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往復書簡③早尾貴紀先生より

往復書簡の3回目は、ディアスポラ研究や社会思想史の専門家としてパレスチナ/イスラエル問題について発言されてきた早尾貴紀先生からの応答です。学生有志からの質問の全文・詳細はこちらから。


1. 大学にいる私たちは、パレスチナとどのようにつながっているのでしょうか。

もちろん近代の帝国主義的な植民地分割において、日本はイギリス・フランスの中東支配を承認しながら、自分たちのアジア支配を優先させてもらっていたという共犯関係があります。イギリスのパレスチナ統治(その下で20世紀前半にシオニズムは一気に強まっていった)に日本は関与したのです。ただ、そうした歴史的視点よりも、今の学生世代には、日本が「西側陣営」「G7」という政治経済的な枠組みで、英米独仏と歩調を揃えてイスラエル寄りになっていることのほうが、現在的な問題として感じやすいでしょう。さらに21世紀に入ってからの欧米主導の「対テロ戦争」のイデオロギーにも日本は同調しており、アラブ・イスラーム世界に対し根底的な嫌悪や偏見を持っています。パレスチナという言葉はすぐに「テロ」に結びつけられてしまいます。イスラエルのガザ虐殺はAIテクノロジーを本格的に軍事導入した初めての戦争でもあります。日本も含む「G7」がその成果を観察している理由もここにあり、ガザ虐殺を「イスラエルの自衛権」として日本政府が支持しているのもそのためです。ですので、日本語圏のメディアやネットで流通する報道や言説も相当程度に欧米・イスラエル寄りになっていることは、つねに批判的に意識しなければなりません。

2. 「連帯する」とはどのようなことでしょうか。

昔から民族差別などに関わる社会運動では「連帯」という言葉が争点になってきました。英語圏でも連帯はsolidarityと言い、私も第二次インティファーダの頃にパレスチナの西岸地区で「国際連帯運動」International Solidarity Movement(略称ISM)に参加したこともありましたが、名称については違和感もありました。例えば、日本本土の人間が沖縄の反米軍基地の運動に「連帯する」と言ったらどうでしょうか? 日本人のマジョリティは日米安全保障条約を結んだ政府を支えている以上、権力の側つまり加害の側にいます。私たちは自分自身の責任において沖縄に押し付けている基地暴力の問題に向き合わなければならないのであって、抵抗する沖縄の人たちに「連帯」するのではないはずです。パレスチナについても、日本政府が今回のガザ虐殺を「イスラエルの自衛権」として支持していることを問わなくてはならない立場です。ただし、被抑圧下のパレスチナ人のなかには、純粋に自分たちの置かれた不正義に対して理解を求める気持ちがあり、そこに共感と支持を表明する具体的な声が世界中から上がることを望んでいます。それを「連帯」と呼ぶかどうかは私たちの社会運動の内部で考えるべきでしょうけれども、「連帯」という言葉をめぐってあまり内向きにばかりなることには懸念があります。

3. パレスチナ/イスラエルの何が問題なのでしょうか。

あえて根本的なところを掘り返して言えば、「脱植民地」と「民族自決」の問題です。オスマン帝国下のパレスチナは民族自決を理念とした第一次世界大戦後に独立することができず、イギリスに植民地支配されました(のちに委任統治というタテマエに)。そのあいだにヨーロッパのユダヤ人排斥があいまって、そのユダヤ人がパレスチナへ組織的に入植して国家建設を目指すというセトラー・コロニアリズムが展開されました。そして1948年にイスラエル建国(「48年占領地」とも言います)、1967年には残りの西岸地区とガザ地区も軍事占領下に入ります。つまりパレスチナ問題はこの継続している植民地主義からの脱却であり、民族自決の獲得の問題だと言えます。その意味では、帝国的支配をする側と抵抗する第三世界の側とが関わる近現代世界に普遍的な課題なのです。これを「紛争」「対立」「宗教」といったタームで粉飾して語るからおかしなことになります。「対立の和解」というような構図に立って「和平合意」(オスロ体制はその典型)を語ることも同じ誤謬に立っており、むしろ植民地主義を隠蔽して温存してしまうことになります。だからこそあえて「脱植民地」と「民族自決」を強調したいと思います。

