【2/1 21:30】 記録5日目

ひとつのアルバイトを2年ちょっと続け、そしてやめた。

大学3年の冬から始めて、出勤頻度にムラはあったものの最盛期は週に3回、18時間くらいは働いていた。世の大学生のなかではそこまで沢山働いているほうではないと思うが、私のなかでは「まじめに働いた」といえる初めての仕事であった。

この2年間は決して「あっという間だった」とは表現できないが、「全然日が経たない」という感じでもなかった。毎日の疲れや億劫さやちょっとした学びとともに、順当に日々が過ぎていったように思う。(バイトベースで自分の日々を振り返った場合。)

約2年続けたバイトをやめたことで、「2年続けられた」という事実が初めて私に降ってきた。継続とはこういう感触なのか。

一日一日を個別に振り返ると、たいして誇れる日はない。むしろ、迷惑のかけ通しであった。考えられうる失敗は8割がた経験済みだし、同じ失敗を何度も重ねた。
仕事に対する姿勢も、当時の自分としては真面目に取り組んでいるつもりだったが思い返せばその自己評価には疑問符が付く。先輩の言う「お客様のために」という言葉がなかなか呑み込めず、現実にこのセリフを言う人がいるんだ、などと他人事のように思っていた時期もあった。また、遅刻はしなかったが年に2回くらい(2日ではない)の仮病は暗黙のうちに許された福利厚生であると考え、実際に休んだりした。

別に、2年続けたことで上述の「失態・迷惑」が帳消しになったとは思っていない。私が辞めたことで内心ほっとしている方もいるかもしれない。

だけど、今回2年続けたバイトをやめて判ったのは、そもそも「継続」という語のうちには一日一日の完璧さは含まれていないということ、ゆえに「継続」は必ずしも美しいものではない(神聖視するものではない)ということ。他方で「継続」にはやはりある種の力、すなわち他者からの信頼を生む力があるということである。書いていてありきたりだなと思うし、特に後半なんかかなり傲慢というか、勘違いの要素も多分に含まれているとは思うが、私自身の所感を端的にまとめたらこうなった。後半(他者からの信頼)について説明を付け加えるなら、別にそんなに大仰なものを考えているのではなくて、「同じコミュニティの一員として認めてもらえた」くらいの意味で捉えてほしい。これはちっぽけな信頼に見えて、実はかなり精神的な支えになる。2年のバイト経験の中で、定期的に顔を合わせることと真っ当に振舞う(振舞おうとする)ことがコミュニティーに認められる条件だと実感した。(つまらない?)やはり、人間は社会的な動物である。そして誰より、誰かの仲間であることで心の安定を得てしまう私自身が「社会的」な「動物」であるともっと自覚するべきかもしれない。

話がずれてしまったが、そんなこんなで私はバイトをやめ、苦手な「継続」について少しばかり考えたのであった。


バイトの最終日には、こんな私を盛大に送り出していただき、餞別の花束やお菓子もいただいた。最初から最後まで優しい方々ばかりで、バイト先の方々のおかげでこれまでのバイト中の自分を少し肯定できた。本当にありがとうございました。


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