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往復書簡②鈴木啓之先生より

往復書簡2回目となる本記事では、パレスチナ問題を中心に、近現代の中東地域を研究されてきた鈴木啓之先生からの応答を掲載します。学生有志からの質問の全文・詳細はこちらから。


1. 大学にいる私たちは、パレスチナとどのようにつながっているのでしょうか。

つながりを各自が見つけ出すプロセスが大切だと思います。
また、誰しもが同じ結び目を持つわけではないことを理解することも不可欠です。

私がパレスチナ/イスラエルに関心を抱いて学習会やイベントに顔を出し始めた15年ほど前、ベテラン世代の研究者やジャーナリスト、市井の活動家などから、「パレスチナ問題に関わることは、君の人生にとって何なのか!?」と繰り返し訊ねられ、答えに窮したことが何度もあります。当時は「人生すべてを賭けなければ、パレスチナには関わってはいけないのかも・・・」と萎縮する心持ちを覚えたものですが、いま改めて――最大限好意的に!――捉え直せば、「パレスチナとのつながりを、自分のなかに見つけなさい」というメッセージだったのだと思います。

もし、いま貴方がつながりを求めて葛藤しているのであれば、具体的な関わりの例を知ることがヒントになるかもしれません。現在の事態を受けて編んだ鈴木·児玉[2024]では、NGOや国連職員などによる寄稿を意識的に多く収録しました。

また、これまで日本がパレスチナとどのようにつながってきたのか、歴史を繙くのも良いでしょう。駒場を拠点に中東研究を講じてきた板垣雄三は、1960年代から2011年まで「四つの段階」で展開してきた日本とパレスチナの繋がりを論じています。皆さんは、ここに書かれていない「第五の段階」の世代に該当します。この段階が持ちうる新たな視座として、問いかけにあった「普遍的な……枠組み」と言うのは、おそらく一つの鍵になることでしょう。在米パレスチナ人のラシード·ハーリディーは、他の事例との比較や力の不均衡への注目、不平等の観点から、パレスチナ/イスラエルはより良く理解されるだろうと論じています。

各自が、自身のなかにパレスチナ/イスラエルでの出来事を解釈するための言葉を蓄え、学習と対話を通して視座を鍛えていくことが必要です。

2. 「連帯する」とはどのようなことでしょうか。

連帯とは、相互作用だと私は考えています。

アラビア語で「連帯」は「تضامن」(taḍāmun)と言います。この形の動詞(動詞第Ⅵ形)は、「相互に~しあう」といった意味合いが多く、その場合は「相手」と「私(たち)」という2つの軸を必要とします。この関係は、相手に完全に同化したり、逆に自分本位に相手のイメージを改変するような行為で、容易に壊れてしまいます。

「相手」と「私(たち)」の二つの軸から連帯を考える際に、示唆を与えてくれる詩があります。1970年代から90年代に活躍したイスラエル国籍パレスチナ人の詩人で、ナザレの市長を務めたタウフィーク·ザイヤードによる、「君らの手を握りしめよう」(أشد على اياديكم, Ashudd ʿalā Ayādī-kum)という作品です。鈴木[2020]では、この詩の冒頭と末尾を序章と終章で引用しました。
この詩は、パレスチナ人への連帯を示すときに、朗唱されることが多い作品の一つとして知られています。ザイヤードは、冒頭で「-kum」で韻を踏み、「君ら」を強調します。しかし、後半では「-ī」に韻が変わり、「私」へと変化を遂げます。相手を得て、その相手と関係することで「私」や「私たち」を見つめ直すことを示唆するような構成です。

私の認識する限り、連帯の実践は身体的表現(デモへの参加、署名活動、集会や学習会の実施)を伴うことが多く、新聞報道などを除けば記録が残されることには相当の努力を必要とします。日本での実践としては、シンポジウムや学習会の記録として前掲した板垣[2012]のほか、ミーダーン[2010]や在日本韓国YMCA[2023]が出版されています。また、国際的な連帯運動当事者による証言集も、レバノンのパレスチナ難民研究・報道で著名なローズマリー・サーイグの編集によってSayigh[2024]として刊行されました。

どのように「相手」と「私(たち)」の関係が形づくられてきたのか、こうした活動記録や証言からも多くの示唆を得ることができます。

3. パレスチナ/イスラエルの何が問題なのでしょうか。

理不尽な形で、人の命が奪われ続けている状況が続いています。
200日以上にわたる過去最悪の事態を、日本を含めた国際社会は止められずに来ました。どうして、このような事態が起きているのか、単純化せずに理解する力量が私たちには求められています。

