社会不適合者、【自分が死にかけた話】を語る

どうも、社会不適合者です。

人間は挨拶が大事です。

人は最初の数秒間で、相手の印象を判断すると言われています。

挨拶も大事ですが、その後、最初に何をするのかも大事、ということですね。

ということで、俺があなたに対して、最初にしたいことは、こちら。

自分が死にかけた話〜! ドンドンパフパフ!


大丈夫です、薄ら寒い空気には気づいてます、全部仕様です、どっか行かないでください、もうちょい読んでみてください、お願いします、お願いします。

ということでね、早速始めたいと思います。

僕には人生で、何度か死にかけた時期と、死にかけた瞬間があります。

戦場じゃなくて日本で過ごしているのに、不思議なもんですね。

前置きしだすと長くなりがちなので、早速本題。



小学生の頃に死にかけていた話。


僕は子供の頃から喘息持ちで、中学に上がる前まで、毎月のように病院で点滴を打っては、寿命を伸ばす代わりに半日くらい青春を犠牲にする、という、良いのか悪いのかよくわからない生活を送っていました。

特に幼稚園児の頃は入院して手術を受けたほどで、その時におまけでされた包茎治療手術のおかげで、性の悩みが1つ減った訳ですね。

ちんちんの話はそこそこに、喘息の話に戻しますと、僕が幼稚園児の頃、両親が離婚しました。

その後、僕は姉や弟と共に父のネグレクトを受け、例の点滴を受けるようになる時期が来るまでは、実は4年ほど、時間が空いています。

僕が死にかけた話というのは、その4年間の話です。

まぁ単刀直入に言うと、ほぼ毎晩、喘息の発作が出ていたんですよね。

そりゃそうです、大人がほとんど帰って来ない、埃まみれの家で生活していた訳ですから。

夜になって布団に入ると、よく、「また喘息が出るのかな」と不安になったものです。

喘息というのは、僕の場合、わかりやすく言うと、誰かに強く首を締められているような状態になります。

息が苦しいどころか、深呼吸をして辛うじて酸素が吸える程度の状態で、明け方に自然と発作が治まるようになるまでの数時間、ずっと1人で死の恐怖に怯え続けて過ごす訳です。

ヒュー、ヒュー、と、掠れた息の音が、暗い寝室で続きます。

姉や、たまに帰って来ている父は、滅多に気づきません。

一度、姉と弟だけの時に酷く咳き込んだ時、姉から「いっつもうるさいんだよ! 寝れねえ!」と叱られ、それ以降は喘息が出ると、布団にくるまり、口を押さえて静かに発作が落ち着くのを待つようになりました。

