【小説】犬を飼う

 犬を飼うことに決めた。犬なんてのはかわいいもんだし、くたくたのうどんみたいに疲れて帰ったところを舌を出して出迎えてくれる。なぐさめてくれる。友人もない、独身の、太った中年男にだって甘えてくれる。すぐに飼えないってこともないのだ。その気になれば、明日にだってどうにかなるさ。
 けれど想像よりも容易いことはそうないもので、榎本良夫は結句、犬を飼うことを断念した。明日には、明日の明日には、そのまた明日には絶対に、と犬を飼うためにしなければならないことを先送りし続けているうちに、それどころではなくなってしまったのである。以下はその経緯である。
 榎本良夫はある小さな医療系専門学校の専任講師をしている。職場環境は極めて劣悪であった。例を挙げればきりがないけれど、たとえば経営側は事務仕事というのは読み書きとちょっとした計算ができればだれにだってつとまると考えていた。ゆえに、事務方を雇わないのである。そんな馬鹿な話があるだろうか。だれもがそう思っていた。しかし、事実そうなのである。要するに、馬鹿なのだろう。
 ではどうなるか。備品の管理や発注、学生の出席率の計算など、たしかにだれにでもできる仕事ではある。が、その実、おそろしく煩瑣な作業なのだ。そんなことを教員たちが分担して行わねばならず、雑務に追われれば当然、本来の職務である授業の準備がおろそかになる。授業のクオリティーが劣化する。就職に必要な資格試験の合格率が落ちる。学生たちが文句を言う。保護者も文句を言う。結果、学校の悪評が広まり、入学者が減る。経営が悪化する。昇給はおろか、ボーナスも出ない。もう三年も出ていない。いまのところ毎月給料は振り込まれているものの、それもいつまで続くのか。
 腰の軽い、まだ前途のある若い教員たちは次々に辞めていくが、榎本良夫のような、友人のない、独身の、太った中年男の場合は、なかなかどうして、転職に向けてあれこれ動くのも面倒なのだ。なるようになればいい、と半ばあきらめている。年老いた両親が田舎に小さな商店を持っている。いざとなればそこで、贅沢さえ望まなければ、まずまず、そう捨てたもんじゃない暮らしができようものさ、と軽く考えている。腰は重いが、考えは軽い男だった。
 その日もずいぶん遅くまで学生の評価表の作成に追われ、自宅の最寄り駅に着いたのは終電も間近な時刻であった。榎本良夫は自炊をしない。昼も夜も外食かコンビニ弁当で済ませている。だからこそ太った中年男になったのだが、困ったことに最寄り駅の周辺には飲食店があまりないのである。
 今日も今日とてアパートの近くにあるコンビニで、弁当かカップ麺でも買って帰ろうと、無暗と坂の多い道のりをとぼとぼ歩いていると、一軒の、これまでついぞ見掛けたおぼえのない、けれどもまたずいぶん古くからそこに佇んでいる気配の、赤提灯に出くわした。
 勝手知ったいつもの道だから記憶にないのはおかしいのだけれど、現におぼえがないのだ。ぼんやりと光る提灯には「蹲」という一字が墨書してあり、学もなく、本も読まない榎本良夫にはなんのことかわからない。年季の入った硝子戸の向こうを覗くと、数人の客が小鉢をつつきながらビールだの冷酒だの飲んでいるのが見えて、そんなら今日はここで済ましちまおう、と暖簾をくぐった。
 おそらくは夫婦者だろう、水太りした猫のような女将と死にかけた鼠のような亭主がふたりで切り盛りしている陰気な酒場で、客が来たというのに挨拶の一言もない。
 カウンターの隅に腰かけた榎本良夫が、まずはビールと適当なつまみでもと、油っぽい壁にベタベタと貼られた短冊を見ると、そこには「むう汁」「毛八ヨンモフ」「るろろ煮」などという、見たことも聞いたこともないメニューが並んでいる。
 困ったことになった、と榎本良夫は思った。
 しかたなく伏し目がちに、「毛八ヨンモフ、ひとつ」と言うと、それまで猥談に花を咲かせていた数人のテーブル客が、あッ、と息を呑んだ気がした。
 どうしたっていうのだ。不安になって顔を上げると、カウンターの向こうに佇立した女将が、ものすごい顔で榎本良夫を見ていた。ほとんど瞳孔が開いている。
 後ろから、そっと肩に手を置かれた。反射的に振り返る。すぐ後ろに立っていた鼠顔の亭主が、バネ仕掛けのように跳びしさった。
「なんです?」と榎本良夫は言った。亭主はもじもじと爪をいじっている。爪の先が黒ずんでいた。あまりに不潔。亭主が口を開いた。
「注文……毛八ヨンモフとおっしゃいましたね……? たしかに、あります……というか、用意できないことはないのです……でも、ほんとうに、大丈夫ですか……? 毛八ヨンモフ……?」
「大丈夫とは、どういう意味です?」
「それが……一応、お客さんのほうにも<責任>というのが、ありますから……」
「<責任>ですって?」
 矮小なけだものが、自分よりほんのすこしだけ図体の大きな動物の機嫌をうかがうような亭主の様子に、榎本良夫はだんだん腹が立ってきた。生来、温厚な男である。ここ数年、声を荒げたことなどなかった。いまがそのときだ、と思った。
「生ビール! それと、毛八ヨンモフ、ひとつ! あるなら、持ってきてもらいましょう! ヨ、ン、モ、フ、で、す、よ!」
