見出し画像

【ペリリュー島の戦い】

西太平洋のフィリピンとパプアニューギニアの間のミクロネシア地域に、500以上の小さな島々からなる国がある。

〈パラオ共和国〉である。

スペインの植民地支配からドイツの植民地支配を経て、1919年、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」によって、日本が〈パラオ〉を委任統治していた時期がある。

現在の公用語は、主に〈パラオ語〉〈英語〉であるが、アンガウル州では今も尚〈日本語〉が使われているという。

通貨は〈アメリカドル〉

日本の委任統治領になった〈パラオ〉には多くの日本人が移住した。居住者33,960人の内訳が、内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人で、4人に3人が日本人となった。

かくして、日本統治の開始に伴い、現地人に対して日本語による学校教育が行われるようになった。また、建物・道路・水道・電気などのインフラ整備も進めていくうちに、初めは不信感を抱いていたパラオの人々は日に日に日本に感謝の念を募らせるようになっていく。

このように、日本は、〈スペイン〉や(ドイツ〉が行ってきたような「搾取」する植民地政策とは真逆の統治を行ったのである。

・・・・・・・

さて、大東亜戦争も末期になり、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、日本軍の重要な軍事拠点となっている〈ペリリュー島〉をアメリカ軍が奪いに来ることになる。

・・・・・・・

愈々いよいよアメリカ軍の攻撃が迫ってきた。

・・・・・・・

陣地構築にかり出された島民たちはすっかりと日本兵と意気投合し、ペリリュー島守備隊歩兵第2連隊長:中川州男くにお大佐は、島民の代表から「一緒に戦わせて欲しい」との申し出を受ける。

しかし、日頃から優しかった中川が態度を豹変させて言い放った。

「貴様ら土人と一緒にわれわれ帝国陸軍が戦えると思うか!」

そして島民は〈パラオ本島〉や〈コロール島〉に疎開させられることになったのである。

見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島民たちは、ペリリュー島北部のガラコル波止場で日本軍が準備した船に乗り込んだが、船が島を離れた瞬間であった。その地区の日本兵全員が手を振って浜へ走り出てきたのだ。中には軍帽を振ったり、陣地構築作業中に一緒に歌った即興の歌を合唱しながら見送る兵士たちもいた。その様子をみた島民たちは、日本軍に抱いた不信感は誤解であり、我々の命を救けるために、中川大佐が敢えて厳しい言葉を発したことを悟ったのであった。

やがて、日本軍10.000人対アメリカ軍50.000人の戦いの火蓋が切って落とされた。

戦力の差は歴然としていたので、当初3・4日で陥落させることが出来るだろうと楽観していたアメリカ軍であった。ところがその予想を大きく裏切って、日本軍は71日間を戦い抜いて玉砕していったのである。

・・・・・・・

そして、戦争終結後の1947年に、パラオはアメリカの統治領となったが、アメリカはミクロネシア地域には動物園政策をとり、教育や福祉健康には援助を行ったが、日本とは違い産業開発にはほとんど投資を行わなかったのである。

戦後の左翼歴史教育では、日本はアジア諸国を侵略して植民地化したんだ、多大なる迷惑を掛けたんだと、西洋の植民地政策と同列に扱っているが、それは全く間違ったものであって、日本の統治は現地の人々に慕われこそすれ、決して恨まれるようなものではなかったのである。

アメリカが統治するようになって英語が公共語になってしまった現在でも、パラオには多くの日本語が残っている。

そして、日本の統治時代を慕うかのように、〈パラオの国旗〉は色濃く日本を物語っていて、海を表す薄いブルーの地の中央に、日の丸ならぬ、黄色い月が描かれているのだ。そして、それでも日本に配慮したのか、中央の月が中心から少しだけ左に寄っているのである。

(Wikipedia参照、一部引用)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?