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ヘラクレスを名乗るには小さすぎる

その1「≒猿」

学校や会社を休むことに抵抗がある。人には誰しも「認められたい」だの「相手にされたい」だのいう欲求があって、欠席をすることでその機会が失われる、というか、とにかくみんなと同じことをしてないと気が済まないという感じなのである。

大昔(ここでいう大昔とは、6000万年前のこと)に読んだ本の中に、猿たちの帰属意識だか集団心理だかに関する内容があった。平の猿たちはボスの猿に媚びへつらうことに全神経を使い、とにかくその集団の一員でありたいという欲求でいっぱいだそう。でないと(集団の一員から外れてしまえば)死んでまうから。

つまるところ我々ニアリーイコール猿。ニアリーイコールて。ニアリーイコール、か―。

その2「ウッ」

凡事徹底。弊社の先月のスローガン。まだ当たり前のことを当たり前にできない私にとっては、納得のスローガン。

一方で「チャレンジ精神、見せてくれよな」といった旨をオブラートに何重にも重ねて言われた。

当たり前のことすら当たり前にできない中で、チャレンジ精神て。チャレンジ1年生ってまだあるのかな。赤ペン先生って、いた。昔、ミスって白紙の答案用紙を赤ペン先生に郵送したところ「おやおや?今月はどうしたのかな?わり算の筆算は、とっても大切だから、がんばろう!」みたいなコメントが。努力賞のシールはちゃんと送られてた。ウッ、つったのを憶えている。

今チャレンジできることといえば、当たり前のことをしない、当たり前のことから逃げる、くらいしかないのに。

それはそれとして、「『本当に』当たり前のことを当たり前のようにできない人もいると思います!その人たちの気持ちを・・・」となる人がおります。本当に、て。言葉はナイフ。ナイブズ。本当に、て。言葉はナイブズ。なんかキレが悪いです。ナイブズだけに。

え?

(^_^)/~~

その3「イボ」

ウイルス映画って、血とかかなり吐いたり、イボイボが一気に出てきたりして、少しこわいです。

どんなウイルス映画でも、救いみたいなものはマスクでもワクチンでもなく、人との繋がりだったりする。

けれど、例のウイルスは、そんな人との繋がりさえも侵そうとしている感じがする。

例のウイルスが流行りだしてから「お大事に」の言葉が減った。マスクだの、外出だの、一人ひとりの感染予防の程度というか、危機感というか、それに差があるのは当然で、でも一様に大なり小なりどこかで「不自由」を感じている。いわば「全員」が被害者みたいな環境の中で、そしてバッチシ感染予防をしている中でも感染しうるこの環境の中で、「お大事に」の一言くらいあっていいのではないか。

著名人が感染すると、必ず反省や謝罪のコメントをする。「感染者=犯罪者」の印象操作に一役かっている。地方で感染者が出たとなれば、勤務地が報道され、行動歴も暴露され、窓も割られたりする。憔悴しきっているはずの本人や家族にそんなことしていいのだろうかと思う。

つまるところ、本来「命」を守るためのものが「評判」を守るためためのものになっている気がする。ソーシャルディスタンスという名前にも違和感がある。フィジカルディスタンスではないのだろうか。

もう書けません。以上です。

以上、ウイルス映画って、血とかかなり吐いたり、イボイボが一気に出てきたりして、少しこわいです、という話でした。

その4「遊郭」

最近、輪郭がない。輪郭の郭て、輪郭以外に見たこと、なし。遊郭。スケベワード。挨拶とかも挨拶以外に見たこと、やはりなし。

なにはともあれ、ここでいう「輪郭」とは、自分が自分である証明というか、自己肯定感だの有用感だのとは少し違って、それよりもっと根源的なものというか―。このままの生活ではただのモノクロのカタマリのようなものになってしまい〼。

忙しい毎日に彩りを与えるためには、ふと湧き出た小さな欲求を両手で大切に掬ってやることが重要なのであり、重要なのである。絵を描きたい、遠くへドライブしたい、夜更かししたい、海を見たい、とかいう、誰かに認められたい!と思う欲求が邪魔してこないレベルの、純度100%自分の身から出た欲求。世界に自分ひとりしかいない状況でも生まれうる(生まれうるという言葉、使わながち)欲求。

ここ数日そんな欲求に向き合って、できる範囲で相手をしていたら、自分の「輪郭」が少し濃くなったような気がした。

ような気がして、少し、ワロタ。

その5「怠→」

嫌いなもの。パスタ、日焼け、紙で皮膚を切ること、海、行列のできる法律相談所、酒、夏、人がゲロ吐くとこを見ること、ジャリジャリの貝、なんかベタベタする〜という感覚、夏休み最終日。

今回は、夏休み最終日について。本当にこの日は嫌いすぎる。生活が大きく変化(特に怠→忙)するのが得意ではないけれど、ダントツで夏休み最終日はダメである。

ガキンチョの頃は夏休み最終日の夕方くらいに、泣いていた。ある程度でかくなったあとも、夏休みの写真を見返しては、心がぐしゃぐしゃになっていた。

「大人になればなんてことなくなるだろう」と思っていたものの、なんてことなくなりはせず、やはり写真などを見返しては、アーだのウーだの始まってしまう。夏休みの序盤に戻れないというシステムを本気で恨んだり、悲しんだりして、軽い鬱状態になる。

「未来の話をする」というのが、かなり効くことを知った。明日の帰りはうまいゼリー買うぞ、金曜日はDVDを見るぞ、来週末はドライブしよう、どこへ行こう、温泉かな、温泉といえば夏休みに友達といった温泉すごくよすぎた、夜中にゆったり友達といく温泉、そのあとのアイス、車の中で流れていた音楽、他愛もない会話、どれもよすぎたな。夏休み、よかったよ、ね・・・。

アー。

ウー。

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