それぞれの“真実”
なるほど、そうか。
人は誰もが、自分の見たいことだけを、見たいように見てるんだ。
だから同じ場面を目にしても、フォーカスする箇所が違うってことが普通に起こり得て。
だとすると、受け止めかたに違いが出ても当たりまえなんだ。
それどころか無意識のうちに、目にしたことを歪曲して認識することさえあって。
この認識の歪曲こそ、「〇〇すべき」や「〇〇じゃなきゃいけない」といった、いわば“常識”とされるものの悪影響なんだけど。
でも、その人にとっては、歪曲を経て見たものが“真実”であって。
つまり、万人に共通する“真実”なんて、ないんだな。
だから、私に、人の“真実”を否定する権利はないし。
人に、私の“真実”を批判される筋合いもない。
私は、この私のままここにいて、したいことをしてればいいんだ。
したくないことはしなくていいし、書きたいことだけを書けばいい。
それに対して、誰の許可を得る必要もないんだね。
なのに私は何をするにも、誰かの目を意識し、常識に反してないかと常にビクビクして。
その目って結局、私を否定し続けた母親の目なんじゃん。
母親の機嫌を取ろうと、つらくても笑ってた子供のころの私のまま。
死んじゃった母親の、気に入るようにしてただけなんじゃん。
アホか。
そうじゃなくって、私が私を認めればいいんだよね。
私が私を認める、つまり、したいときにしたいことをする。
自分に声を掛け、勇気づけ、行動を促し。
できたことに目を向け、自分をほめて。
何もしないことすら、自分に許す。
それができれば、同時に人も認めることができて。
人のものの見かたや、“真実”だって。
「ああ、そういう受け止めもあるんだねぇ」って。
興味を持ったり、面白がったりできるんだ。
それぞれが、それぞれの目的で、この世に生まれ。
それぞれのゲームを楽しんでるんだから。
「そっちのゲームも面白そうだね」って感じで、いいんだよね。
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