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愛の器(エッセイ)

持論であるが、
人は大きな器を持っていて、それを満たすために他者からの《愛》を求めている、と思っている。

その器を目一杯満たすためには1人からの愛では到底無理で、
(因みに愛は液体ではなく固形のイメージ)
底上げして無理矢理いっぱいにしようとすると、器の軽さに不安を感じて「これ愛が入ってますよね?ちゃんと満ちてますよね?」と他者への確認作業を要する事になる。

底上げしないで満たされないままでいると、他の愛を入れてどうにか満タンにしたくなる。

色々な形の愛を寄せ集めて、器をいっぱいにする。
そうすると満たされて安心はする。
が、違う形の愛たちは器の中でぶつかり合ってこぼれ落ちてしまう事もしばしばある。
だからまた、こぼれた分を集めに出かける。
収まりの悪い愛を集め満たし続けるのは体力がいるので、だんだんと限界を感じてくる。
でもそれを続けられる人もいる、その人は多分、未練なく愛を溢し続けているのかもしれない。貯めておく事をしないで垂れ流しの愛。それはそれで楽になるのかもしれない。

限界が来て、こぼれていく愛を諦めて、補充する事をやめて、手持ちの愛を守るようになってくると、自分の持つ器の大きさに目を向けるようになる。
今ある愛にそぐわない大きさの器を持っているなら、合う器に作り替えようと思うかもしれない。
手持ちの愛が居心地の良いように、程よい大きさへの変容させてゆく。

そうすると何となく落ち着いてきて、何となくそれで良いような気がしてきて。
すると、愛を手にできる機会ができた時、今よりもう少し愛を持ちたいと思った時、器を少しずつ大きくしていけるようになるのかもしれない。
そして最終的に、自分の持てる愛のキャパシティが決まる…のではないか。

ここで言っている愛とは《恋愛》だけのものではない事を注釈しておく。

様々な愛を貰って集めて取りこぼして残して、少しずつ持てるキャパシティがわかってきて、大切にすべきものを厳選出来る様になってきて、自分の持つ愛の器に安心できるようになれればそれは幸せな事だな、と思う。

そうなれるように、私は自分の器を磨いてゆきたい。



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