 おそれいったか、とばかりに立ち上がった。すぐにまた腰かけた。こんなのもともと柄じゃない。恥ずかしい。後悔先に立たずとはこのことである。注文は済んだ。あとは毛八ヨンモフでも食べて、帰るだけだ。明日こそ、犬を飼おう、と思った。
「毛八ヨンモフ、入りましたあッ!」
 と亭主が急に裏声で叫ぶものだから、榎本良夫はひっくりかえりそうになった。まわりの客はみな、彼らのやりとりを押し黙って見ている。どこかで、なにかをかけちがえた気がした。やっぱりやめます、とは、口が裂けても言えやしない。
「あいよッ!」
 と女将が応じて、裏口からさッと飛び出していった。
 電光一閃、にわかに信じがたい素早さである。十秒もしないうちに正面の入り口がガラッと開いて、女将が戻ってきた。息を切らしている。唇の端に泡がついていた。こころなしか、出ていったときより身体がしぼんでいる。
「毛八ヨンモフ、お待ちいッ!」
 と叫んで、なんだか黄色っぽい、ぶよぶよした、掌サイズの、あざらしの出来損ないのようなものを、榎本良夫の目の前に置いた。皿に盛ったりはしないのだ。それが、毛八ヨンモフなのだ。いそいそと、亭主がジョッキに注いだビールを持ってきた。
 榎本良夫は目が覚めるほどよく冷えたビールを飲みながら、目の前に置かれたものをとっくりと観察した。
 さっきはあざらしの出来損ないに見えた。どちらかといえば鳥の雛である。要するに、卵と雛がごっちゃになったようなもんである。黄色いのはまばらに生えた毛の部分だけで、地肌は黒かった。半分がた空気の抜けた、情けない風船みたいな質感をしており、玉蜀黍を髣髴させる、ちょっと香ばしいにおいを放っていた。
 おそるおそる指で触ってみる。やわらかい。ゆでたまごの触感に近かった。なんとなく、可愛いような気がする。食べるには忍びない。そもそも、どうやって食うのか。
 偉そうに「毛八ヨンモフ、ひとつ!」などと注文した手前、今更だれかに訊ねるわけにもいかない。これじゃ落語の「酢豆腐」だ。「酢豆腐」ならまだいい。腐っても豆腐だ。おれの場合は、なんといっても毛八ヨンモフ、いったいこいつは食べ物なのか、それすら定かではないのだ。これならまだ「むう汁」のほうがマシだ。「るろろ煮」にすればよかった。
 鞄を膝の上に置いた。そっと財布を取り出す。千円札はなかった。二本の指で五千円札をつまみ、カウンターの上に置いた。亭主と女将、有象無象の客どもは、固唾を呑んで見守っている。
 遮二無二、駆け出した。
「あれま!」女将が怪鳥のような声で叫ぶのを聞いた。学生時代は陸上部だった。いまだって、わりかし通用するもんだ。一足で硝子戸に飛びつくと、あとはもう、盲滅法走っていった。まなうらを「蹲」という字がちらちらした。帰ったら辞書で調べよう、と思った。しかし、すぐに寝てしまった。
 空腹で目が覚めた。そういえば結局、なにも食べていないのだ。カップ麺の買い置きがあったかしら、と起き上がり、台所へ向かった。そこに、なにかいた。
 丸い、影のようなものである。猫だろうか。サイズ感はそれくらい。猫ほどに大きい鼠かもしれない。このあたりは案外緑が多い。狸やハクビシンもいる。電線の上を鼬が歩いているのを見たことも。外敵がいないのだ。好き勝手に生きている。野生動物の侵入か? だとしたら危険だ。あわてて武器を探す。
 こういうとき、ドラマや漫画では、だいたい金属バットを持っている。ゴルフクラブという場合もある。あとは、擂粉木とか。けれど榎本良夫は野球もゴルフもやらないのだ。自炊だってしない。しかたなく、お掃除ワイパーを手に取った。
 抜き足差し足で近づいていく。振りかぶって、思いきり殴りつけた。所詮、お掃除ワイパーである。たいした威力ではない。しかし覿面、効果はあって、腐った果実を潰したような、いやな感触が榎本良夫の両腕に伝わった。なまぬるく、ねばねばした液体が顔にかかった。玉蜀黍の芳香が部屋中を満たし、榎本良夫は猛烈な空腹をおぼえた。
 それはクラゲのお化けのように半透明で、全身から好き勝手に触手が生えていた。触手からは更に枝分かれした触手が延び、そこからもまた……という具合で、見ていると部屋が触手で埋めつくされていく気がした。あたまにあたるとおもわれる部分には人間の鼻孔に似た穴がふたつあり、収縮運動を繰り返している。すると、まだ息があるのだ。生意気に、呼吸なんてするシロモノにも見えないが。
 ワイパーの先でひっかけるようにして持ち上げると、ポリ袋に入れた。念のため二重にして口を縛り、朝になると家からすこし離れた集積所に捨てた。そのまま仕事に向かった。途中、コンビニでおにぎりとカップ麺を買い、同じカップ麺の買い置きが家にあったことを思い出し、どうせならちがうのを買えばよかった、と思った。
 一年後、仕事を辞めた榎本良夫は実家に戻り、両親とともに商店の仕事に従事した。退屈な仕事ではあったが、ストレスは激減した。ほとんど消滅したと言ってもいい。それなりに満ち足りた生活のなか、犬を飼いたいという願望は、もはや完璧に忘れられていた。両親は孫の顔を見たがったが、それは無理な相談だ。なにしろ友人もない、実家暮らしの、太った中年男だ。婚活サイトにでも登録してみようか、と思った。無駄とは知りつつ。

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