感じられる範囲を狭めるだけだ。そんなのは海原雄山のすることだ。

村上春樹もそんな感じ。雰囲気はあって、しかも飲みやすい。でもそれが本当に美味しいのか、本物なのか、私にはそれを見極めることはできない。
でも先ほども言ったように、本物じゃないからダメなわけじゃない。麺つゆだっていいじゃないか。美味しけりゃいいじゃない。
ダメなのは、自分は本物をわかってるみたいな顔をして、本物と本物じゃないものを分けて幸福の範囲を狭める人間。さらにはそれを人に押し付ける人間だ。
間違いなんてものはそんなにないが、自分だけが正しいと思うことは数少ない間違いの一つだ。

私には村上春樹の凄さはよくわからない。より正確に言えば、対して小説を読んでいるわけでもないのにそれについて論じる権利があると思うほど馬鹿じゃない。でもそれなりに村上春樹を読むことを楽しんでいる。それで十分じゃない。


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