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A級戦犯冤罪論(2)

[1]東條英機② 〜生まれから陸軍大臣まで振り返り編〜


東條英機は1884年に生まれた。
旧盛岡・南部藩士の父・英教は有能な陸軍軍人であったが、
戊辰戦争で南部藩は賊軍であったため、
長州閥が牛耳る陸軍では不遇だった。

父を誇りとしていた東條は迷わず陸軍軍人となり、
順当に進級するものの、賊軍であることから、閑職を
たらい回しにされていた。

東條に政治への野心はなかった。
まさか後に首相になろうとは
本人を含め誰一人予想しなかった。
 
東條ら中堅将校は長州閥一掃などの改革を目指す
グループを結成するが、これが
軍による議会の統制を目指す、「統制派」と
議会を廃止して天皇親政をめざす「皇道派」に分裂。
派閥抗争に発展した。

皇道派が実権を握る中、東條の同志にして統制派のリーダー、
永田少将が皇道派の青年将校に惨殺される事件が発生。
東條は関東軍憲兵司令官として満州へ栄転(実態は厄介払い)。

その翌年、2・26事件が勃発。
東條はかねてより憲兵を使ってマークしていた満州の
皇道派軍人や、皇道派よりの民間人千百人あまりを一斉検挙、拘束。
主要都市に戒厳令並みの監視体制を敷いた。

結局2・26事件は3日間で鎮圧。
皇道派は自滅した。

一方事件への機敏な対応を評価された東條は、関東軍参謀長に就任。

だが、ソ連軍との小競り合いでソ連砲艦を撃沈する事件を起こし、
責任を取って退役を決意。

しかしそこに支那事変が勃発。

東條兵団は破竹の進撃を遂げ、退役はうやむやになる。

その上、当分の間、満州勤務が続く予定だったが、内閣改造を
巡る問題からタナボタで陸軍次官に指名。本国へ帰国した。

そして昭和15年、東條は陸軍大臣に就任。
55歳にして初めて政治に関わることとなった。

東條は「カミソリ」の異名をもち、事務処理能力では
陸軍内に東條に勝る者はいなかった。

良くも悪くも東條は典型的な「事務官僚」であり
眼の前の懸案事項には忠実に全力を尽くすが、
自分自身のビジョンがあるわけではない。

その対極が、満州事変を起こした石原莞爾である。
石原は、「世界最終戦」という、日本が満州で国力を蓄えた
後に、ソ連と、最後はアメリカと戦争をし、勝者が世界をリードする
ビジョンを持っていた。

天才型の石原からみれば東條は目前の現実にしか関心のない
小物である。

それでいて、ふたりともプライドが非常に高かった。
感情的にまで対立は深まり、東條は陸軍大臣時代、
自ら指示し、石原を予備役に追放した。

東條は自分に反抗する者には容赦しなかったが、
その反面、従順な部下や弱者にはとてつもなく優しく、
涙もろいという極端な性格だった。

謹厳実直、厳格、生真面目、細心、神経質などなど、、、、な
東條は、とにかく規律に厳しかった。
自身も、地位を利用して私腹を肥やすなどもってのほかと
清廉潔白、模範的な軍人であり続けた。

支那事変で東條兵団を指揮していたときも、特に軍紀風紀に
厳しく、現地の治安と軍の信頼維持に努めた。
だが、些細な規律違反まで神経をとがらせるので
尊敬と同時に敬遠されてもいた。

東條が陸軍大臣時代に作成させたものが、悪名高い
「戦陣訓」である。
これは実際のところ東條の発案、執筆でなく、
軍紀風紀の粛正を望む軍上層部の要望で内外の意見も
取り入れ、今村均中将の主宰で作成したものである。

「戦陣訓」の一節、
「死して虜囚の辱めを受けず」
が大東亜戦争末期の玉砕戦法や住人にまで及んだ
自決の元凶だ、とよく言われる。

だが元々「軍人勅諭」があるのに、「戦陣訓」まで暗記させられたので
兵隊には不評で、精神主義に偏りすぎた内容に異論もあったという。

戦陣訓の一節のためだけに人々が死を選んだ、というのは
少し短絡的ではないだろうか。







前回の予告と内容が変わってしまいすみません!
次回、「[1]東條英機③ 〜内閣総理大臣編〜」

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