喘息になるととても苦しくて、いつも涙と汗が出ます。

悲しいというより、とにかく、ただ単に苦しい訳です。

姉に罵声を浴びせられた時も、悲しいだの辛いだのと思うより先に、苦しいが頭の中で7割、迷惑をかけたらいけないが頭の中で3割でした。

その上、発作が出たまま疲れて寝てしまうと、深呼吸をしなくなり、酸素がまったく体内に入ってこなくなります。

僕は酷い鼻炎とハウスダストアレルギーも持っていたので、狭まった気道に痰が詰まり、本当に、ほとんど呼吸ができないまま、夜を過ごしていたんです。

こんな感じで、常に死の恐怖に怯えながら、発作が出てしまう弱い自分を憎み続け、いつか穏やかな朝と、眠れる夜が来ることを、願い続けていた訳なんですね。

頻繁に点滴を打つような生活になったのは、母がきっかけでした。

ある日、母の家に泊まりに行くと、いつものように喘息が出ます。

そのことにすぐ気づいた母が、血相を変えて僕を病院まで連れていくのです。

僕は「いつもの事だからいいよ」と、息もたえだえに伝えるのですが、母は聞く耳を持ちません。

結果、病院に着くなり点滴を打たれ、8時間ほど打たれ続けた後に軽く検査をし、更に追加で6時間打たれることになりました。

相当衰弱していたんでしょうね。

母と父が電話で揉めているのを、朦朧とした意識のまま、ぼーっと眺めて過ごす時間。

その後、初めは週に一度、落ち着いてくると月に二度、更に落ち着くと月に一度、という具合に、点滴の回数は減っていきました。

酷い時は病院で松葉杖を渡されたりもしていたので、本当は、それなりに酷い状態だったのかもしれません。

ですが父は、我関せずといった様子で、点滴以外で僕を病院に連れていくのは、いつも母でした。

中学に上がって、何故か父が点滴に連れていかなくなると、元々通っていた大きな病院から、近場の小児科への転院を勧める電話がかかってきました。

父が了承し、初めて町の小児科に行くと、診察を受けた後、父だけが診察室に呼び出され、待合室の端っこに居ても聞こえるほどの大声で、先生が父を叱り始めました。

「このままじゃこの子は大人になれないぞ。 意味がわかるか? 大人になる前に、夜眠りながら死ぬってことだ」

「前の病院から色々話を聞いてるが、あなたは、お前は、もう、本当に最低だ」

「そんなことならなんで産ませた? なんで引き取った? 面倒になるから普段は絶対にこんなこと言わない。 でもお前にだけは全部言う」

「いいか、これであの子が死んだら、もう忠告はしてるんだ。 お前は人殺しだ」


などと、僕からしたら長い付き合いの、たかが喘息程度のために、ずいぶんおっかないワードが飛び交っているな、と、びっくりしたものです。

以降、父はその病院には行きたくないとごね始め、僕は1人で通院する事になったのですが、家の門限は親が帰りを待つ訳でもないのに17時、週末はいつも親戚の家に預けられる僕に、通院する暇はありませんでした。

発作は中学の間も続き、いつも死が傍にありました。

発作が出ていると、頭の中がフワフワするんです。

今でもたまに出るのですが、その間は、とても寂しい気持ちになります。

あれだけ言われてほとんど何もしなかった父が、行動によって、「お前なんか死んでもいい」と、僕に伝えてきていた。

今となっては、そう思ってしまう訳です。



16歳の時に死にかけた話。


これ普通に自殺っすね。

早生まれなので15歳の頃は既に働いていたのですが、家の中での揉め事(僕に反抗期は来ていません。 姉の発狂によるものです)に耐えられなくなり、初めて怒りました。

声を荒らげ、姉の人間としての欠点と、父の親としての欠点、弟の将来への不安、姪への影響の心配を叫ぶと、父はただ、「そういうこと言うな!」とだけ言い返し、姉はただ、発狂による暴力の矛先を、父から僕に変えただけでした。

なので僕は、当時取り立ての免許で乗り回していたジョルノという可愛い原付バイクと共に、死のうと考えたんです。

嫌な予感がしたのか、弟が泣いて止めに来ましたが、僕は好きな歌を聞きながら全力でアクセルを回し、少しウィリーしながら弟を引きずり離しました。

何度思い出してもこころが痛む…本当に酷い兄です。

その後に少しドライブして、最後は思いっきりガードレールに突っ込んだんですけど、速度は50キロ程度、車体も僕も軽かった為、ガードレールを軸に向こうの田んぼにひっくり返っただけで終わり、死ぬどころか、大怪我さえ負いませんでした。

