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天皇の行方

注:今回の記事は今までに投稿したものと異なる箇所がいくつか
  存在します。
  それに伴い誤字も非常に多くなっております。
  温かい目で呼んでいただければ幸いです。




私は、ある時国歌「君が代」について調べたことがある。
この国歌での「君」というのは天皇のことだけを指すのではないと知った。
君が代には原歌があり、それは、
「わが君は 千代にましませ さざれ石の いわほとなりて 
苔のむすまで」
という歌詞である。これは現代語訳すると、
「私の敬愛する人よ、千年も八千年も小さく細かい石が巨大な岩と
なってさらにその表面を苔が覆うようになるまでの長きに渡って息災で
あってください。」という意味である。
つまり「我が君」は自分にとって敬愛すべき相手という意味である。
これを知っているものはそう多くはないと私は考えた。
そこで、非合理的に見える天皇が本質的には制度でなくても、
制度、機能的に見ても合理的であるということを本研究のテーマとする。


一 天皇とは

天皇とは世俗的君主と異なり、祭祀を司る存在である。
そして、民間にも広く浸透している、祭祀の最高権威が天皇なのである。
天皇は公のため、民のために祈る存在であり、私利私欲とは無縁である。
したがって日本においては「民」が「天皇」をの存在を滅ぼそうとしたこと
は歴史上いまだかつてないのである。これは日本における「国体」のことで
この仕組みがあるからこそ、一人や一機関に権威と権力が集中しないの
である。だからこそ、日本では権威や権力が一つになって暴走することが
ないのである。

二 天皇と日本人

日本では十二月になるとクリスマスの飾りがつけられるが、
十二月二十五日をすぎると、それらの飾りは撤去され、ほとんどの家庭や
商業施設ではお正月の飾りをつける。これはほとんど日本でしか
見られない光景である。海外ではクリスマスの飾りには
「Merry Christmas and a Happy New year!」
と書かれており、新年もそのまま飾り続けられる。日本ではそのようなことはない。正月というのは単に年初ということではなく、日本最古の宗教行事
であり、仏教伝来以前から存在していたと言われている。
日本人は宗教心が薄いとよく言われているが、正月には門松やしめ縄が
飾られ、年が明けると、多くの人が初詣や初日の出を拝む。
これらはすべて神道の宗教行為である。
日本人は無自覚にそれらを行っているので、ある意味、とても宗教心に
篤いと言えるのかもしれない。このような宗教史がある限り、日本人は
クリスマス飾りをつけたまま新年を迎える気にはなれないはずである。
そして、このようなほぼすべての日本人に宿っている宗教を司る最高権威
が天皇であると考える。古来より、天皇の最も重要なつとめは祭祀を行う
ことであるとされていて、年間三十回も皇室祭祀が行われる。
古代日本においては祭政末分の営みの中である祭祀の卓越者が
大衆に仰がれ、権力の発するところとなり、自然に最高権威者としての
地位が決定した。
そして幾千年の歴史を経て、今現在もその万世一系の子孫が国の祭祀を
司る最高権威者の地位に在り、国の安定を祈り続けている。
天皇とはそのような世界にも類を見ない奇跡のような存在である。

