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3月某日 私的小説との向き合い方①

 勉強と家事をしつつ、小説を書く、という生活を始めてしばらく経った。まだ本調子ではないので微々たる変化ではあるが、なんとなく規則的な生活ができるようになった気がする。相変わらず睡眠時間は長いのだが。

 という文章を書いてから約2ヵ月が経った。あの頃はまだ勉強と家事が生活の大部分を占めていて、執筆は余裕があるときに行っていた。執筆の時間が取れるか取れないかわからないまま日中を過ごすと書きたい気持ちばかりが肥大する。その結果、まったく関係ない動画を見たりSNSを眺めたりして疲弊し、結局書けないという悪循環を繰り返す日々。生活の覇気が失われていった。

 そこで、優先順位を考え直すことにした。今までは、勉強>家事・人間活動>執筆・読書という順番だった。ここで言う人間活動とは、食べたり飲んだりお風呂に入ったりという身体をを維持する活動のことである。私が本当にやりたいことは何かを軸に組み直すと、こうだ。

 執筆・読書>人間活動・家事>勉強

 これまでの認識がまるきり違っていたことがわかる。飲食を忘れて書く、という行動は高校から大学生の頃によくあった。一番充実していたと感じる時期だ。執筆量も一番多かった。

 執筆に多くの時間を費やせば万事解決だ、と考えるのは簡単だ。実際にできていないということは何かがある。原因を探るために、執筆に対する私のスタンスを振り返ってみよう。

幼少期~小学生

 物語を書き始めたのは小学校低学年の頃だった。国語の授業で「物語の続きを考える」という課題に取り組んだことがきっかけだ。

 執筆に対する憧れは昔からあったようで、ひらがなで「ももたるう」と題した絵本を作っていた。内容にオリジナリティはなく、『桃太郎』のままのストーリーがあったような気がする。最初から本の形にして、そこに書き込むという執筆方法だった。学校の授業で初めて原稿用紙に触れ、原稿を先に書く概念を知ったのだと思う。

 低学年の頃はよく設定を考えていた。攻略本を読むのが好きだった私は、地図やお金の単位などが書かれているページを真似してノートにオリジナルの町を作っていた。主に病気の回復期に書いていたような気がする。身体はだるく、頭は元気だが、学校には行けなくて時間がたっぷりあったからだ。暇つぶしのお遊びとして物語設定を作っていた。

 塊になった文章を書き始めたのは小学4年生からだ。その頃、物語を作る友人ができて、帰り道にお互いの創作ノートを見せ合っていろいろ話をしていた。読んでもらう機会があったため、ほぼ毎日時間を作って机に向かっていた。机をリビングから動かしたタイミングだったから、集中できた。とはいえ、会話文中心のそれは小説とは言えないものだった。そして、読み手が一人しかいなかったために、友人の好みに合ったものしか書けなかった。嫌いな設定があると「こういう関係は書かないでほしい」とはっきり言う人だったからだ。その友人とは進級した後喧嘩別れして以来、疎遠になっている。

 5年生になり、私の小説を読んでくれる人が増えた。時間が余ったらテストの裏面に小説を書いて丸をもらったり、「文庫を作ったら?」と担任の先生に言われたりと私のイメージがすっかり「小説家をめざして物語を書いている子」になった頃だ。クラスで物語ブームのようなものが起き、将来の夢に小説家と書いた人が私以外にも何人かいた。しかし、その頃私がなりたかったものはエッセイイストであった。さくらももこさんや阿川佐和子さんのエッセイを読みまくっていた時期だった。小説には地の文が増え、少しは形になっていたものの、最後まで書き切ったことはなかった。

 6年生になって受験勉強が始まった。書く時間も読む時間も制約されていたが、隙間時間を見つけて続けていた。この頃、ポメラを知った。手書きしなくてよくなり、寝る前にぽちぽち書いた。自分のパソコンも手に入れたが、まだ投稿サイトの存在は知らなかった。創作ブッククラブなるものを作り、初めてきちんと小説を書き上げた。色画用紙をつけて製本のようなこともした。宝石の名前がついた猫の物語で、ファンタジーだった気がする。記憶が曖昧なのは、もうこの世に存在しないからだ。亡くなった祖父と一緒に灰にした。写真を撮っておけばよかった。少し後悔している。小学6年から中学1年までは書くどころではなく、ひたすら本を読んでいた。

 長くなりそうなので今回はこの辺で終わろう。次回は中学から大学、現在に至るまでの話をしようと思う。

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 小学生の時に使っていたノートである。No.2はどこかに行った。この他にネタ用のノートがあった。言うほど書いていないのがわかるだろう。

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