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共感

100日間チャレンジ(いまでは110日間)の、44日目。
昨日の、日銀総裁の会見以降、ドル円がすごいことになってますねぇ。
これ書いてる時点で、158円越えてます。
今日からのゴールデンウィークで海外旅行を計画してた人たち、直撃じゃないですか。
もはや、キャンセルすることも難しいだろうし、ねぇ。
株価にしても、4万円を越えて盛り上がってたのなんて、ほんの一瞬で。
いまでは「NISAをすすめたのは、国の陰謀だったんだぁ!」って、損切りする人が続出してるとか、いないとか。
それでも、すぐに見切りをつけて資金を引き上げられた人がいるとするなら、それってかなりな英断ですよねぇ。
「ご苦労さまでした」って、ビールでも注いであげたいくらいです。

さて、本題へと入りたいと思いますが。
今日は私たちにとって「共感」ってものが、いかに大切かに気付いたので、それについて書いてみようと思います。
私ねぇ、とっても残念ですけど子どものころ、家族から一切、共感ってものを与えられずに育ったんですよ。
たった一人の兄弟である兄とも、10歳も年が離れているので、当時の私から見れば他の家族はみんな大人だったはずなのに。
誰ひとり、私に対して共感してくれる人がいなかった。
「今日、幼稚園でこんなことがあったよ」なんて言ってみたところで、誰からも「そうなんだ」とすら受け止めてもらえない。
それどころか「あんただけ遊んでられていいわねぇ」などと、例外なくチクリ!と痛い一言で跳ね返され続けて、育ちました。
これがねぇ私、とにかく辛かったんですよねぇ。
いや、特に母親からはいっしょにいるあいだは四六時中、怒鳴られまくってましたから、もちろんそれもしんどかったんですけど。
そのしんどさを誰からも、共感してもらえなかったことのほうがずっと、苦しかったことに気付いたんです。
まぁたぶん、遠巻きに見られてたって感じですよねぇ。
見て見ぬふりをされてたというか…。
同じリビングで過ごしてるはずなのに、私が母親から怒鳴られているのを尻目に、他の家族はテレビ見て笑ったりなんかしてて。
それがもう、どこまでも孤立無援な感じで、私としては絶望感しか感じられませんでした。

いやホント、人間にとって「共感」って、ムッチャ大事なんですよ。
こちらを見て、気に掛けてもらうことって、特に子どもにとっては欠かせない経験で。
それがあってはじめて、生きていられるんだと思う。
というのもねぇ、これも、ついこないだ気付いたんですけど。
私ずっと「自分はいちゃいけない人間だ」って思い込んでたんですよ。
子どものときに、誰からも共感を与えてもらえなかったってだけで「自分は存在することを許されてない」って堅く、信じ込んじゃったんです。
言いかたを変えると、周りの人たちに「仕方なくいさせてもらってる」って、ムッチャ卑屈に世界をとらえるようになっちゃった。
信じてもらえないかも知れないけど、ホントのことです。
もちろん潜在意識下ではあるけれど、私これまでずっと、そうやって生きてきました。
そりゃあ、苦しくって当然ですよねぇ。
常に、存在してること自体に、後ろめたさを感じてたわけですから。
つまり共感してもらうことって、存在を許してもらえてるって、安心そのものなんですよ。
これって生きてくうえで、必要最低限の安心なんじゃないですかねぇ?
これがないと、生きるのが苦しいだけになっちゃう。
やっぱり私たち多かれ少なかれ、人に共感してもらいたいって一心で、生きてるんですよ。
生きるって自分を表現することそのものだから、たとえ否定されたとしても、それを人に受け止めてもらうことで生き続けていかれる。
でもね私みたいに、親から最低限の安心さえも与えてもらえなかった人たちも、もしかしたらいるかもしれない。
そういう人は自分で、自分に共感すればいいんです。
子どものときはできなかったけど、大人になった、いまならできる。
少なくとも私は、そうしていこうと思ってます。
どんな自分にも、いつだって私だけは、共感していたいし。
自分がいいって思ったことには、いつだって満足していたい。
もちろん、人に共感してもらえたら、うれしいけれど。
誰からも共感されなくても、私だけは「いいよね」って思っていたい。
もうね、すべてはそこからな気がしてます。
何があっても、自分だけは絶対に自分を裏切らない。
そういう自信を持ちたいなぁと、いま、強く強く思います。

では、今日はここまで。
もしも最後まで読んでくれた方がいたなら、ありがとうございました。


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