日本人はほとんど無自覚に天皇と繋がっている。
その自覚がないからこそ、日本の長い歴史の中で天皇が存続してきたのかもしれない。


三 天皇の姓

昭和天皇のお名前は「裕仁」、上皇陛下のお名前は「明仁」、
今上天皇のお名前は「徳仁」である。皇太子殿下は現状空位である。
しかし、位の高い人を名前で呼ぶことは失礼に当たるため、
一般的に天皇や皇太子の本名を口にすることは少ない。
そして、天皇、皇族には「姓」がない。
元来、「姓」というのは氏族という共同の祖先を持つ集団を称するもので
天皇が臣民にその印として賜与するものであった。したがって、それを
与える側の天皇には姓がないわけである。また、古代シナには「易姓革命」
という思想があった。これは統治者の「姓」が「易」わることを意味し、
王朝の交代のことである。古代しなでは天子が天命を受けて
天下を治める事になっていた。天命を受けて、前王朝を倒したものが
新しい王朝を開く。
しかし、日本では万世一系で世襲によって皇室が続いてきた。
世界では「世界最長の王室」と言われている。日本では権力者が天皇を
倒して易姓革命を起こすことがなかった。そのため、天皇に姓がない
とされている。
また、元号はシナに起源を持ち、漢字文化圏であったベトナム、朝鮮でも
使われた。朝鮮はシナの属国であった時期が長く、その間はシナの元号を
そのまま使用した。一方ベトナムではシナ王朝から独立した九百七十年
から独自の元号を使用した。東寺、独自の元号を持つということが独立の
証だったのであり、日本は元号においても最も早くから中華文明から独立していたのである。元号は本家中国でも辛亥革命による清朝の滅亡により
消滅、朝鮮ベトナムでも千九百四十五年に廃止されたので現在は日本に
しか残っていない貴重な文化である。
しかし、敗戦によって元号を制定する法的根拠が消滅した。日本政府は
それに変わる元号法を制定しようとしたが、GHQが天皇の権威を高める
元号の存続を許さなかった。
そして、昭和天皇在位五十年をきっかけに元号法制化の検討が政府で
始まり、元号を制定する法的根拠が回復されたのである。


四 皇居と元首

現在の皇居は高い塀と堀に囲まれて、外界から隔離された雰囲気がある。
しかし、これは元々江戸城であったからであり、皇室の伝統ではない。
皇居が東京に移転される前には京都御所に天皇は千年以上にもお住まいでいらっしゃった。その京都御所は、堀や石垣などはなく、あるのは
数人がかりでかかれば壊せそうな塀だけであった。しかも御所は
定められた期間に自由に参詣できる身近な信仰の場であった。このような
無防備な状態で千年以上も攻め入られたことがない王は世界中どこを
見ても例がない。
現在の宮殿は昭和四十三年に完成した。この宮殿は、
「威厳より親愛、荘重より平明」を基本理念とし、資材は一次産品以外は
すべて国産が使われた。設計には当初より一般参賀を念頭に
中央バルコニーを有する細長い「長和殿」を配置した。ここから中庭を
挟んだ奥が正殿であり、その中には「松の間」「竹の間」「梅の間」がある。
この「松の間」では信任状奉呈式が行われる。これは新任の外国の
特命全権大使が天皇に信任状を渡す儀式で外務大臣がこれに立ち会う。
国際的に、大使などの着任にあたり、覇権国の元首が発する信任状を
うけとるのは、駐在国の「元首」という事になっている。つまち、天皇が
日本の元首であるということは国際常識なのである。さて、天皇の「徳仁」
という署名と「天皇御璽」と刻まれたはんこ。これらを合わせて「御名御璽」
というが、この二つがなければ日本国は動かないのである。
もちろん個々の決定に天皇が意見するわけではなく、あくまで
形式的・儀礼的ではあるが、この天皇の役割は、戦前から引き継がれた
ものである。戦前の昭和天皇も「立憲君主」であり、内閣が機能不全に
陥った「二.二六事件」と終戦時以外は自らの意思で政策を決定したことはなく、天皇は常に内閣を承認する役割であった。「昭和天皇の戦争責任」
とは、「今上天皇の首相任命責任」と同義である。日本は現在も
立憲君主国であり、天皇は日本の象徴であるとともにれっきとした元首
である。


