ストーカーと鍵だらけの家(人生②)


小学生の頃、ストーカー被害に遭っていた。

通学路の途中にある家の窓のカーテンの隙間から顔の片側だけを覗かせて、女の人が毎日こちらをじっとみている。

たまに庭で草刈りの格好をしてしゃがみ込んでいる時がある。その真横を通るときだけ、女の人は微動だにしない。

諸事情で引っ越した後も、登下校のルートで待ち伏せされてすぐに家がバレた。

学校が終わり帰宅して、まだ親の帰ってきていない時間、たまにインターホンが鳴る。扉を叩く音と名前を呼ぶ声がする。僕は急いで窓の外からは見えない部屋の隅の死角に身を潜める。

玄関の音が止んで少しすると、足音が玄関から居間の窓際まで来て、居間の窓がゴンゴンと鳴る。存在がバレないように数分間じっとしていると、しばらく無音になる。

それが無音なのか自然なのか分からないから息を潜め続ける。10分ほど経ちもう去ったな、と思い居間に戻る。

親のいないときを狙ってきているから、少し離れた月極の駐車場で親の車を先に確認しているのだろう。

そんな生活が数年続いた。
休日に学校のグラウンドでサッカーをしていると校門の隅にその女の人がいることがある。(平日の体育の時間にも現れた)

その人はいわゆる地域のヤバい人として認知されていた。

僕の通っていた小学校にクレームを入れたり、
交通安全ボランティアの人に暴言を吐いたり。

そのボランティアの人は
「たまに居るよね、あーいうヤバい人。」
と眉をひそめていた。

その時の僕は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

そのストーカーは僕の祖母だったから。



ヤバい人が身内で、
身内が地域の人に迷惑をかけている。


引っ越す前は二世帯住宅で祖母は1階、
両親と僕と弟は2階に住んでいた。

家の中でもストーカーは健在で、
一階の暗い廊下で物音を立てずに僕らの会話に聞き耳を立てるのが祖母の日課だった。
2階の廊下から静かに階段を覗き込むと暗闇に祖母の服がうっすら見える。

風呂場は一階にあった。
入浴中も聞き耳を立てられている。
風呂場から脱衣所に上がると、
ダダダダと足早に逃げる音がする。

昼間の2階に誰もいない時間には勝手に忍び込んで部屋を物色してくるから、2階の扉は鍵だらけになった。

2階の5つの扉、階段の上下に取り付けた柵の全てに暗号式の鍵が付いた。なぜかそれに対抗して祖母も一階のあらゆる扉に鍵を取り付けた。

晴れて屋内の12の扉に鍵のついた不自由極まりないセキュリティ万全の家になった。


祖母は僕の母を嫌っていた。
いわゆる嫌な姑で、何か問題が起こると全て母のせいにしていた。

そして虐待をしていると信じ込んでいた。
ご飯をあげていないとか、殴りつけているとか。


そんな妄想は周囲のあらゆる人間に向いていた。
近隣住民が自分を監視していると思い込み、
学校の人間は孫をいじめる悪い奴しかいないと信じていた。

僕らの知らないうちに祖母は色々やらかしていたらしく、道路の向かいの家の人が怒鳴り込みにきたこともあった。

友達の家に遊びに行ったときの、
あの家の子か…、という友達の家の人の雰囲気を薄々感じていた。

祖母の加害妄想とストーカー、地域への迷惑が本当に毎日続いたためについに両親は家から逃げることにした。それが引っ越した経緯になる。

先に書いたように、すぐに新居はバレたし、通学路が伸びたから余計にストーキングされている感覚が染みついた。


僕は中学生になり、
なんの病気かは知らないけれどいつの間にか入院して数年は音沙汰がなくなっていた。

そして一切会わないうちにもうすぐ死ぬらしい連絡がきた。

病院で意識のない祖母を前に母は号泣していた。

それはたぶん、自分を苦しめる元凶がいなくなって、やっと死んだっていう暗い安堵だったと思う。


それが死に目だったのか、すでに死んでいたのかもよく覚えていない。葬式も火葬も気付いたら終わっていた。

身内の他界なのに全く悲しめなかった。

棺桶で白い百合の花と潔癖な香りに包まれていたこと、火葬場で出されたお茶が美味しかったことは覚えている。


医者に泣き叫びながら生き返りを願った弟の死と、もうちょい早く死ねば家は平和だったかなと惜しむ祖母の死で、思春期の僕の死生観はかなりぐちゃぐちゃだった思う。




遺品整理の際に見る機会があった祖母の手帳には、祖母の加害妄想の標的になった人間の名前/住所/電話番号など個人情報がびっしり記されていた。

あの子は悪いやつだから関わっちゃいけないよ!
と言われていた僕の友達とその家族のことも記されていた。

1階にあった家族のアルバム写真には、
キリでガリガリと削られ顔の部分が白く抉られた跡が大量にあって、それはすべて母の顔があった場所だった。



死んでから思ったことが幾つかあった。

一つは当時まだSNSが普及していなくて良かったということ。

祖母はいわゆる集◯ストーカーのハッシュタグで見かける人々に近い状態にあったと思う。

もしSNSがあったら、田舎の顔の割れたコミュニティの中でも他人を盗撮してアップロードしていただろうし、母への加害妄想も世界へ垂れ流されていただろう。


もう一つは、それでも祖母はある時点で被害者であった可能性があり、社会の被害者のなれ果てかもしれないということ。

祖母は農家の5人姉妹の末っ子として生まれている。
祖母の生きてきた時代の5人姉妹であれば「非国民」と罵られることもあったかもしれない。家族の中で最も独占できるものが少ない立場だったかもしれない。



おそらく子どもには黙っているだけで、これより恐ろしい話を親はまだまだ持っていると思う。


おかげさまで地元での居心地の悪さと家族内の不和は未だに残っている。


祖母は地域から監視されていると言いながら、
自身が家族や近隣住民を監視していたし、

母が虐待していると責め続けたために、
母の癇癪はキツくなっていった。

皮肉にも祖母の妄想は彼女自身の行為によって叶う節があった。


母は祖母の加害妄想に苦しめられながらも、
祖母が迷惑をかけた人々に謝罪して回っていた。

子を亡くし、祖母から虐められた母の精神も本当にギリギリで、よく自殺に踏み切らなかったとさえ思う(寸前まではいっていたけど)。


僕に関しては、この環境のお陰で人への警戒心みたいなものと、他人に上手に甘えることのできない未熟さが育った気がする。


祖母が生前に乗っていたのと同じ車種の車を見ると少しドキッとする。


自分が老いて理性が薄くなった頃に同じような人間にならないか不安になる。

気のいいおじさんになりて〜な〜〜

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