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神が人を創ったのか、人が神を創ったのか?

日本は、人の多様性を認める概念が希薄な社会であると言われる。確かに難民の受け入れ数も少なく、高度人材を除いては外国籍の人の採用も多いとは言えないようだ。同じ日本人同士でも、企業では未だに滅私奉公の機運が無いとは言えず、異端は白眼視され、協調性の名のもとに同調を求められることが一般的のように思える。地域コミュニティーにおいても然りである。一方、欧米では多様性に対する意識が高く、個性が尊重され、例えば同性愛者であると告白しても、差別されることなく受け入れられると聞く。
反面、神の世界に目を転ずると立場は全く逆転する。八百万の神々という言葉があるように、日本では実に様々な神々が容認されている。人霊の神格化、動物霊の神格化、自然現象や自然の造形物の神格化はもとより、長い年月を経た道具などが神格化された付喪神 まで存在する。日本固有の神々だけではなく、信仰の有無は別にして、海外からの渡来神に対しても寛容である。
対して欧米では一神教が一般的であり、神は唯一絶対の存在で、時に教義が法律より優先されることすらある。自ら信仰する神以外は認めず、時に異教徒との紛争が勃発することさえある。
この信仰に対する違いは、一体何に起因するのだろう? もしかすると、民族の由来にまで遡るのかも知れない。日本人は今でこそ単一の民族と謳っているが、古代まで遡れば実に多種多様な民族が混血したものであると言う。南方系、北方系、あるいは遠くユーラシア大陸の西方からすら、この東の果ての地へ人が渡来し、長い年月を経て先住民と同化したと聞く。その過程にあっては、もちろん争いも絶えなかっただろうが、信仰する神も含めて様々な価値観の同化もあったことだろう。換言すれば、争いを通じて個々の民族の文化を吸収、包含し、あるいは争うだけではなく、時に互いに妥協もして成立したものが現在の日本人の価値観であると言えるかも知れない。
こうした仮定が成り立つならば、本来日本人自体は多様性に富んだ民族であった筈である。それがこの東の果ての地で生きて行くに当たり、いつしか価値観が守勢に転じ、和を以て貴しと為すの精神概念が確立し、異端を廃除する気風が出来上がったのだろうなどと妄想したくなる。
こうして日本では、神に関しては寛容、人に対しては多様性よりも同一性を求める風土が成立した。一神教の世界とは異なり、人は神の創造物であるという概念は必ずしも強くはない。何せ多種多様な神が御座す訳であるから、それぞれの神が人を創造したら人の社会も大変なことになる。この点が一神教の世界と最も異なる精神概念のようにも思える。
一神教の世界では人は神の創造物であることから、如何に自分と異なる価値観の持ち主であろうが、そうした存在もまた神によって創られた者である以上、否定はできないことになる。こうして唯一絶対の神のもと、人の多様性を尊重する(せざるを得ない)風土が成立した。
批判を承知で敢えて言えば、日本では寧ろ人によって神が創られたと言った方が的を射ているようにも思える。誤解のないように記すが、私は決して無神論者ではない。特定の宗教を信仰している訳ではないが、八百万の神々に対し素直に手を合わせ、無心に念ずる者である。神だけではなく、人の魂魄も存在すると確信している。これまで実際に理屈では説明できない事象をいくつも経験しており、信じざるを得ないと言う方が正直な話しではある。それなのに人が神を創ったと言う表現は矛盾しているようだが、要は神は確かに存在する。ただし、神話や某宗教団体で喧伝されているような神は人が創った存在と考えていると言うことである。
最後に、これまで記した内容は全く私個人の屁理屈である。社会学的にも民族学的にも、歴史学的にも宗教学的にも、眉唾どころか批判の対象にもならないであろうことを承知のうえで、重要案件に取り組む傍ら息抜きを兼ねて、ただ思い付くままに記したに過ぎない。ご笑読いただければ幸いである。

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