皇国思想についての質問

下記の文章について質問が寄せられました。
「平安末期の武家政治から、みな皇国思想でした。
 武将や将軍は自分が天皇になろうとか、天皇を排斥しようとか、
 そうした行動を取った武将・豪族は歴史上一人もいません。
 源頼朝から、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家、権力者達は
 天皇に「征夷大将軍」と権威づけてもらえば、
 それでよかったのです。」

質問
信長は、天皇を越える存在になるべく、様々な準備をしていました。
それが光秀が奴を退治した一大要因かと。
光秀の英断が無ければ、日本もキリスト教に侵され、
今とは異なる社会環境になっていた可能性が極めて高いと思います。
言うまでもなく、歴史改竄は維新前後に限りません。

この質問に対する穂高先生の回答です
 織田信長が国家一統にたどり着きそうな時点で、「正親町天皇」に譲位を迫っています。この天皇も頑強な性格で言うことを聞かない。そうこうしている内に、本能寺で無防備に陣取っていた信長は、信頼する部下の明智光秀に急襲され、あっけなく殺されてしまう。

 信長が正親町天皇の譲位を迫ったことは事実ですが、「天皇制を破壊して。自分が天下の頂点に立つ」つもりだったか。そこらは学者、作家、質問者の想像の世界です。

 信長よりも権力と実力をもった豊臣秀吉は、太閤・関白の官位で満足しています。そして、朝鮮のむこうにある中国大陸を狙いにいきました。秀吉は天皇世制度の破戒は望まなかった。天皇の権威の利用で留まっています。これは事実です。

ここらから類推してみてください。
 信長旧臣の太田牛一著、『信長公記』(しんちょうこうき)があります。原本は江戸時代初期に成立した[1]。全16巻。一般的に、他の二次史料(『安土日記』、『安土記』、『信長記』)にくらべて、記述は、最も正確であるとされています。とはいっても、殺された信長に、当時の心境まで聞けません。

 信長の人気は高く、短編や残闕本を含めると70本以上が確認されています。その数だけ、織田信長史観があります。そこらは愉しまれるとよいでしょう。

以上です。

穂高先生へのご質問がございましたら、幕末芸州 広島藩広報室までお寄せください。

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