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解離性健忘とは?

100日間チャレンジ(いまでは110日間)の、11日目。
今日から、新たな100日間のはじまりでもあるメモリアル・デー。
さて、今日はどんなことを書こうかなぁ?

恐らく誰も興味ないだろうけど、私が書きたいこと、書かせて頂きますね。
昨日、子どものころに人とのバウンダリーについて学ぶことができなかったので、ずっと私、人と接するときには頭が恐慌状態だったって書いたんですけど。
最近ちょっと落ち着いた状態で人と接することができるようになってきて、いやぁホント私、人のこと見てなかったんだなぁって気付きました。
正直言って、この人はどんな人なんだろう?って、興味すら持てなかった。
なぜなら、私の頭の中は、いらぬ警戒心でいっぱいの状態だったから。
うーん、ここからはこれまで、カウンセラーにしか話してないことなんですけど。
子供のころ私、解離状態にあったんで、たぶん日常的にちょいちょい、記憶が飛んじゃうことがあったんですよねぇ。
おそらく「解離性健忘」ってやつだと思うんだけど、目も開いてるし起きてる状態なのに意識は身体になくって、呼び掛けられても気付けないって状態になっちゃう。
で、私のそういう状態を、親がムッチャ気にしたんですよ。
いきなり耳元で名前を叫ばれ、ムリヤリ強引に気付かせられて。
顔を見るたんびに「目の前のことに集中してなさいっ!」って、イヤになるくらい言われました。
でもねぇ、7歳以下の幼い子どもって言葉より、感情のほうが読み取りやすかったりするですよ。
単語ひとつひとつは分っても、ひと固まりの言葉の意味を組み立てるのには時間が掛るので、犬や猫みたいに自然と感情を読んじゃう。
それで私、親が私のことを恥ずかしがってるのが分っちゃったんですよ。
うーん、恥ずかしいっていうより、世間体悪がってるっていうのかなぁ。
人前でそんな姿をさらさないように「目の前のことに集中してなさいっ!」って言ってるのが分った。
だから私、解離性健忘の症状って恥ずかしいことなんだ、って理解しちゃたんですよねぇ。
そしてそれ以降、このことは誰にも知られちゃいけないことになった。
つまり人と関わるとき、まずはそれに気を付けないと、いられなくなってしまったわけです。
ところがひとつでも人に知られちゃいけないことができると、ウソをウソで塗り固めるみたいにどんどん、隠しておきたいことが増えてくんですよ。
そうやって徐々に、相手のことになんて、とてもじゃないけど気を回すことができなくなっていったわけです。

ところで私なりに調べたり宇宙に教えられて行き着いた「解離」のイメージって、パソコンで言う、ハードディスクをパーティション分割したみたいな感じなんですよ。
たぶん五歳くらいの、幼いころから日常的に過度なプレッシャーを与えられ続けたことによって、私、メンタル的な限界を迎えちゃって。
どうにか目の前のつらい現実から逃げようと、脳内ハードディスクに別領域をつくって、そこに一時避難できるような逃げ場をつくったんですよね。
解離の場合でいえば、バックアップ領域みたいにOSから切り離して、一時的にデータだけを収納しておけるような場所。
外側からのプレッシャーによるストレスが、受け止められる限界点を超えると瞬時にそこへ飛んで、肉体からは意識が抜けた状態になっちゃう。
私としては、どれくらいの頻度でそういう状態があったのか、判断が付かないんですけど。
会社員になってからも、多大なストレスを受けるとたまぁに、そうなることがありました。
つまり大人になっても、このストレージ分割は機能したままだったってことですよね。
いまは、どうなんだろう?
ちょっと自分では、よく分りませんが。
ただ過剰なストレスにさらされること自体が激減したし、分割されたままだったとしても、意識が飛ぶようなことはなくなったことだけは確かです。
ちなみに、解離の症状が進んで「多重人格」になっちゃうと、Macパソコンのパーティション分割したところにWindowsをインストールするみたいに。
それぞれ別のOSで、別人が起動できるみたいなセッティングがなされた状態になるんじゃないかなぁと思います。
こんな話、活用できる人はそうそういらっしゃらないでしょうが。
いまは、これまで秘密にしてきたことを誰もが見られる場所にさらすことが、カウンセリングにつながるようなので。
あえて、書かせていただきました。

では、もしも最後まで読んでくれた方がいたら、ありがとうございました。
また明日。

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