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外国語の方言に出会うきっかけ

この記事は「言語学な人々 Advent Calendar 2022」の20日目です。

簡単に自己紹介をしますと、神戸の大学で中国語を教えている言語学者です。専門としているのは上海語(上海で話される中国語方言)を中心とした声調の研究をメインにしつつ、最近はベトナム語と中国語の文法を対照するという科研費プロジェクトにも取り組んでいます。noteではこれまで語学(ベトナム語)に関するエッセーを書いていたのですが、今回は自分の研究のルーツ、とりわけ「外国語の方言に出会ったきっかけ」をテーマにして書いていこうと思います。

当然といえば当然なのですが、日本の言語学界隈では「日本語または日本で使われる言語」の研究の数が圧倒的に多く、「外国語、またはその方言」を専門的に扱っている人たちは間違いなく少数派です。また、中国語の語学界隈においても圧倒的多数の人たちは「『正しい』中国語発音や『正しい』文法」という表現で「規範的な普通話をどう身につけるのか」に関心を持っています。それと比べると「〇〇語△△方言を身につけよう!」という話題は、熱心に推し続けている人が一部にはいるのですが正直そんなに人気のあるものではありません。

言語界隈の全体的な流れがこんな感じですので、言語学や語学の専門家の間でも「外国語の方言を研究している人たち」というのは「自分たちとは違う何だか変なもの・珍しいものを追っている」程度の認識しか持たれてないと感じることは多々ありますし、方言に出会った経緯や研究の仕方・発想について共有できる機会というのも多くありません。

そこで今回の記事では「私が中国語の方言、特に上海語に出会った経緯」について紹介していきたいと思います。

始まりは語学から

中国語の方言との付き合いを語るためには、まず中国語との出会いを語らないといけません。高校までは中国とは全く縁の無い生活であり、中国語と出会ったのも他の多くの人たちと同じように大学の第二外国語でした。私自身、学位は全て「東京の某国立外国語大学」で取ったのですが、高校を卒業して最初に通ったのは京都の某私立大学で専門は日本史でした。

京都の某私立大学

よくよく考えてみると高校では世界史を履修していて入試も世界史で受けたため、大して知識もない日本史を専攻すること自体が進路選択としておかしいのですが、「京都に住んでみたいし、そんなら日本史やれば便利じゃん」くらいのノリで入試を受けたら合格したのでそのまま入学しました。しかし、というか案の定、いざ授業が始まると前提知識も興味関心も足りていない日本史の授業はよく分かりませんし、そんなことよりも「アルバイトをして金を稼ぐ」という初めての経験にハマってしまったこともあって、あっというまに同級生から「大学にこない人」に認定されてしまいました。

これだとただの不真面目な学生なのですが、なぜか第二外国語の中国語、もっと正確に言うと「第二外国語の特別クラス/インテンシブクラス」との相性が良かったのが今の自分につながっていきます。総合大学では第二外国語にインテンシブクラスを設けていることが珍しくないのですが、各学部の専攻内容の多くは外大と違って語学(特に第二外国語)の役割が小さいため、インテンシブクラスと言っても大して人気のない「選抜不要の希望制クラス」になっているのが大抵だと思います(私が今勤務している大学でも同じ)。で、こういうインテンシブクラスは自分とは違う学部の人たちが集まるので「日本史に興味がない日本史専攻の学生」でも負い目を感じることなく居心地がいいのです。また、同級生は専門の勉強にもかなり時間を割かないといけないため、インテンシブクラスであっても「バイトと語学」の生活だけでクラス上位を簡単に維持することできます(その代わりに専門の日本史はズタボロです)。そんな感じで語学だけは気持ちよく勉強できる条件が揃っていたため、3年生になると長期留学に耐えられるほどの中国語力が身についていました。

留学先を選ぶ:中国語方言に出会うきっかけ

中国語力が着実についてくると中国語の先生たちも交換留学を勧めてくれますし、一年間の留学で日本史の勉強が中断したところで専門への興味なんてとっくに消え失せていたので何の支障もありません。ということで、交換留学に応募をして当時の派遣先では一番レベルの高かった中国人民大学(北京)の留学内定をもらいました。

順調に留学の内定は取ったのですが、結果から言うと人民大学には残念ながら留学していません。留学に行くはずだった年にSARSが流行ったため、交換留学自体が中止になってしまいました。

今のコロナとも共通点の多い感染症でしたが、運が良かったのは終息までの時間が約9ヶ月と短かったことです。交換留学のタイミングは逃してしまったのですが、中国自体への留学はすぐにできるようになっていました。昔から「逃した魚は地の果てまで追いつめて、より大きくしてから捕まる」という欲と業の深い性格のため、「ほんなら自分で受入先を探して勝手に留学してしまおう」と中国の大学一覧とホームページを漁って全国から気になる大学を選ぶことにしました。