原付バイクが宙に放り出されている瞬間は、景色がスローモーションになって、色々なことを思い出して、間違いなく「オイオイ死ぬわオレ」と思ったんですけどね。

全身傷だらけで血まみれ、片腕と片足がそれぞれまっすぐ伸ばせないほど痛む状態になった程度です。

何故かライトがつかなくなり、走っていると外装がパカパカ揺れるようになったジョルノにまたがり、普通に翌朝、家に帰りました。

傷だらけの僕を見た姉は鼻で笑いながら「バカみたい」と言い、僕は思わず吹き出しながら、「ははは、お前の死ぬ死ぬ詐欺のリスカよりはマシだよ」と返しました。

猿のように顔が真っ赤になった姉を、父が外に連れ出します。

ちなみに僕がそんな態度をとったのはその時が初めてで、姉がそんな態度をとっているのはいつもの事です。

それから少しして、僕はまだ16でしたが、一旦家を出る事にしました。

ホームレス生活と人の家に転がり込む生活を、交互に繰り返して過ごしたんです。

2年間だけ、他人に体を許したり、男の人と付き合ったり、時に年齢を誤魔化してシングルマザーのヒモになったりしながら、比較的楽なやり方で、ですけどね。

ただ、ホームレス生活時は、冬の屋外の寒さ+喘息の発作というのが、なかなか命の危険を感じる出来事でした。

そんな時に、近所の顔なじみの野良猫が、恐る恐る、僕の様子を見に来くれたんです。

「おや? もしかして、俺を心配してくれてるのか? ありがとうな、おかげで気持ちが楽になったよ」

話しかけていると、野良猫は少し警戒しながらも、僕に歩み寄ってきてくれます。

「はは、寄り添って暖めてくれるの? でも俺、猫アレルギーなんだよ、参ったなぁ」

僕が照れ臭さで笑っていると、猫は置いてあった鞄に顔を突っ込み、なけなしの惣菜パンを奪って一瞬で走り去りました。

流石はお猫様…孤独を痛感した夜です。

ここまで読むと僕は不幸に見えるかもしれませんが、書いていないだけでその倍は人を不幸な目にあわせています。

“俺は辛い目にあってるんだ”という心の中の身勝手な免罪符が、思春期の少年を、どこまでも残酷に仕立て上げていたのです。



いい歳こいて人に迷惑のかかる自殺未遂がやめられなかった話。


18になる頃、僕は実家に帰り、またストレスの多い生活を送りながら、フリーターや派遣社員をしていました。

姉は、自分の思い通りにいかないことがあると、「死ぬ」と言って手首を切り、無理矢理周りの人間に言うことを聞かせる人間でした。

僕はそんな姉を見て、とても惨めだと思いながら育っていたので、「死にたいと思った時は人前で手首なんて切らない」という、クセの強いルールを自分に課していました。

死にたいと思った時、僕はバイクに乗りながら、目を閉じるんです。

それから、トラックの隣を走って車輪に巻き込まれようとしたり、またガードレールに突っ込もうとした事もありました。

ただ、一度バイクに乗って自殺に失敗していると、脳裏に「失敗すると、またあの痛みが襲ってくるのか」「その上で人にも迷惑をかける」「怪我で働けなくなったらまた家に金を入れられなくなる」「そうしたら、罵られる理由を増やすことになる」「やっぱり嫌だ」という気持ちが過ぎるんです。

生きるのが嫌で死にたくなるのに、まだ生きている時のことを考えるなんて、なかなかバカみたいですよね。

そんな傍迷惑な自殺志願者は、金欠でバイクの修理ができなくなり、更に金欠を極めて免許の更新が出来なくなるその瞬間まで、バイクでの自殺を諦められませんでした。

僕にとって、バイクは最大の友であり、最大の凶器だったのです。

それが無くなってからは、トラックが行き交う道路の前で目を閉じた後、数字を10数えて目を開かずに渡ってみたり、高いマンションの最上階に登って身を乗り出してみたり、バイアグラを大量に酒で流し込んだ後に寒中水泳をする計画を立てたりと、あの手この手で死ぬ方法を考えたり、実行したりしていました。

でも、まだ生きてるんですよね。



みんな死にかけているという話。


幼い頃、喘息のせいで死が身近にあった僕は、小学生の頃から、死が何なのかを考えていました。

幼稚園児の頃に薬物中毒で死んでしまった親戚のお姉さん、その少し前に脳卒中で亡くなった祖母、小学生になる頃に散歩中の脳出血→心臓発作のコンボで亡くなった血の繋がらない祖父、小学4年生頃に同じく心臓発作で亡くなった遠縁の優しいおじさん。

最初に祖母が亡くなった時は、ただ“会えなくなった”と感じただけでした。


親戚のお姉さんが亡くなった時も、ほぼ同じです。

ただ、葬式からしばらく経って、いつものように遊んでもらおうと、僕はお姉さんの部屋に入って待っていました。

日曜日なのに、昼になっても帰ってこない。

夕方になっても帰ってこなければ、寝る時間になっても帰ってこない。

その時間を1人で感じ続けていた時、まだ4歳程度の小さな男の子は、ほんの少しだけ、死という概念に近づいたんだと思います。

そうしてなんだか泣けてきたけど、その涙の理由が、当時はよくわからないままでした。

やがて、祖父が亡くなると、母が「おじいちゃんのお葬式、行きたい? お別れ、言う?」と聞いてきました。

僕は「ママは?」と聞き、母が「あなたがどうするかで決める。 ママはおじいちゃんとは仲良かったけど、他のみんなとは仲良くないから」と言いました。

それを聞いた僕は、残酷なことに「ぼくはおじいちゃんとあんまし仲良しじゃなかったから、仲良くないなら行かなくていいなら、ぼくも行かない」みたいな、スーパー屁理屈を口走りました。

そう、この時点で僕、クズとして仕上がってたんですねぇ!