五 三種の神器

皇居には「宮中三殿」と称される三つの祭殿があり、天照大神を祀る
「賢所」歴代天皇、皇后、皇族を祀る、「皇霊殿」八百万の神々を祀る
「神殿」がある。この三殿の御神体は三種の神器の内の一つ八咫鏡
であった。三種の神器とは八咫鏡と草薙剣、八尺瓊勾玉のことをいう。
皇居の神器のうち、鏡と剣は「分身」である。鏡の本体は伊勢神宮に、
剣の本体は熱田神宮にある。ここでいう分身とは蝋燭の火を分けるように
神様の分身を増やすのと同様、分身も本体に準ずる神器である。
神話の世界から伝えられてきた「三種の神器」を引き継いでいることが
天照大神の子孫である天皇の証であり、神器を持たないものは
天皇として認められない。「三種の神器」は世界最古のレガリアなの
である。レガリアとはそれを持つことで正当な王位継承者である証となる
象徴のことであり、例えばイギリス王室には王冠、王笏、宝珠がある。
日本では天皇が亡くなると「継承の儀」が行われる。「三種の神器」は
天皇の命よりも大事なのである。これは天皇崩御の際、葬儀よりも継承
が優先されたことで証明されている。仮に戦時中、昭和天皇が命を
落としても、「三種の神器」さえあれば「天皇」という存在は守られる。
しかし「三種の神器」がなくなればヒロヒトが生き残っても「天皇」は
消滅する。天皇消滅とはすなわち日本消滅ということである。
国民とは単に日本列島に生息する霊長類ヒト科の動物のことではない。
国の歴史を受け継いで初めて「ヒト」は「国民」となる。歴史が消滅して
しまったら「国民」もなくなるのだ。昭和天皇が三種の神器を守ろうと
したのは二千年継承されてきた歴史を守ろうとしたのであり、国を守ること
そのものであった。これを当時「国体護持」と言った。「三種の神器」が
破滅すれば日本は日本ではなくなってしまう。天皇は「三種の神器」を守り国民の安寧を祈る祭祀王である。


六 天皇は神だったのか?

よく「天皇は戦前は神であり、戦後人間宣言をして人間になった。」と
言われる。しかし、よく調べると明治・大正生まれにはこのようなことを言う人は少なく、ある一定期間の人達が主に主張していることがわかった。
それは「少国民世代」の人たちである。「少国民」とあは千九百四十一年
に小学校を「国民学校」に改称したのと同時に学童を改称した名称である。
ヒトラーユーゲントの「Jungvolk」の訳語である。「少国民世代」は
「大東亜戦争中に小学生だった世代」である。世代論に当てはまらない人がいるというのは前提である。少国民世代は戦時中は愛国心や
軍事的教育を受けたものが多いのだが、戦後は世界平和や平和的教育
を受け、国家や天皇について懐疑的になったものが多いのである。
当時の国民学校教科書(国定教科書)に、「我々が神と仰ぎ奉る天皇陛下」という記述があったのは千九百三十九年から終戦までのおよそ六年の間
のみである、古事記や日本書紀では神武天皇以降を「人代」として、
神ではないことを示している。天皇は神の子孫ではあるが、神ではないのである。また、当時民間に広がっていた日本神話の解釈としては
「日本には八百万の神々がいて、日本国民全員がなにかの神の
子孫である。」とされていた。この解釈では天皇が唯一神になることなど
ありえないのである。ところが第一次世界大戦によって天皇の神格化が
一気に進むこととなる。欧州ではロシア、ドイツ、
オーストリア=ハンガリー二重帝国などの国々で次々と君主制が消滅。日本に危機感をもたらした。また、大戦最中に起きた革命により、世界初の社会主義国家が日本のとなりに建国されたことも一つの大きな要因である。
これにより、共産主義が国内に浸透した。共産主義に対抗しうる強力な
日本イデオロギーが必要とされた。また、第一次世界大戦では全ての物資や政治経済を全面的に総動員する必要がある時代になったことを示した。
そして、この体制において、国民をまとめるためには強力な思想が必要となった。それでも千九百三十九年以前の政府公式見解は天皇を現人神とはしたものの
「この現御神、或いは現人神と申し奉るのは所謂絶対心とか全知全能の神とかいうが如き意味の神と異なり。」
としていた。しかし、千九百三十七年に日中戦争が始まると、
「国民精神総動員法」が、翌千九百三十八年には「国家総動員法」が
成立し、「天皇は神」という記述がされたのである。戦争はあらゆるものを
動員するだけのことであり、歴史的伝統的に強固なものがあれば、それが
動員されるだけのことである。米国児童は現在も国旗に忠誠を誓う。
それと天皇に最敬礼をするのは何も変わらない。米国国旗が軍事的象徴ではないように、日本も戦争画なければ天皇は軍事的象徴ではなかった。
天皇を「神」と思い込んだのは少国民世代だけである。


