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超自我を制御する

私はこれまで、何でもシリアスにものごとを捉えがちだったんだけど。

それって、どうやら三次元でのデフォルト設定らしい。

純粋に目の前のことに夢中になれていた子供に“自我”が目覚め、最初に奪われるのは、“何も考えてない”状態。

他者という、自分とは別の存在を認識するだけで、そこには“比較”が生まれ。

「あの子はできてるのに、私にはできない」という、焦りが生まれ。

さらに大人から一律の評価基準を押し付けられれば、容易に頭の中で、いらぬ声がささやき出す。

「本当にそれでいいの?」

「失敗するんじゃないの?」

「そんなこと、できるはずないっしょ」

もちろんその時点で、無条件に自分を受け入れてくれる親がいると、いないとではまるで違うと思うけど。

それでも多かれ少なかれ、誰の頭の中にも“超自我”のささやきが聞こえていて、シリアスになるよう促されている。

すなわち、そこまではデフォルト設定なんだよね。

もしかしたらそれが、これからは変わっていくのかもしれないし。

変わっていってほしいと、私は常々、思ってるんだけど。

いま現在は少なくとも、まずは超自我の声を無視して動けるようになることが、誰しもに共通して与えられた課題なの。

どうやら、そこをクリアしないと、持って生まれてきたツールが使えるようにならないらしい。

なんかほんっと、この三次元のシステムって、ロールプレイングゲームそのものだよね。

で、まぁこれって本当は、自分で体験して手に入れるものだと思うけど。

どうせ腑に落ちないと活用できないはずだから、言ってしまうと…。

感情ってね、実はただの“体感”なんですよ。

不安や恐怖も、そう。

交感神経が優位になって、血管が縮み、血流が速くなって心臓がドキドキしてるだけ。

戦いに備え、筋肉に多くの血流を行き渡らせるための、生理現象に過ぎないの。

だから不安や恐怖にフォーカスしちゃうと、その状態が持続することになって苦しくなるけど。

フォーカスしなきゃ、いつの間にか解消してるもんなの。

つまり、何が言いたいのかというと。

ただの体感に過ぎない不安や恐怖に、とらわれることなく…。

「恐くても、行動しろ」ってこと。

そうすれば、自分の中に同居している超自我の御しかたが理解できて。

それが身に付いたあかつきには、晴れて、自分が持って生まれてきたツールを自由に使えるようになるんだよね。

だから。

恐くても、飛べ!私。

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