結局母は1人で葬式に行き、僕は身勝手なことに、「ママが行くなら行きたかった」と憤った記憶があります。

祖父に関する記憶は、いつも椅子に座って1人でぼーっとしていて、何を話しかけてもニコニコ返してくれるだけの、あまり面白くない大人でした。

でも、いざ歳を重ねた今となっては、もう一度祖父に会って、どうしたらそんなに温かい人間になれるのか、聞いてみたいと思う時があります。

後で知った事なのですが、当時、祖父は胃の大半を失っており、一日の食事は、茶碗一杯分も無い白米を5食ほどに分け、それさえも何時間もかけて少しずつ食べる、という、本当に少ないものでした。

体力はほとんど無く、いつも上の空のように見えたのも、恐らくそれが原因です。

それなのに、話しかけさえすれば、いつでもニコニコしてくれる。

寝てればいいのに、僕らが遊びに行くと、いつものそのそと寝室から出てきて、椅子に腰掛けて見ていてくれる。

血の繋がらない祖父なのに、僕にとっては、一番優しいおじいちゃんでした。

その優しさに、もっと早く気がつきたかったものです。

やがて、辛い家庭で育つ中、初めて無条件で自分を甘やかしてくれる人に出会ったのが、小学3年生の夏休み。

遠縁の優しいおじさんです。

「次の夏休みにまたおいで」と言ってもらったのがとても嬉しくて、毎月、月末になると、また夏に1ヶ月近づいているのが実感出来て、無邪気にカレンダーの枚数を数えては、ワクワクして夏を待ったものです。

ただ、最初に出会った翌年、そのおじさんも亡くなってしまいました。

その時に初めて、僕は人が死んで、泣いたんです。


いや、遅いわ、っていう。

とにかくその時、また会いたい人に二度と会えない事実を、本当の意味で理解して、死の恐ろしさを痛感しました。

当時の僕より大人なのに、軽々しく「死ね」だの、「死ぬ」だのとほざいている人間は、みんな嫌いになりました。

今では、冗談で言うのは全然面白いと思って笑えるくらいになったのですが、反抗期や揉め事の勢いに任せて、簡単に「死ね」だの「死ぬ」だのと言う人間を見ると、本気で叱ったり、失望したり、距離を置きたいと思うようになっています。

お嫁ちゃんは、喧嘩をすると、僕によく「死ね」と言う人だったので、本当は嫌いでした。

僕もごく稀に「死ね」と人に言うのですが、衝動的に言うことはほとんど無く、よく考えた上で「こいつはもう死んでもいい」と判断した時のみ、言うことにしています。

なので、僕に面と向かって死ねと言われた経験のある人がいて、その人がこの記事を読んでいたら、少し胸に手を当てて、その意味を考えてみてください。

僕は「死ね」と人に言う時は、既に「殺してやる」とも考えていて、その算段もある程度立てていたりします。

夜道に気をつけてくださいね。

さて。


そんな僕でしたが、自殺がなんとか未遂に終わったり、どれも中途半端なものでしかないのには、実は理由があります。

死の恐怖を、死にかけた側としても、遺された側としても知っている僕が、それでも死にたいと思うくらい、不愉快な家庭環境。

そんな家庭環境の中にも、実は天使がいたんです。

犬でした。


飼い犬のポメラニアンです。

犬の身バレ防止の為に、モフモフという仮名で呼びます。

モフモフは、親戚の家のお向さんが引っ越した時、部屋に置き去りにされていた、推定8歳くらいの初老犬でした。

親戚の家にはもう飼い犬がおり、親戚が知り合いを回って飼い主志願者を探しましたが、誰も見つからず。

やむなく保健所に連れていこうとしていた所で、姉のわがままで引き取ることになった、比較的、新しい家族です。

当時小学3年生の僕は、いわゆるヤングケアラー。

これ以上やることが増えると困るので、内心では反対しており、家族で名前の候補を上げる時も、どうでも良すぎて“イヌオ(モフモフはメス)”と断言するほどでした。

しかし、モフモフは、そんな僕にも優しくしてくれる、めちゃくちゃ良い奴だったんです。

姉は既にフリーター、弟は学童保育で、家に帰っても誰も居ないことが多かった僕に、おかえり代わりにキャンキャンと鳴いて、ケージの中で嬉しそうにクルクル回ってくれる、モフモフ。