七 天皇は「カミ」である

先程の「天皇はカミではない」という主張はその神という言葉が絶対神、
いわゆるGODであるということが前提である。一方天皇を「アキツミカミ」
とする観念は古代からあり、これはGODという意味ではない。
今でも「漫画の神様」や「野球の神様」、「経営の神様」というが、だれも
この人たちをGODだとは思っていない。とてつもなく貴重な人を「神様」
と呼ぶのは日本人が知らず知らずのうちにやっている伝統的習慣である。
天皇の観念もこれと同じようなものである。大和言葉の「カミ」、
シナの漢語の「神」、そして欧州の「GOD」これらはすべて異なる観念
である。しかし、これらをすべて「神」と表記しているから混乱が生まれる
のである。この大和言葉の「カミ」という言葉は悪いものや奇怪なものでも
ずば抜けたものがあれば何でも「カミ」になる。森羅万象、人間までも
「カミ」になるのである。日本人の「カミ」の定義は広く柔軟である。
フランシスコ・ザビエル以降のポルトガル宣教師はDEUSを「ゼウス」
と訳した。GODと「カミ」は違うことを理解していたのである。ところが
シナではアメリカの宣教師が、GODを神と訳した。シナの神は
「自然界の不思議な力を持つものや心など」という意味であり、GODの
意味はない。これは異訳であった。しかし、日本開国後、アメリカの宣教師が日本でもGODを神と訳した。そして、日本人は古来より「カミ」の字に
神をあててきた。ここから「カミ」とGODの混同が始まったのである。
GHQは戦後天皇に人間宣言をさせたが、それは「漫画の神様」や
「野球の神様」「経営の神様」に人間宣言をさせるのと同じである。
昔も今も天皇は「アキツミカミ」であるが、絶対神たるGODではない。


八 名を正す

私はこの研究において一度も「天皇制」「天皇家」という言葉を使って
いない。孔子は弟子に「乱れた国の改革を任されたらどうするか?」
と質問され、「必ずや名を正さんか。」と答えた。名とは言葉のことである。
その理由がわからない弟子は孔子に理由を尋ねると、
「言葉が正しくなければ、言論が正しくならず、言論が正しくなければ、
政治がうまくいかず、政治がうまくいかなければ、文化も繁栄せず、
文化が繁栄しなければ、法令が適正にならず、民衆も安心して
過ごせない。」と言った。これを「正名論」という。そのため、私は言葉に
こだわっている。「天皇制」という言葉の制度という意味は間違いである。
天皇は制度ではなく、日本の整理雨とともに自然に形成され、存在
していたのである。天皇や皇室にもそれに伴う制度が憲法や皇室典範
に定められているが自然形成された天皇が主体である。天皇や皇室
そのものは制度ではない。また、「天皇家」という言葉も間違いである。
「家」とは社会生活を営む上での私的生活の単位である。しかし、
「皇室」は皇族方が私的生活を営むことが本質ではない。国家国民統合
の中心として、国家という有機体の一器官として考えるべきである。
「天皇家」「天皇制」という言葉は間違いである。