4. 先生が専門家としてパレスチナに関して発言や運動をする際に自らに戒めていることはあるでしょうか。

まず、私はひじょうに「怪しい」人間だと自分で思っています。自覚、自戒と言えるか分かりませんが、いわゆるまっとうな「専門家」(普通の大学研究者)からはそう見られていると思いますが、逆に「専門家」と言われることの怪しさを意識しておきたいのです。第二次インティファーダの頃にヘブライ大学で研究しながら、東エルサレムでパレスチナ人と暮らし、西岸地区・ガザ地区に頻繁に出かけました。親イスラエルの人からも怪しまれ、親パレスチナの人からも怪しまれたものです。またヨーロッパ哲学研究から入ってパレスチナ問題研究に広がっていった経緯から、哲学研究者たちの前では中東研究者として振る舞い、中東研究者たちの前ではヨーロッパ思想研究者として振る舞うことがあります。そして大学研究者たちからは社会運動とジャーナリズムばかりで活動していると見られ、市民運動に呼ばれるときはアカデミックな研究者として声をかけられます。つまり越境的で怪しい。あまりこういうことは公言しませんが、この怪しさは半ば成り行きでこうなったことですが、半ば意識的に振る舞ってきたことでもあります。ですので、実は「狭い意味での専門性を背負わない」ことを信条としていると言えるかもしれません。

5. 「人間性」とは何でしょうか。

このガザ虐殺の進行を目の当たりにしながら世界がそれを止められないという事態で、「人間」そのものが問われているのは間違いないと思います。ホロコーストを目撃・体験し、ユダヤ人の作家プリーモ・レーヴィは『これが人間か』と問いました。徹底的に人間性を剥奪され廃棄されていったユダヤ人をはじめとする犠牲者たちと、そうした剥奪と殺戮を組織的に大量に行なうナチス。しかしナチスがむしろ「健康さと生産性」をこそ求めていたことにも注意が必要です。だからこそ、心身障害者も性的マイノリティも収容所送りにしたのでした。もし「健康で生産的であること」を「人間性」とするのであれば、「不健康で非生産的」な人びとは「人間ではない、ケモノ、ケダモノ」ということになります。まさに現在ガザ地区という収容所に閉じ込められて国籍も人権もない難民のパレスチナ人、虫ケラのごとくあるいは極悪非道のテロリストとして殺されているパレスチナ人たちのことです。ここで大事なことは「パレスチナ難民も人間なのだ」として「人間性」を救い出すことではなく、「人間(性)」を規定する生産性中心主義を問い直し解体することだと思います。現代思想で人間中心主義を批判する「動物の哲学」が流行っていますが、実はカントやヘーゲルの古典的著作において「理性」が論じられているときに、その理性はヨーロッパ人男性インテリの独占物だったことを思い起こさなければなりません。そしてシオニズムがヨーロッパ近代の産物であり、欧米諸国政府がこのガザ虐殺を支持・支援までしていることを考慮すると、ガザ虐殺においてパレスチナ人が「人間」から除外されていることを批判するよりも、「ヨーロッパ人=イスラエル人シオニスト=人間」という図式そのものの解体が必要なのだと思います。

6. ガザ・モノローグはガザの人々の綴った言葉を朗読するという営みですが、これはどのような行為だと考えられるでしょうか。

「ガザ・モノローグ」を日本で日本語で朗読することの意味を考えるときに、声に出して読むという演劇的・身体的要素と、異言語間だけにかぎらない「翻訳=解釈」的要素の、二つが関わってくると思います。パレスチナ人のアラビア語から、あるいはより世界へ向けられた英語での発信から、日本語に翻訳するときには、当然意味を解釈してそして自分や聞き手に理解可能な言語にしていかなくてはなりませんが、その解釈も表現も正解はありません。どこまでも考えさせられます。ましてや、それを声に出して朗読するという行為は、演劇のようにその発信者になりきる(なりきろうとする)という側面があります。そのときはますますその翻訳した言葉は自分の身体と精神に納得して落とし込まれていなくてはなりません。もちろん異なる社会の異なる体験を異なる言語で表現したものが、完全に自分のものになることはありえませんが、しかしそれでも翻訳し朗読するという試みは、その断絶を意識しつつ、それを単なる断絶に終わらせずに少しでも接近しよう、どこまでも接近しようという営みのように思います。「ガザ・モノローグ」というプロジェクトはそのような試みに開かれており、身体性と精神性をともなって理解しようとする無限の過程に私たちを誘っているのではないでしょうか。

鈴木啓之先生の応答はこちらから

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