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「未完の始まり 未来のヴンダーカンマー展」感想

豊田市美術館で開催されている、現代美術の展覧会です。毎度ワクワクさせてくれる数少ない美術館です。

これまでの展示もぜひ読んで頂きたいです。

概要

ヴンダーカンマーとは「脅威の部屋」と訳される、世界中の珍品が集められた部屋のことを指します。特に15〜18世紀にかけて貴族たちが鉱物や貝殻といったものをコレクションし、見せ合っていました。

ナポリの貴族フェッランテ・インペラート氏のヴンダーカンマー

18世紀に博物学が成熟して、謎のままごちゃ混ぜになっていたものたちが分類され、整理されていきます。それが今日の博物館そして美術館へと繋がっていくのです。

今回は世界がグローバル化の下で均質化していく中で、ミュージアムはどのように異文化を伝え、歴史を編み直していくかという現代の問題を、ヴンダーカンマーという原型に戻って考えてみようというものです。

《ピタゴラスからペンローズへ》2019年
《最上級の味わいと見事な神聖さ》2021年

ガブリエル・リコはメキシコのアーティストで、自然と人工、有機物と無機物というような素材の二項対立を起こすのが巧みだと思いました。チグハグでシュールな造形は、西洋彫刻から派生したと書かれてきた彫刻史の諸要素から解き放たれています。

先住民族の思想や消費社会のチープさも混ぜ合わせた含蓄のある作品ですが、見た目がまさに昔のブンダーカンマー的なテーマに完璧に合致していると思います。上に挙げたような版画のイメージの再解釈です。美しさ、体系、価値といったものでモノたちが切り分けられる前のオブジェに抱く困惑は、喪われた私たちの「混沌への耐性」を強く想起させるからでしょうか。

《リング・ロード》2018年

2020年の横浜トリエンナーレでも圧巻だったロシアのタウス・マハチェヴァの作品。ルーツであるダゲスタン共和国に根付くローカル性が非常に強いものです。

歴史や文化の記録といった巨大なものと、本来は個人的でとても小さいものが作家の壮大な空想によって膨らんだ記憶になったことで、対等にぶつかり響きあっているように思います。よく見る、大と小がぶつかってというアンバランスさを喚く作品ではなく、がっちり噛み合う強度。現代を牽引していく作家のひとりです。

映像は57分で、さすがに観るのが厳しかったです。ダゲスタンで有名だった祖父をテーマにした作品で、家父長制批判のニュアンスが感じられますが映像として特別優れたものではないように思いました。冗長ですし、男性中心主義≠家父長制のはずですが、そのあたりが微妙になっています。

上の対談を知っていれば読み解けるものですが、多くの人がその長さとあまり変わらない映像に首を傾げていましたし、思考を呼びかけるテーマが浮かんでくる前に去ってしまいました。そもそも鑑賞が難しい作品でしたから咀嚼しきれていないところがあります。

《TiOS》2024年

映像とインスタレーション。田村友一郎氏の作品ですが、AIと類人ルーシー、SFと人類学にジョン・レノンの歌が響き渡るというカオスなものです。異様な空間ですが、ユーモラスでもあります。

人間の身体の一部でもあるチタンが、ゴルフクラブからスマートフォンにまで化けている中で、人間と技術の長い歴史を占うという壮大なもの。キャプションを読めば置かれている道具や流れている音楽といった点が綺麗に結ばれていくため、とても知的なエクスタシィを感じられるものです。人間の存在の根拠は何だろうか。一切はチタンなのかもしれません。

中国のリウ・チュアンもSF的な作品で、古典絵画の動物が消えていく、産業発展と人類という巨大なテーマを扱っていますがこちらも1時間ほどのもので、流石にくたびれます。マハチェヴァや田村氏の作品を観てるともう目が疲れていて印象を保つのが難しいです。

《Take My Breath Away》2017年
《無題》2023年

ベトナムの作家ヤン・ヴォーの傑作。花々の名前と写真が収められたものがずらりと整列しています。ロマンチックな聖域のように思えますがその木枠はベトナム戦争を推進したアメリカの官房長官マクナマラの息子の農園の胡桃が使われています。それが明かされると、一気に美しいものが権力批判を帯び出す転換が起きます。

中央の古代彫刻のタイトルが映画「トップガン」の主題歌であり、アメリカのミリタリズムそしてその奥にあるギリシャローマ的な欧米文化のマッチョイズムを暗示します。静謐な空間に暴力が漂っており、壮大な批判が込められています。

広い展示室含めて空間としても巧みで、癒しの奥に潜む血といったコンセプチュアルアートならではの、表裏一体の感動が体験できるはずです。

感想

①映像作品について

https://x.com/soldi79710444/status/1778382758521487685?s=46&t=WMtTlzWwMhHdeSj23DCRWw

Xで呟いたように、美術館という場で長い映像を見せるということの限界を感じさせるものでしま。映画ではないので起伏あるストーリーや効果はなく、淡々とナレーションがというものですが、それで1時間はさすがに厳しいですし、本当に全部しっかり観た人がいるのか疑問に思います。私は観ましたが館を出る時には疲労困憊でしたし、周りの人はちょっと観て、しかも大抵途中からなので何かわからず、すぐに去っていきます。

鑑賞者のことをまるで考えていない、独善的な作品とネガティブに受け取りかねないものです。長大な映像作品と美術館の展覧会の場というところでの相性が悪すぎます。

今回も美術館の標準的な椅子では集中力が保てないこと以上に、隣接する映像作品の音漏れが激しいのは非常に気になりました。鑑賞中に隣の作品のセリフが聞こえてくるのはさすがにダメだと思います。

②巨視的なテーマを扱う根源的よろこび

猫も杓子もとりかかる資本主義批判ではなく、それを内包したさらに大きなスケールでの批判があり対話がありました。人類史的な規模の考察がどの作品にもそれぞれのやり方で展開されていて、大変見応えがあります。

それを成立させるためにヴンダーカンマーというテーマを選んだのが秀逸だと思いました。細分化と体系化によってカオスで大きな問いたちが混ざり合いぶつかることもなく、上品な論文のネタとしてしか息ができない中で、それを壊すパワフルなものを浴びられます。

かつてのヨーロッパにあった脅威の部屋が博物館/美術館へと洗練されていく中で失われた図太さと巨視的なテーマが、今回再び復権した(しかも回顧ではなくアップデートされて)事実が既に刺激的でした。私的なものからの出発を尊ぶ風潮や体系に振り回されず、私たちはもっと大胆かつユーモラスに、大きな問いにぶつかっていってもいいように思いました。

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