九 大日本帝国憲法における主権

天皇は国民ではない。天皇には戸籍がなく、即位拒否や退位の自由、
職業選択の自由もない。また、参政権や年金などの社会保障もなく、
信教の自由もない。日本には天皇と国民がいて、天皇のもとにすべての
国民が平等であるという考えを「一君万民」、「八紘一宇」という。
これは平等思想であり、階級社会の思想ではない。では大日本帝国憲法は天皇絶対主義だったのだろうか?第一条には
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。この条文は井上毅の
憲法草案では、「之ヲ統治ス」ではなく、「之ヲ治ス所ナリ」であった。
「シラス」動詞の「知る」に尊敬語の助動詞「す」を接した言葉である。
つまり「シラス」はお知りになるが由来で「公平に治める」という意味で
ある。現代語訳するのであれば、「大日本帝国は万世一系の天皇が
これを公平に治める」となる。また、第一条が国体に関する規定であった
のに対し、第四条では政体に関する規定である。
「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ、此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」
とある。ここでの統治権は主権と同じ意味である。だからといって主権を
総締めしていたわけではに。攬という字は漢字源によると、
「とる・あつめてもつ」という意味である。つまり、手に取るだけで行使は
できないのである。また、「憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあることから、
天皇も憲法に縛られている事がわかる。まさに、天皇は国家権力を
「手に取る」だけで単独で権限を行使することはできないのである。
大日本帝国憲法においても天皇は主権者ではなかったのである。
また、「元首」とは言葉通り、「首の元から上」のことである。国家を法人
としてみたときに、最も重要な部分を元首という。元首とは国家における
最高機関のことである。そして大日本帝国における主権は「法人」としての
国にあったのである。現在我々が受けている様々な権利が
「首の元から上」のみに与えられ、手足には与えられないということはない
ということと一緒である。大日本帝国における主権は天皇でもなく、
国民でもなく、国にあったのである。また、大日本帝国憲法第三条には
「天皇ハ神聖ニシテ侵スべカラズ」とある。この条文における
「神聖不可侵」とは「尊厳や名誉を汚してはならない」という意味である。
天皇は政治に介入できないかわりに結果について責任を問われない
というのが例である。大日本帝国憲法以前に存在した君主国の憲法では
スウェーデン、ノルウェー、バイエルン、ポルトガル、イタリア、
オーストリア=ハンガリー、スペインが「神聖不可侵」であるとしていた。
中世ヨーロッパの国家では、君主のみが権力を持っていた。
しかし、近代民主主義が台頭すると「君主」と「国民」が対立する。
その結果、フランスは国民だけの国にし「国民主権」とした。近代国家は
君主を廃絶し、「国民主権」とするか、君民共同体に主権を認めるかを
選んだ。日本では元々天皇が権力を持たず、国民と対立することが
なかったので君民共同体たる国家に主権を認める形になった。
戦後GHQが日本国憲法を作った。戦勝国が敗戦国の憲法を制定すること自体が、ハーグ条約にもポツダム宣言にも違反する無法行為なのだが、
なぜGHQは「天皇主権」というデマを利用したのか?答えは明確である。
それは日本を弱体化させるためである。日本位は「一君万民」という
平等思想があり、有史以来、天皇と国民が対立したことがない。
この一体感こそが、日本社会の強さの根源であることに気づいたGHQは
アメリアの脅威を排除するために天皇と国民を対立させようとした。
その仕組みが「天皇主権」というデマであった。
また、現行憲法では天皇を「元首」とする「記述」が消え、「象徴」とする
記述が新たにできた。そのため、「天皇は象徴に過ぎない」という
表現が広まった。象徴とは「Symble」のことである。シンボルマークは
和製英語であり、御用である。ここでの「Symble」は和製英語の
シンボルマークという意味ではなく「Symble」という英語本来の意味
である。企業ロゴや交渉もその会社や学校を表す印であるが、これは
「Sigh」である。これは今生きている人間によって変更可能なものをいう。
訳は象徴ではなく「目印・記号」である。これに対して「Symble」とは
神聖性と歴史性を帯びた聖なる概念であり、現在の人間の意志で
変えることはできない。キリスト教のシンボルを十字架から変えることは
できない。そして、天皇は古来より「象徴」であった。現行憲法はそれを
明文化しただけである。主権は「国」にあり、天皇は「元首」であり、
「象徴」である。