もちろん、なにか一つのキーワード(植民地主義、占領、ジェノサイド、民族対立、アパルトヘイト、など)を軸に論じることは、はじめてパレスチナ問題に触れる際の道標になります。しかし、それは出発点であると考えるべきです。最後に戻ってくる場所になるかもしれませんが、そこにはじめから留まっていては、この問題がなぜ解決しないのか、どうして平和が訪れないのかを理解することは容易ではありません。

パレスチナ問題は、100年にわたる歴史を持つ問題です。
現地社会の多様性や、争点の変遷にも目を配った議論が必要だと考えています。

もし資料や書籍選びに迷ったら、中東地域研究センター(UTCMES)附属バフワーン文庫(駒場9号館3階307号室・月水金12:00~17:00開室)にも、お気軽にお訪ねください。

4. 先生が専門家としてパレスチナに関して発言や運動をする際に自らに戒めていることはあるでしょうか。

市民としての良識と、学習者としての謙虚さ、教育者としての責務と自覚を大切にしています。知識の多寡で相手を品定めせず、自身の認識が及んでいないことについては、意識して「知らない」と言うようにしています。
また、公に発言する際には、最後に――紙幅や時間の関係から収録されないことも多々あるのですが――事態打開に向けた私自身の願いや希望を語るように心がけています。

「専門家」の役割については、在米パレスチナ人のオピニオンリーダーであったエドワード·サイードによる議論が参考になるでしょう。私も印象深く読んだ一文です[サイード 1998: 155–156]。

だが、わたしはこう問いたい。ほんとうに現代の知識人――とはつまり、客観的な道徳規範とか、賢明な権威と思われていたものすべてが消滅し混迷をきたしている時代に生きる知識人ということだが――にとって、自国のやりかたならこれを無批判に支持して、自国の犯罪行為に目をつぶるか、さもなくば、「どこの国でもそれをしていると思うし、それが世界のやりかたではないか」とたかをくくってしまうというふたつの選択肢しかないのだろうか。むしろ、わたしたちはこう要求すべきではないか。知識人とは、きわめて偏った権力にこびへつらうことで堕落した専門家として終わるべきではなく――これまで語ってきたことのくりかえしになるが――、権力に対して真実を語ることができるような、別の選択肢を念頭におき、もっと原則を尊重するような立場にたつ、まさに知識人たるべきではないか、と。
ただし、わたしはここで、知識人に、旧約聖書的な弾劾、つまり万人は罪人であるが故に、その根源は悪であるといった宣言をくだせといっているのではない。わたしの提案は、もっと穏健で、それでいて、もっと効き目のあるものだ。国際関係と人権問題において首尾一貫した規準をもつことについて論ずる際、なにも自分の内面をみつめ、霊感とか予言的な直感に頼って導きの光を求めるにはおよばない。現在、すべてとはいわなくとも、ほとんどの国々は、1948年に宣言され採択された〈世界人権宣言〉〔直訳すると「人権に関する普遍的な宣言」〕の調印国であり、新たに国連に加盟する国は、すべてこの宣言を批准することになっている。〔中略〕知識人の役割とは、国際社会全体によってすでに集団的に容認された文書である世界人権宣言に記されている行動規準と規範を、すべての事例にひとしく適用することなのである。

5. 「人間性」とは何でしょうか。

イスラエル軍によるものに限らず、占領や虐殺は、国際法に著しく違反する行為です。行為主体がどの国やグループであったとしても、また被害者がどのような属性を持つとしても、国際社会のルールにもとづいた対応が必要です。

「人間性」を含めて、定義が難しいながらも国際的に共有されている「感覚」ともいえる概念は、この国際法や国際ルールを作りあげる背景としてあったはずです。
しかし、国際法や国際社会のルールが無視され、違反状態が常態化するなかで、より根源的な部分から現状への抗議を立ち上げる必要に迫られているのだと理解しています。

パレスチナの国民的詩人のマフムード·ダルウィーシュの言葉を借りれば、「私は生きるに値する」(أستحق الحياة)と誰もが実感できる社会を、法と規範に則って実現する必要があると考えます。

6.ガザ・モノローグはガザの人々の綴った言葉を朗読するという営みですが、これはどのような行為だと考えられるでしょうか。

希望のために「声をあげる」行為だと思います。
ガザの人びとの言葉に日本語の声を「あげる/与える」実践であり、市民や学生が平和を願って声を「あげる/発する」取り組みです。

イスラエル国籍ユダヤ人の俳優·作家であり、人権擁護活動に取り組むエイナット·ヴァイツマンの作品に、「I, Dareen T.」(私は、ダーリーン·T)というものがあります。この作品では、エイナット自身によるモノローグによって、SNSに詩を書き込んだことで逮捕·収監されることになったパレスチナ人女性――ダーリーン·タートゥール――の言葉がヘブライ語で語られます。この作品がうまれた時のことを、エイナットは東京での講演会「演劇と抵抗」でこのように語っています。