僕はすぐにモフモフが大好きになり、自転車のカゴに乗せて一緒に遊びに行ったり、友達と遊ぶ時も相手の親の許可を得てから連れて行ったり、寝る時に親に黙って布団で一緒に寝ようとしたり、とにかく色々なことを一緒にしました。

反面、家族はすぐにモフモフに飽き、鳴いたらうるさいと叱ったり、言うことを聞かないと叩いたり蹴ったりしていました。

皆が寝静まった後、どうせ喘息で目が覚める僕は、よくモフモフをケージから出して、抱きしめて夜を過ごしました。

喘息でヒューヒュー言って、意識が遠のいても、モフモフが涙をぺろぺろと舐めとってくれると、そのくすぐったさで、すぐに笑顔になれたんです。

本当はモフモフを慰めたくて始めていたのに、いつも慰めてもらっていたので、僕は更に、モフモフのことが大好きになりました。

そんなモフモフが亡くなったのは、家に来てから約5年後、僕が中学3年生になる、少し前のことです。

当島の僕は不登校、たまに知り合いのテキ屋を手伝って小遣いを稼いでは、無免許でZXという黒い原付を乗り回し、何か記録があれば補導歴くらいという、どうしようもない人間でした。

ある夜、数ヶ月という長期間、元気の無い日が続いていたモフモフの呼吸が、まるで喘息の発作が出ている時の僕のように、荒くなり始めました。

嫌な予感がして、慌てて駆けつけ、皆を起こして怒られないよう静かにしながら、モフモフの名前を呼び、様子を観察します。

当時、寝て過ごすことが多くなったモフモフですが、その数日前、久しぶりに起き上がり、小さく鳴いて僕を呼び出すと、その場でクルクルと回って、嬉しそうにしていたんです。

モフモフはこの最悪な家で過ごしたせいで、とっくに僕以外の人間の前では鳴かない犬になっていたので、わざわざ僕を呼びつけていたのは、間違いないと思います。

だから、モフモフはまたいつか元気になって、一緒に遊びに行ったりできるようになると、僕は信じていました。

大好きなジャーキーも、少し咀嚼して吐き出すだけになっていましたが、古いのが嫌なだけに違いないと、小遣いで新しいのを買ったばかりでした。

だってモフモフは、そんなふうになってからでも、僕が帰るとのそのそと身体を起こし、僕を見上げて「おかえり」の目配せをしてくれてたんです。

だから、その日、そのまま。

心配して抱き抱えた僕の手の中で、モフモフが静かに動かなくなった時、僕は、周りの迷惑なんて顧みず、大泣きをしました。

最後、まだモフモフが生きている時。

抱き抱えながら、苦しそうにするモフモフの名前を必死に呼ぶと、モフモフはもう目が見えていないのか、何かを探す素振りをしつつも、僕の顔のほうを見ていました。

「モフモフ、俺はここだよ。 モフモフ、ここにいるよ。 息が苦しいの、辛いよね。 でも、モフモフには俺がいるよ。 きっと朝には良くなるよ。 寂しくないよ、モフモフ。 大丈夫だよ、モフモフ」

あぐらをかいた足の上に仰向けで寝かせた後、片腕で頭と身体を支え、空いた手で頭を撫でてやります。

するとモフモフは、頭を撫でる僕の顔のほうを向き、その手をぺろぺろと舐めてくれました。

それは、僕が静かに泣いている時に、いつもやってくれる癖です。

僕はそれをされて、初めて自分が泣いていることに気づき、同時に、苦しいのは自分なのに、それでも僕を気遣おうとしてくれるモフモフに、動物が持つ善性というものを垣間見ました。

僕はその時点で喋るのが難しいほど泣き出しながら、モフモフを撫で、思いっきり抱きしめます。

すると今度は、僕の顔が近づいたのを察知して、顔を舐めてくれるんです。

ヒュー、ヒュー、と、掠れた呼吸音を、小さな体を精一杯膨らまして、何度も、何度も、鳴らしながら。

「モフモフ、大好きだよ。 また遊ぼうね、モフモフ。 モフモフ、いつもありがとうね。 最近遊んであげてなくてごめんね。 モフモフ、家族になってくれてありがとね。 モフモフ、いつもおかえりを言ってくれる人になってくれて、ありがとね。 モフモフ」