十 天皇の称号誕生

日本の天皇には「姓」がなく、古代シナ皇帝には「姓」があった。
古代シナ王朝が一姓であった。これがシナ皇帝と日本の天皇との、ひいては中国と日本の歴史の決定的な違いである。シナにおいて天下を取った
秦王は自らが名乗る新たな称号を考案した。それが「皇帝」であり、
皇帝の始祖である「始皇帝」であると自称した。皇帝とは全ての「王」の
上に君臨する最高の称号であり、「王」は皇帝の家来である。皇帝は臣下の者を各地を治める王として任命した。「冊書」という辞令で封じたので
これを「冊封」という。王朝が代わっても皇帝が王を封じる「冊封体制」は
引き継がれ、これはシナ本土の外の国々にまで及んだ。
周辺諸国がシナ朝廷に貢物を納めることを朝貢といい、皇帝から王に
封じてもらい、その権威で国を治めたのである。古代日本もその例外ではなく紀元五十七年に朝貢して印綬を与えたとされている。その金印には、
「漢倭奴国王」とあるが、「倭」は小人の意味であり、「奴」は奴隷の意味
であるので差別用語である。シナ皇帝は中華という世界唯一の文明に
君臨し、その周辺諸国は夷狄、蛮族であるというのがシナ王朝の世界観であった。これを「華夷秩序」という。しかし、戦乱により次々に王朝が交代
するシナに朝貢する意味も少なくなり、ワカタケル大王、雄略天皇の時代
には冊封体制から離脱したいという願望があった。実際に四百七十八年を
最後にシナへの冊封使は送られなくなった。その後、隋となったシナへ
遣隋使を派遣したのは六百年のことだが、その際にはいかなる冊封も
受けなかった。このときの天皇は推古天皇であり、その皇太子で摂政として
政治を司っていたのが聖徳太子だった。聖徳太子は六百七年に
第二回遣隋使として小野妹子を派遣する。その時に隋の皇帝にあてた
のがあの有名な国書である。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」
これにより、皇帝は激怒した。日本が対等を主張してきたからである。
また、「日出ずる処」「日没する処」も対等な表現であり、「書致」も
対等な国家間の文言であった。そして、その半年後、聖徳太子は
第三回遣隋使を派遣する。そして、小野妹子を送り、国書にはこう記した。
「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」
今度は相手を皇帝と記している。また、「敬白」は比較的対等な態度を維持しながら相手を尊重した表現である。ここで初めて「天皇」の名称が誕生
したのである。聖徳太子の第三回遣隋使の国書で皇帝の家来である「王」
ではなく、シナ皇帝と上下の区別がない「天皇」を名乗った。
そこに王を拒否した自前の称号を入れたのである。皇帝は天皇の称号を
正式に認めなかったが、結局は黙認の様な形で認めざるを得なかった。
こうして日本に天皇の称号が成立したのである。「天皇」とはシナの
「冊封体制」を抜け出した自主独立の君主であると宣言する称号だった
のである。


