見出し画像

パリ・オペラ座の日々1993~1994:  序文 ④アパートの手配

画像1

↑キッチンの部屋からサロン方向を。

当然のことですが事前準備に最も労力を費やしたのはアパート探し。前回書いたようにOVNIという日仏情報フリーペーパーの不動産コーナーを頼りにしていました。2週間に一度の発行なので情報の鮮度も比較的良かったのです。

画像2

シャンゼリゼ界隈やシテ島のような中心街である必要は無いですが、あまり郊外になってしまってオペラ座や美術館への交通費がかさむようでは困ります。二人で住むのだからある程度の広さも必要。屋根裏部屋(使用人を住まわせていたスペース)のような劣悪な環境も避けたい…。贅沢を言ったらキリが無いのですが、日々のスケジュールがしっかりと決まった留学生ではなく、プータローの僕らが一年間を過ごすための部屋ですから居心地の良さは大事にしたいと思ったんです。

3,4件の物件のオーナーさんに国際電話で連絡を取り、最終的にパリ在住20年くらいのNさんの所有するアパートを借りることにしました。

家賃は4800F/月(当時は1フラン=20円前後のレート)。メトロ1番線の終点近くのサン・マンデ(St.Mande tourelle)駅から歩いて7分くらい。徒歩2分くらいに美しい湖のサン・マンデ公園があり、そこから広大なヴァンセンヌの森、パリ動物園へと連なる素晴らしい立地。メトロ駅からの目抜き通りなので商店もたくさんある。

建物自体は築100年級のボロボロだけど、室内はそれなりに手が入っている状態。15畳くらいのサロン+8畳の寝室+キッチンという構成でトータル60㎡。二人で生活するには贅沢すぎるくらいの空間です。家具付き。5階建ての最上階。

家主のNさんは関西出身のとっても快活な方で、電話で話した時の人柄にも惹かれました。ずっとファッション関係のお仕事をされていた方で、少し前までシャンタル・トーマスのメゾンで働いていたと教えてくれました。

これを書きながら、グーグルストリートビューで当時のアパートを眺めてみました。懐かしい!建物も通りの様子も26年前とそれほど変わっていません。瞬間的に遥か彼方のパリの街並みを眺めることが出来る素晴らしさ!

画像3

それが1993年当時は日本からは何も見えないのです。建物の写真も、部屋の中の様子も、一枚の写真も見ないでNさんのアパートを借りることに決めました。電話でお話した内容と、その後手紙で送られてきた契約内容だけです。家主さんにとっても、僕が信用に足る人物かどうかというのは分からないわけで、まったく長閑な時代でした。

保証金と一年分の前家賃として120万円以上をNさんのソシエテ・ジェネラル(当時の三大銀行のひとつ)の口座に送金し、出発ギリギリのタイミングでアパートの鍵が郵便で送られてきました。この時点で、僕はNさんと2回電話で話しただけ。あとは手紙のやり取りが少し。Nさんが悪い人じゃなくて良かったです(笑)

じつはこの時、Nさんはご家族の看病の都合で日本に戻らなければならない事情があり、それで部屋を賃貸として貸し出していました。最初にお話しした時はパリへ電話したのですが、その後1993年の3月には大阪に戻っていて、鍵はそこから送ってもらいました。ではパリの部屋はどうなっているのかというと、これはパートナーのフランス人男性が大家さんとしての役割を引き受けてくれていて、なにか要望があればその人に伝えるようにということでした。実際にパリに着いてからちゃんとアパートに辿り着けるのか?その大家さんとコミュニケーション取れるのか?あれもこれも不安なことばかりでしたが、ネット不在の当時は分からないことは分からないわけで、なんとなく出発したのでした。


つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?