大学を探している時には当初交換留学する予定だった北京の大学には興味がなくなっており、「華東・華南の大学」をたくさん見るようになっていました。中国語を勉強する人たちの中では「中国の南部は方言があるので普通話を勉強しても街の人の話が聞き取れない」と留学が避けられる傾向が依然としてあると思うのですが、私としては「じゃあ聞き取れるようになればいいじゃん」としか思っていなかったため、方言の話される地域の中でも一番マイナーそうだった江蘇省無錫市の大学にメールを送り、さっさと留学手続きを済ませてしまいました。

方言を体系的に学ぶために無錫から上海へ

無錫方言(無錫語)というのは北部呉語に属しており、特に2010年代からはその連読変調(声調の共時変化)が注目を集めて盛んに研究されるようになったのですが、その当時はマイナーな存在で無錫人も街中で大っぴらには話していませんでした。幸いマイナーな大学を選んだおかげで留学生も少なく、上級レベルの授業に出席する学生も私一人だけということも珍しくなかったため先生に頼み込んで無錫語を教えてもらうこともありました。ただ、先生自身も無錫語を教えた経験がないですし私も言語学の知識がまだ無かったため、無錫語はうまく習得できませんでした。

留学から半年が過ぎる頃には私の中国語力も上がって中国人学生と同じ授業を受けられるだけの資格(旧HSK 9級)を取ったため、上海の某有名大学に転校することにしました。この時も自分で相手先に連絡を取って留学のための手続きを自力で済ませました。

留学当時の上海 浦東がまだスカスカ

上海で使われる上海語は無錫語と同じ北部呉語ですが、無錫語とは比べ物にならないほど強い勢力を持った中国語方言です。今では普通話の存在感もかなり強まりましたが、留学していた頃は上海人の威信としての役割を強く持っていたため「余所者」は言語的に排除される経験を多かれ少なかれしたものです。私も例外ではなく、とあるコンビニで「〇〇はどこにありますか」と普通話で聞いたのに店員さんは一瞥もせずに上海語で“勿得”(=普通話の”不知道“;「知らない」)とだけ吐き捨てて追い返された経験があります。無錫の大学で知り合った中国人の友人も上海でインターンをしている時に「会社の人たちは上海語ばかり話していて、何を言っているのか分からない」と嘆いていました。バス停などでは"请讲普通"(普通話を話してください)の看板が掲示されていて普通話の普及政策は行われていたのですが、少なくとも私が住んでいた地域(虹口区)は上海語で溢れていました。

「普通話を話しましょう」の看板。今もまだ掲示しているところってあるのでしょうか?

正直に言うと、この手の排他的な空気にはほとほと嫌気がさしていたのですが、それでもその後に上海語を研究することになったのは上海の留学先に「上海語」の授業があったからでしょう。留学生向けの上海語クラスでしたが、習ったことをすぐに校外で使えるのでとても効果的に学ぶことができました。自分の住んでいる地域であたり構わず使っていると「上海語を話す変な日本人」と認知してもらえるようになり、フラフラ歩いていたら馴染みのネットカフェの主人に晩御飯(タニシ料理!)をご馳走になるような経験もありました。実は、その主人は安徽省出身で上海での商売を円滑に進めるために上海語を必死に覚えたというエピソードも聞かせてもらいました。

当時一人暮らしをしていたアパートの大家さんも「上海語を勉強している変な留学生」として私に人一倍優しかったです。2004年のサッカー・アジア杯決勝(日本 vs. 中国)を大家さんの家に見に行った時は日本の2点目のゴールで空気が一瞬固まりましたが、それでも日本の優勝を率直に祝福してくれました。

上海語クラスで仲良くなったアメリカ人留学生と上海語を話しながら街中のサイクリングを楽しんだのも良い思い出です。

留学の後半に一時帰国をして某外大の編入試験を受けて合格したため、日本史での卒論を書く必要がなくなり言語学を始める算段がつきました。そのため最後の数ヶ月は上海語に関する本を沢山買い集めていたのですが、その際に多倫路にあった古本屋の主人が何気なく渡してくれた本が『上海市区方言志』(1988年出版)です。この本は上海語研究の中で最も重要な基礎文献なのですが留学当時でも入手困難だったことを考えると、古本屋の主人が人知れず期待してくれてたのかもしれません。

古本屋で入手した『上海語市区方言志』

語学として体系的に上海語を学んだことのアドバンテージは大きく、留学から9年後には上海語のワンテーマだけで博士論文まで書いてしまいました。自分自身の感覚としては好きなことや興味のあることをやっていたら自然と博論が書けた印象しかなかったのですが、ここまでの記事を改めて読み返してみると自分にとってそれほど重要でないと感じたもの(日本史・京都の某私大の卒業・普通話の純粋な上達 etc.)はさっさと(そして無意識的に)諦めていたことが奏功したようでもあります。