十一 国体護持の必要性

千八百九十八年、アメリカはスペインと戦争を起こす。当時スペインの
植民地だったフィリピンは「独立させてやる」というアメリカの甘い言葉
により、スペイン軍と戦った。だが、スペイン降伏後、アメリカはフィリピンを植民地にする。フィリピン人は抵抗したが、ダグラス・マッカーサーの父であるアーサー・マッカーサーが総指揮をし、現地住民六十万人を殺害。
アメリカがフィリピンを侵略したときの合言葉は
「唯一の良いフィリピン人は死んだやつだ。」
だった。これは
「唯一の良いインディアンは死んだインディアンだ」
から受け継がれた言葉であり、アメリカ人はインディアン征服以来、
有色人種を殺し、領土を広げることを
「マニフェスト・ディスティニー(明白なる天命)」と言い、それが正義だと
信じていた。そして、大東亜戦争がはじまると米兵の合言葉は
「唯一の良いジャップは死んだジャップだ」
となった。この種の言葉がドイツに向けられることはなかった。
実際、米兵に配られた戦意高揚バッジにはドイツに対しては
ヒトラーの写真と、「指名手配の殺人犯」という文字が書かれ、
日本に対しては、サルの写真と「日本人狩猟許可証永久有効」という
文字が書かれた。そして、ルーズベルト大統領は日本の「無条件降伏」を
求めると公言していた。もし、本当に無条件降伏をしたら、日本人は奴隷化
され、抵抗すれば強制収容所に送られ、拷問虐殺されるかもしれない。
天皇は殺され、伊勢神宮には巨大な戦勝モニュメントが建てられ、三種の神器はアメリカの博物館で好奇の目にさらされるかもしれない。
日本の文化は奪われ、日本は消滅するかもしれない。当時の日本人がこう考えたのは当然である。実際にアメリカはそういうことをしてきた国だからである。その後、ルーズベルト大統領が急死、トルーマン副大統領が
大統領に昇格したが、「日本無条件降伏」という目標は変わらなかった。
一方知日派のグルー率いる米国務省は降伏勧告草案を起草。
七月二十六日に発表されたポツダム宣言はほぼその草案通りになった。
そこには「我らは日本人を民族として、奴隷化せんとし、または、国民
として滅亡せしめんとするの意思を有するものにあらざる。」
という一文があり、日本人の虐殺や奴隷化は回避された。しかし、
トルーマンはグルーの草案から、最も重要な「降伏後に樹立される
日本政府について『現在の皇室の下での立憲君主制も含まれよう』」
という部分を削除していた。これがなければ天皇を中心とする
二千年来の国家体制が消滅し、共和制に変えられるかもしれなかった。
この「天皇を中心とする二千年来の国家体制」のことを「国体・国柄」
という。そして、米国は七月一六日に原爆実験を成功させた。
トルーマン大統領はなんとしても原爆投下を実行したかったのである。
プルトニウム型とウラン濃縮型の二種類の人体実験が必要であったし、
第二次世界大戦後のソ連に力の差を見せつけておく必要があったので
ある。そのため、米国は広島・長崎に原爆を投下、ソ連は日本に宣戦布告
したのである。八月九日〜翌日未明にかけてポツダム宣言受諾をめぐる
御前会議が開かれたが会議は紛糾し、結論はでなかった。そこで異例の
ことではあるが天皇の聖断を仰ぐことになった。昭和天皇は言った。
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に賛成である。
空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し
世界人類の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は
祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えることである。
今となってはひとりでも多く国民に生き残っていてもらって、そのひとたちに将来ふたたび起ちあがってもらうほか道はない。もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは情において忍び難いものがある。しかし、今日は
忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際の
お心持ちを偲び奉り、私は涙をのんでポツダム宣言受諾に賛成する。」
ここで注目スべきは昭和天皇が自分の身について一切語っていない
ことである。後に昭和天皇は「『国民』と『三種の神器』のうちどちらを
優先するかという選択では『大御宝』である国民が第一である。」
と明確に語っておられた。そして、いずれの場合も自分自身の身は
考えていないのである。現在、まがりなりにも「日本」という国が存在し、
我々が平和に暮らせているのはあのとき、どんな犠牲を払っても、
天皇を守ったからである。大統領や独裁者、一党独裁体制のように
一人の人間や一つの組織に権威と権力を集中させてしまうよりも
日本のように、天皇と政府に、権威と権力を分散させるという「国体」
のほうが国民にとってリスクが少なく優れているのである。
私は命をかけて「国体」を護ってくれた先人たちに感謝している。
そして、我々は見事なバランス感覚としての「国体」を子孫に
継承していく必要があるのだ。


終 天皇の行方

天皇の行方などというものを語るのは不敬かもしれないが語ってみる。
天皇は神武天皇以来、万世一系の男系によって続いてきた。
日本の皇統には過去、女帝はいたが、女系天皇はいなかった。
女帝も「男系」の天皇であった。私は神武天皇から連綿続く男系を
維持してほしいと願っている。だが、男系は「側室」があってこそ維持
されたのであり、側室の復活が難しいならば、将来男系天皇は維持
できなくなってしまうだろう。皇室は常に時代と共に存在し、各時代
考える。伝統を継承しつつも変化しつつ、今日に至っている。
だから、私はこの変化の尺度を量れるのは皇位継承に連なる方であり、
家族ではないと考える。本来は天皇陛下や皇太子殿下が決めることで
ある。なぜなら、もし将来女系天皇が誕生するような小tになって私は失望
しない。国民が天皇に注目し、敬愛を深め伝統が強化されるかも
しれない。そうなるように皇室の意義を子孫に我々が伝えていく必要が
あるのである。




以上で「天皇の行方」に関する執筆は終了です。
今回の記事は今までに投稿したものと異なる箇所がいくつか存在します。
それに伴い誤字も非常に多くなっております。


また、今後「A級戦犯冤罪論」を投稿予定ですので
そちらもチェックしてみてください。
最後になりますが、フォロー、スキ、よろしくお願いします。
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