抱きしめながら話しかけると、モフモフの呼吸は少し落ち着きます。

泣いているとモフモフが心配するので、涙は止まりませんでしたが、なんとか笑顔で話します。

思い返せば、モフモフはいつも無邪気で、いつも優しい、僕にとって、本当に大切な存在でした。

モフモフは苦しそうなのに、僕の顔を力無く舐めようとするのをやめないので、僕はモフモフから顔を離し、昔、よくやっていた、お腹わしゃわしゃをやってみます。

「ほらモフモフ! くすぐったい? モフモフ、可愛いねえ! モフモフ!」

もちろんやるのはフリだけで、実際はそっと指先で触れるくらいです。

でも、モフモフは舌をペロンと出したまま、見覚えのある、トロンとした顔で、ハァハァと口の端を上げていました。

僕の思い違いかもしれませんが、モフモフのこの顔は、笑顔です。

僕が帰って来た時と、一緒に遊んでいる時、それからお腹わしゃわしゃをしている時、モフモフはこの顔になるんです。

「よかった! まだ笑えるじゃん! モフモフ、息が苦しいの治ったら、また散歩にでも行こうか! ちょっと寒いけど、昔みたいに上着の中で抱っこしてあげるからさ! 散歩すらずっと出来てなくて、」

そこまで言った時に、モフモフの身体が、急に軽くなった気がして。

「モフモフ?」

本当は謝りたかったのですが、まずは名前を呼びました。

名前を呼ぶと、僕のほうを向くんですよ、モフモフは。

でも、トロンとした顔で笑ったまま、ずっと何も無い天井を眺めてるんです。

さっきまで、一所懸命に膨らんでいたお腹も、全く動かなくなっているんです。

ずっと聞こえていた息苦しそうな呼吸音も、何も聞こえなくなっているんです。

僕の嗚咽がうるさいんだと思って、必死に堪えて静かにしても、何も聞こえない。

「モフモフ。 おーい」

口の前に手を当てて、呼吸をしていない事を察知しますが、まだ鈍感なふりをします。

「モフモフ、まだ話、終わってないよー」

次に胸に耳を当てて、何ヶ月も風呂に入っていないモフモフの獣臭さの中、心音がしないことを確かめます。

「あー」

一度、モフモフをあぐらの上にそっと下ろし、背中を壁に預け、天井を見上げました。

視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りがするのは、結構慣れた感覚。

父が僕を叱る時以外にこうなったことは、あまり無かったので、変だなぁ、とだけ、思いました。

いつの間にか涙は引いていて、心の中も、どこか冷めきっています。

体感でしばらく経った頃、やっと、1つの言葉だけが、僕の中で浮かんできました。

それをそのまま、人の足の上で黙り込んでいるモフモフに、ぶつけます。

「ねえー。 モフモフさぁ、死んじゃったの?」

天井を眺めたまま、思春期の僕が、ぶっきらぼうに問いかけても。

あぐらをかいた足の上で、横たわったままのモフモフは、何も言いません。

視線を落としてモフモフの顔を見ると、目が合いました。

モフモフは、相変わらず、舌先がペロンとはみ出しています。

「モフモフ、死んじゃったの?」

どこか冷めた気持ちのまま、また問いかけます。

「ねえ、モフモフ、まだ俺、謝ってる最中だったんだけど?」

僕はモフモフを怒った事はありませんが、その時初めて、少しだけイラついていました。

「モフモフ、こら。 無視しないでよ」

僕はモフモフを怒ることはありませんでしたが、出会った当初、たまに反射的に噛もうとしてくる時があり、その時は眉間を親指の腹で引っ張り上げて、無理矢理間抜けな顔をさせていました。

そうすると、僕は思わず笑ってしまい、そんな僕を見たモフモフも、噛むのをやめて嬉しそうにクルクル回るんです。

それを久しぶりにやると、モフモフの顔は相変わらずの間抜けな顔になり、でも、その後に指を離しても、その顔が元のトロンとした顔に戻ることはありません。

死後硬直というやつでしょうか?

