会話が成り立っていない首相インタビューへの私見

なんで「壊れたICレコーダーのように同じ言葉を繰り返す」だとか「○○という言葉を連発」とかはメディアで批判されるのに、そもそも「会話が成り立ってない」ことが指摘されないんだろうか。よくわからない。

会話や議論っていうのは、言い方を変えて適当にのらりくらり「自分の言葉」とやらで受け答えていれば「深まる」もの、だとでも思われているんだろうか?何回同じ言葉を使ったら負けとか、そういうゲームやってんのか?

https://youtu.be/RJpiVyKra4c?t=1862

「この状況で本当に(オリンピックを)やるんですか?」
「首相に延期や中止を言える権限はない、という認識ですか?」
「安倍前総理からバッハ会長に延期を提案した、そうしたらIOCは検討してくれた。その提案はされませんか?」

これらすべてに対する返答が、

「感染対策をしっかり講じ、安心して参加できるようにするとともに、国民の命と健康を守っていく、これが開催にあたっての政府の基本的考えだ」

いやこれを17回言ったとかが問題じゃない。この中の一つとして、返答として成り立っていない。会話にも議論にもなっていない。なぜそれが疑問視されないのか。

そもそも、情報量がほとんど無い。

「感染対策をしっかり講じ」→しっかりやらないわけないだろ
「安心して参加できるようにする」→できるなら皆そうしたいでしょ
「国民の命と健康を守っていく」→できるなら皆そうしたいでしょ
「開催にあたっての政府の基本的な考え」→それはもうわかった

この文章は、「私に悪気はないんです」以上の意味が無い。

しっかりとは何か。
安心とはどのレベル、数値なら言えると判断しているのか。
命と健康を守るために中止を視野にいれないのか。
もっと根本的にぶつかっている利害は何なのか。

正直に言ってほしい。

例えば

「この状況で本当に(オリンピックを)やるんですか?」

これには、「この状況で」という仮定を受け入れた上で答えるべきだ。他にも「緊急事態宣言が出ていた場合」とか「感染者数が減らなかった場合」とか「ワクチンが行き届いていない場合」など、仮定は無数に考えられる。

期待する答えは

例:「緊急事態宣言が出ている場合でも、今の日本の感染者数から鑑みて、対策のリソースを五輪にあてれば安全性をある程度保った上で開催は可能なので、宣言の発出と開催の可否は必ずしも連動しない

とか

例:「感染者数が今の東京都で一日数百人レベルで、1000人を超えない程度であれば、他国と比較しても弱いロックダウンで制御が可能な範囲であり、医療従事者の協力があれば開催は可能であると考える。これがもし、数千人、一万人ということになれば、中止や延期も判断しなければならない

などだ。

仮定を受け入れた上で、その仮定が成り立った場合、成り立たなかった場合、で分けて議論する。さらに、仮定が成り立つかどうかの現実的な予測も加えるとか、問題を切り分けてより本質的な議題(すなわち、リソースをどこに集中させるか)に移すか。そういう普通の議論をしてほしい。

一概にオリンピックを中止・延期することが答えだとは限らない。その考慮に必要な情報や仮説などが政府やメディアからまっっっったく聞こえてこないのが問題なのであって、実は色々試算したら大丈夫とか(専門家会議は反対してるけどな)、COVIDの犠牲もあるけど中止した方の犠牲が大きいなんてことも考えられるだろう。しかし、そんな議論に至らない。

誰が医療のリソースを奪うのか

だから勝手に議論を進めてみるけど、これって結局は「誰が医療のリソースを優先して受けられるか」の問題なんですよね。

五輪に限らず、コロナ禍で蠢いている任意の人間、活動は潜在的に医療リソースを食い合っている。

●なぜかリモートワークをしたがらない前時代的な会社
●去年はいきなり閉鎖したのに一向にリモート授業にならない学校
●閉業命令ではなく自粛だから、という理由でろくな支援を受けられないため営業を続けるしかない飲食業界の方たち
●「私達はアクリル板だけで対策したことになるんです」と言わんばかりに毎日テレビではしゃぎ続けるタレント達
●抗原検査で「毎日検査してます」という免罪符を得て活動しているアスリートやアーティストたち
●この期に及んで毎日国会議事堂に集められている国会議員たち。。