ダーリーンは刑務所への収監が決まっていたので、私は「私の身体と声をあなたにあげたい」と伝え、自分のユダヤ人としての特権を最大限に活かそうと思いました。パレスチナ人の詩人だから、作品で抵抗を呼びかけて投獄されたわけです。でも私はイスラエル国籍のユダヤ人なので、同じことをしても刑務所に行くことはありません。私に起こり得ることと言えば、演劇が上演禁止になることだとか、ヘイトや脅迫を受けるということだけです。私は自分のこの特権を使う義務を感じました。自分がダーリーンになろうと思ったのです。ダーリーンが私の身体を通して語ることができるようにしたいと考えました。

ダーリーンの言葉は、監獄と社会的タブーのなかで、幾重にも閉じ込められた状態にありました。俳優であるエイナットによって声が与えられたことで、ダーリーンの言葉はイスラエル社会に響き、日本にまで到達することになりました。
世界のさまざまな場所で、パレスチナ/イスラエルの現状を憂い、声をあげる人びとがいます。その活動の一翼を担う動きが、学生によって担われていることに、私自身は希望を見る思いがします。

関連する書籍·資料

1. 大学にいる私たちは、パレスチナとどのようにつながっているのでしょうか。
板垣雄三編. 2012.『〈パレスチナ問題を考える〉:シンポジウムの記録(復刻版)』第三書館(駒場図書館·4F開架[227.9:I86])。
鈴木啓之·児玉恵美編. 2024.『パレスチナ/イスラエルの〈いま〉を知るための24章』明石書店(近刊)。
ハーリディー, ラシード. 2023.『パレスチナ戦争:入植者植民地主義と抵抗の百年史』(鈴木啓之·山本健介·金城美幸訳)法政大学出版局(駒場図書館·4F開架[227.9:Kh])。
鈴木啓之「ガザ情勢とパレスチナ人の抵抗の歴史:ラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争』を手がかりに」公開シンポジウム『パレスチナの危機を読む:入植者植民地主義に抵抗する歴史家ラシード・ハーリディーの著書から』(2024年3月27日開催)

2.「連帯する」とはどのようなことでしょうか。
在日本韓国YMCA編. 2023.『交差するパレスチナ : 新たな連帯のために』新教出版社(駒場9号館·UTCMES附属バフワーン文庫·開架[KYMCAiJ:Jpn 1])。
鈴木啓之. 2020.『蜂起〈インティファーダ〉:占領下のパレスチナ 1967–1993』東京大学出版会(駒場図書館·4F開架[227.9:Su96])。
ミーダーン(パレスチナ·対話のための広場)編. 2010.『〈鏡〉としてのパレスチナ:ナクバから同時代を問う』現代企画室(駒場図書館·4F開架[227.9:Mi14])。
Sayigh, Rosemary, ed. 2024. Becoming Pro-Palestinian: Testimonies from the Global Solidarity Movement. London: Bloomsbury(国内図書館に未収蔵[2024年4月28日時点]).

3. パレスチナ/イスラエルの何が問題なのでしょうか。
臼杵陽·鈴木啓之編. 2016.『パレスチナを知るための60章』明石書店(駒場図書館·4F開架[302.279:U95])。
鈴木啓之. 2023.「イスラエル/パレスチナ:読書案内」
鈴木啓之. 2024.「【寄稿】世界から隔絶されたガザ地区 侵攻の経緯とこれからは」『東大新聞』2024年3月12日

4. 先生が専門家としてパレスチナに関して発言や運動をする際に自らに戒めていることはあるでしょうか。
サイード, エドワード·W. 1998.『知識人とは何か』(大橋洋一訳)平凡社ライブラリー236、平凡社(駒場図書館·4F開架[361.84:Sa17])。

6. ガザ・モノローグはガザの人々の綴った言葉を朗読するという営みですが、これはどのような行為だと考えられるでしょうか。
ヴァイツマン, エイナット「演劇と抵抗:48/イスラエルでパレスチナ人のナラティヴを表現する取り組み」(通訳 渡辺真帆、解説 村井華代、対談·註釈 鈴木啓之、閉会の辞·解説 新野守弘)『異文化コミュニケーション論集』第22号., pp. 5–22(オープンアクセス公開予定)。


ご協力いただいた鈴木啓之先生のHP、SNS
HP:https://cmeps-j.net/abujaras/
X:https://x.com/Suz_hir


早尾貴紀先生、鵜飼哲先生の応答は今後随時公開いたします。


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