寒い時期だったからか、わかりませんが、もう指は離してやってるのに、モフモフの顔は間抜けなままなんです。

冷めきった心と体に、また熱が戻ってきます。

肩は震え、目頭が熱くなりました。

「ごめんね…」

ぽつりと、もう誰にも届かないことに気づきながらも、1人きりで、その言葉を呟きます。

それから、今度はモフモフの目を、そっと閉じました。

「モフモフ」

僕はモフモフの小さな体が壊れないよう、気をつけながらも精一杯抱きしめて、今度は大泣きを始めました。

名前を沢山呼んで、沢山謝って、それから沢山感謝をして、沢山泣き続けました。

13歳。

冬休みも終わり、中学3年生になるのを控えていた、とある火曜の夜の事です。

それが、僕が初めて、生物がただの肉の塊に変わってしまう瞬間を、心と体の両方で痛感した、とても辛い体験でした。

僕はそれから、死について、より色々と考えるようになります。

死後の救済を掲げる宗教や、転生を謳う宗教など、色々な宗教のことも、広く浅く、時間が許す限りは調べて回りました。

どちらかと言えば死の方が近くにあって、生きる意味なんて考えず、むしろいつ死ぬのかと怯えてばかりいた僕が、反転、今度は生きる意味ばかりを考えるようになったんです。

そして、モフモフの生きる意味を考えた時、また泣きました。


申し訳なかったんです。

彼女の命を、まずはペットという娯楽に近い意味のもので扱い、次に家族だと思い始めてからも、父や姉の暴力から守ってやれず、最後は、僕はほとんど、家に帰る事も無かった。

モフモフの生きた意味ってなんだったんだろう?

モフモフは何のために生まれて、何のために我が家に来て、何を思いながら最期の瞬間も僕を慰めてくれて、そして、どういうつもりで、僕なんかに自分の死ぬ瞬間を看取ることを、許してくれたんだろう?

考えても考えても、僕はモフモフじゃないので、なーんにもわかりません。

そもそも世の中の色んなことは、あくまで無数の偶然の積み重なりです。

それがわかっていても、罪悪感は消えず、意味を考えることもやめられませんでした。

ただ、もし何か出来ることがあるとすれば、僕がモフモフの命の替え玉になって、モフモフの分も人生を楽しむことだろう。

それだけには、すぐに気づけたんです。

家庭環境は相変わらずあまり良くなく、不登校からの脱却にも派手な髪色のせいでつまずき、それでも頑張ったものの、不良時代に迷惑をかけた教師に授業中、教室内の全員が見ている前で仕返しをされ、僕は結局、代わり映えのしない生活を続けることになりました。

モフモフに謝りながら、ほとんどの時間を家で過ごし、せめてもの抵抗に国語辞典を読むようにして、卒業してきちんと働けるようになった時、日常会話すらままならないことを避けようと、その時に出来ることを、出来る範囲でやりました。

僕の命は、モフモフの命なんです。


だから、僕が一人分、死にたいと思った時、僕はまだ、自殺はしません。

僕が二人分、死にたいと思った時、自殺のことは脳裏を過りますが、まだ意識はせず、その時に出来ることを、全力で努力します。

僕が三人分、死にたいと思った時、モフモフに罪悪感を感じながら、自殺を意識して、常に方法を考えるようになります。

僕が4人分、死にたいと思った時、用意していた自殺への引き金を、即座に引きます。

なので僕は、自殺の回数そのものは少ないわりに、毎回それなりに危ないことに挑戦するので、体の色んなところに消えない傷跡が残っています。

そして自殺に失敗したら、どれだけ辛くても、一度リセットするんです。

モフモフや神様が、僕に死ぬなと言っている、そう言い聞かせることで。

そうやって生きていると、生きている意味がわからないと言う人達を見た時、面白くて吹き出すようになってしまいました。

生きる意味? そんなのあるわけないやん?


