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共生する

何だかね、いまの世の中って、いろんなことの許容値が下がってきてるんじゃないかなぁと思う。

みんな、「ああしろ」「こうしろ」と指図されることに、いいかげんイヤ気がさしてて。

しかも、その指図の根拠となるものは、まるで提示されず。

TVの中で、くり返しくり返し叫ばれている“危機”なるものが、一向に体感できない現状に。

誰もが「いい加減にしろ」ってエネルギーを、周囲にバラまいてる感じがする。

極端な言い方をすると、ちょっとした“集団ヒステリー”的な匂いがするんだよね。

とはいえ私はいま、少なからず社会から逸脱してしまっているので。

自分の周囲を見渡してみて受ける印象と、テレビやネットのニュースを元にした、ぼんやりとした全体像しかつかめてないのかもしれないけど。

なんだかみんな、壁の向こうにいるらしい、人食い巨人を恐れるのと同じメンタリティで。

どうやら本当に特定感染症指定病院をパニックに陥れているらしい、目に見えぬウィルスに対して、必要以上に過敏になり過ぎちゃってるんじゃないのかな。

いろんな情報があふれているぶん、絶えず揺さぶられて、疲れちゃって。

「うるせぇ、オレはこう思ってるんだから黙ってろ」なんていう、とがったエネルギーが、そこら中を飛び交ってる気がしてならない。

理不尽で悲しい出来事も、あちこちで起こってしまってるみたいだし、ね。

でもね、私、思うんだけど。

これまで私が生きてきた中で、たったひとつの事象をめぐり、いまほど多様な視点からの受け止めが社会の中に混在してたことって、かつてないんじゃないのかなぁ?

思考停止状態から、新しい世界を自ら切り開いてゆこうとする視点まで。

とにかく、多様な受け止めがあって。

そうすると当然、選択も行動も、きっと多様になってゆくはずで。

もちろん、大多数と少数派とに、別れてしまうことになるのかもしれないけど。

だからといって、マジョリティがマイノリティを排斥するなんてことになったら、行き着く先は全体主義の復活とか、極端なことになってしまってもおかしくない。

本当に、それでいいのかな?

人は一人ひとり、その人だけの個性を持っていて。

だから、人と違ってて当たりまえなんだよね。

まったく同じ個性を持った人は、一人としていないの。

つまり、何を言いたいのかというと…。

自分と違った意見を持つ人とも、共生していけるし。

実際に、共生してきたんだよ、これまでも。

だから、自分のことも人のことも、同じように認めることが大事。

そしてこれからはそれが、いまよりもずっと、大事になっていくんじゃないかな、と思う。

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