理由はどうしようもないものから馬鹿げたものまで色々あるにせよ、本当に本気で「安全・安心」なんて言うならこれら全部止めてからにしろ、ってことになる。そして、当然そこまで全部止めるのは嫌だ、というのが多くの人の理解だろう。

そして、その影で「自粛」の名に於いて制限されるイベントがある。同人イベントしかり、コンサートしかり、映画館しかり、運動会しかり、なぜだかリスクとは関係なく「楽しいもの」ばかりが規制されて「苦しいもの」ばかりを残したいというバイアスを大きく感じるがまぁ置いておいて。

そういうのは別に「不可能」なのではなく、五輪と同様に「全員にワクチンを打って、さらに参加者全員が前日か当日に検査して、さらに参加者を制限しつつできるだけ距離も保つ」というような「しっかりとした対策」を施せば、何だって可能なんだ。それで運動会やってもいいし、コンサートやってもいいし、映画館開けてもいいんだ。

なんでそれができないかって?

それが問題なんだ。そのための医療リソースを、なぜか知らんが五輪が奪うのが正しいと、この議論に至ることもなく勝手に決められているからだ。

確かに、五輪はその他のどんなイベントと比べるまでもなく巨大で、重要で、大切なものかもしれない。ただ、人権という観点からすると、なぜそうしたイベント関係者の命の価値が、他の人間が心待ちにしているイベント関係者の命の価値と比べて、優先されると当然のように決められているのか。その議論をすべきではないか。

俺だって本当は5月に開催予定だった大好きなジャズピアニストのコンサート聴きたかったよ。当然延期になったけど。それだって、全員に同じくらいの医療リソースが保証されるなら、可能なんだよ。でも、なんでお前だけがそんな扱い受けるんだって、当然言われるから自粛してるんじゃないか。

考えられる議論としてはこうだ。

例:「五輪は利害関係者が多く、これを成功させることで、多くのスポーツ選手のみならず、演出関係者、運営関係者に報いることができる。ひいては、全世界のスポーツファンもこの苦しい中に希望の姿を届けることができる。そのために、他の小規模イベント関係者には申し訳ないが、医療リソースを我々に提供してくれないか

だろう。そうやってお願いするなら考える価値は少なくともあるだろう。

(それでも、数ヶ月だって延期したほうがワクチンも進むだろうし、暑さの問題もなくなるし、1年後ならコロナ禍なんて気にせずやれるだろうし、企業広報として考えても、こんなバッシングだらけの時よりも歓迎される時にやったほうが、経済効果高いというか今ならマイナスになると思うんですが……)

逆に、ここで五輪を中止または延期するなら、こういう議論ができる。

例:「五輪を中止して、関係者に提供予定だったワクチン、その摂取のためのリソース、およびPCR検査リソースを国民に向けて提供し、今なお不安を抱える大勢の医療スタッフや運営スタッフに安心を与え、そうして国内のコロナ禍を予定よりも早期に収束させ、まさに国民の安心・安全を確保した上で、五輪をはじめとした全ての希望あふれるイベント、経済活動を復活させるべきではないか。アスリートならびに世界中のスポーツファンには申し訳ないが、この危機を一緒に乗り越えて、お互いが対立する今ではなく、一緒に喜びあえるタイミングで五輪を開催しようではないか

いや、我ながら良いスピーチだと思うが、そういう風にならないですかね。

もう、会話になってない会話が垂れ流されて、それで国民が無駄に、本当に無駄に対立だけしてるの、見てらんないんですよ。

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