まぁ本当にあるかないかはともかくとして、少なくとも、そんなことを考える暇がある内は、絶対に生きる意味なんて見つかりません。

僕の生きる意味は、ほぼモフモフです。

モフモフが死ぬまで僕を慰めていてくれたので、僕はモフモフの慰めに応えて、明るく楽しく生きなきゃいけません。

本当は根暗でも道化を演じ、嫌いな人とも仲良くなり、色んな人と関わって、困っていればどんな人でも相談に乗らせてもらう。

今度は、僕が全力で、誰かを慰める番なんです。

そのために、色んな人と、慰められる距離感になる必要がありました。

結果、10年は頑張れたものの、11年目でハチャメチャな鬱になって、社会不適合者を自称する程に落ちぶれてしまいましたが。

なんにせよ、生きる意味なんてものは、それ自体を探している内には、絶対に見つからないと思います。

人生と向き合う、生きる意味を考えるというのは、厨二病特有の、ニヒリズムに浸る時間の事を指すのではありません。

今、出来ること、したい事、すべき事。

それらをしっかりと自覚し、それに全力で挑むことなんだと、色々な形で死に触れてきた僕は、思うんです。


そして、そもそも、人間はみんな、死にかけています。

人間どころか、全ての生き物が、生まれた瞬間から死に向かって歩み続けているんです。

僕が1番怖いのは、死ぬ事じゃなく、死んでも何も残せないこと。

モフモフが、せっかく僕に動物の善性を教えてくれたのに、それを僕自身が、誰にも伝えられずに終わることです。

「俺は死ぬのなんて怖くない、早く死にたい」と言うような人は、わざわざ死ななくても、既に死にながら生きている状態なんで、そのまま生きていればいいと思います。

ゲームも、映画も、アニメも楽しめないほど辛いのなら、パチスロとかおすすめです。

大きな音に派手な光、ゲームそのものに現金がかかっているスリル。

空っぽな人間でも本能的に楽しめるよう、よく出来た娯楽だと思います、あれは。

親戚のフィリピン人のおばさんもハマってたくらいなんで、パチスロは言語の壁を超えるんだと思いますよ。

僕はあまりやりませんが、たまにやればめちゃくちゃ楽しいと思いますし、何か作品を見ても、これがパチスロだったら多分ここでこういう演出が入るだろうな…とか考えます。

CRレオンとか、あったらいいと思いませんか?

パチスロだけの生存ルートとかあるなら、僕はもう、台ごと買うと思いますよ。

いや、ほんと、もしそれで本当にCRレオンが出て、台を買ったとしても、全然やらないんですけどね。

そこまでパチスロが好きな訳じゃありませんから。

だから好きじゃねえっつってんだろ。


でもサイバーパンク2077あたりは、マジで、パチスロにしやすいんじゃないかな?

エンディングもいくつかあるし、台の照明の色が、コモンからアイコニックまでの5段階で変化して、それが熱いかどうかの判断基準になったりしたら、めちゃくちゃ楽しめると思う。

ごめんね、モフモフ、俺こんな感じになっちゃって。


人間、みんな、いつかは死にます。

だったらいっそ早く死にたいとか、どうせ死ぬんだから無茶しようとか、色んな考え方があるんでしょうね。

僕はそのどれもを、鼻で笑いながら尊重します。

無論、僕自身の考えも、です。

だって僕なんて、“犬の残機ラス1として生きる”ですよ。

文字にしたらめちゃくちゃ滑稽でウケませんか?

「社会不適合者くん、将来的に、何かやりたいこととかあるの?」

「あー、はい、犬のぶん生きます」


って言って、職場の人に笑われたこともありますから。

それを笑った人は、何も間違ってません。

例え本人にとって大層な理由があろうと、生きる理由なんていうのは、他人からすればただの言葉です。

その言葉を、大事にして生きる。

それって、あんまり意味が無い、ただの自己満なんです。

僕も、この記事を読んでくれているあなたも、みんな一緒に、今も死にかけています。

生きる意味を求めて、偶然この記事に辿り着いたあなたも、そうやって悩んでいる間でさえ、ちゃんと死にかけています。

人生、毎日が最後の晩餐。

毎日が、最後の今日ですよ。

たまには明日死ぬつもりで、やり残したことがないか、ちゃんと考えてみてください。

以上、めちゃくちゃ長くなってしまいましたが、“社会不適合者、【自分が死にかけた話】を語る”でした。


最後まで読みきってくださった方、そうでなくても、このページに飛んできてくださった方、その全員に、感謝します。

ッリガットッシターッ! タコシシャーシャーセーッ!


(意味:ありがとうございました、またお越しくださいませ。日本の民族語。)

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