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ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』- 期限付きnote公開

 昨日2024年7月7日は、、、東京都知事選でもありましたが、、、それより何と言っても(?!)、私の自費出版した『ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』≪仏領インドシナ植民地解放闘争史≫』のオンライン発売日、だったんです~。😊😊😊

 是非、一人でも多くの方にその存在だけでも知ってもらいたい。特に、今最前線で≪ベトナム≫に関わっている、これから関わろうとしている日本人の方々には、是非興味を持って頂きたいです。
 その為、期限付きでここ≪note≫に全文を公開します。(後々は、一応オンライン書籍を販売している都合上、一部有料にする予定でいます。)

 えーと、これが私、≪何祐子(が ゆうこ)≫の『序文』です。😊⇩

  訳者序文

 世界史を紐解くと、今より僅か百年前までは、黄色人種の住むアジア各国の殆どが西欧列強の植民地にされていました。彼等のやり口は、まず布教と貿易を糸口にして入り込み、次に自作自演の事件をでっち上げ、難癖をつけ武力侵攻する。そして、講和条約を結び賠償金を吹っ掛ける。その過程を繰り返し国力が衰えたところへ、徹底的に容赦なく他国の領土と民族を蹂躙し、最後は保護国という≪植民地≫にして暴力と経済搾取を使って完全に奴隷支配をしたのです。
 現在のベトナム社会主義共和国も、1945年までは≪仏領印度支那(インドシナ)≫という名のフランス領植民地の一つであり、「われらが死なんとして死に得ず、活きんとして活きがたき苦境に陥ってから、すでに60余年。強権圧制の下にうめき、強権者の鼻息をうかがっては、一つにその気色を損じ、不測の禍いを受けんことを恐れて居る。(『天乎帝乎』より)」という様な生き地獄の中にありました。この文章を書いたのが潘佩珠(ファン・ ボイ・チャウ)-ベトナムの独立運動家であり、明治末の日本へ渡来して、後の『東遊(ド ン・ズー)運動』の原点となった人物です。

 ベトナム独立運動家ファン・ボイ・チャウについては、日本の史学界に於いて既に沢山の諸先輩方による書籍が数多く存在しますので、ここで詳しくその人物像に触れることは省略したいと思います。ベトナム中部乂安(ゲ・アン)省出身の彼は、幼き頃より祖国解放を心に誓い、青年期は各地に同志を求め歩きました。そして、1905(明治38)年34歳の時 に、日本へ武器援助を求めるべくクオン・デ候を統領とする抗仏党の使者として初めて出洋して以来、海外で革命活動に奔走しましたが、1925年上海で捕えられ、祖国へ送還されました。ハノイの裁判では終身懲役刑を宣告されるも、民衆のデモや嘆願によって釈放され、中部フエへ移送されて、1940年にそのままその地で亡くなりました。
 中部フエでの軟禁生活の中でファン・ボイ・チャウは、1929年頃から自身の自伝書を漢語で書き始めました。彼の没後、1956年旧ベトナム共和国(南ベトナム)において、遺稿を守って居た仲間グループの手に依って現代ベトナム国語(アルファベット化文字)版 が発刊されました。本書は、そのベトナム語版の日本語完訳です。
                   訳者 何祐子

 そして、これが≪何祐子(が ゆうこ)≫の『あとがき』です。⇩

  あとがき

 ベトナムのフランス領植民地時代、祖国解放を目指し日本へ渡った独立運動家潘佩珠 (ファン・ボイ・チャウ)。『日仏協約』締結後に日本政府から国外退去処分を受け、日本を出国以後は主に中国各地で革命活動を続けましたが、1925年5月(旧暦)上海で英国警察に逮捕されました。祖国へ送還されたファン・ボイ・チャウは、特赦で釈放され、その後は中部フエで軟禁生活を送りながら沢山の書物を書き遺しました。その中の一冊が、この自伝書『自判』です。
 西洋奴隷から祖国民族を解放するため、日露戦争後間もない明治末日本に渡航したファン・ボイ・チャウたち。そこで初めて見た日本の列車、警察官、人力車、旅館、義人、支那留学生、日本政界人等々、祖国ベトナムで文名高かったファン・ボイ・チャウの驚くべき記憶力と文才により、当時の日本の様子が生き生きと書き遺されています。
 
 ファン・ボイ・チャウは、1913年末に竜済光(りゅう・さいこう)に捕われ広東獄に投ぜられた時、早晩フランスに引き渡されて極刑は免れまいと覚悟を決めた獄中で一度自伝を纏めました。その漢語原本が、翌年7月に上海で秘密刊行された『獄中記』であり、この邦訳文(翻訳者は南十字星氏)は、昭和4(1929)年に雑誌「日本及日本人」6月臨時増刊号(179号)に掲載されました。
 フエの軟禁生活の中で1929年から書き始めた『自判』の前半は、『獄中記』と比べて細かな差異はあるものの、内容と構成はほぼ同じ。そしてもう一冊、『越南義烈史』(1918年 初版、鄧搏鵬著、潘是漢(=ファン・ボイ・チャウ)修訂)という、その頃既に殉死した同志達 の逸話を纏めた本がありますが、本書の≪ベトナム帰国を拒否した若者たち≫の項は、 『越南義烈史』の内容と重複する部分が多いです。

 ファン・ボイ・チャウが遺した『自判』は、彼の没後に数奇な運命を辿りました。遺稿出版社だった『英明(アイン・ミン)書館』に依れば、1945年日本敗戦後にインドシナへ戻って来たフランス軍と、その交戦に名を借りた越盟(ベト・ミン)勢力によってファン・ボイ・チャウ 遺稿等は度々焚書の危機に遭いました。その後の1965(昭和40)年頃にこの貴重なファン・ボイ・チャウ自伝原本(漢語)が、海を越えて日本へ渡り、焚書を逃れていたという事実から、当時のベトナム国内が置かれていた苛酷な戦時下の状況が想像出来るでしょう。
 この時、フエから日本へ自伝原本を送った人が≪英明(アイン・ミン)書館≫代表の呉成人 (ゴ・タイン・ニャン)氏であり、日本でこれを受け取った人が、『ヴェトナム独立運動家 潘佩珠伝』(1999)の著者内海三八朗氏です。内海氏は、序文にこう書いています。
 「当時メコンデルタのオクエオ(2千年前メコン下流にあったクメール族扶南王国の海港)の近くに、難民の農業指導、特に米作りを弁当手持ちで続けていた私と同年(明治 24年)生まれの好々爺、奇特な一徹者がいた。名は高橋常雄、広島県人で、時たまサイゴ ンへ帰ると、私の家をしばしの憩いの借り宿としていた。いたって懇意な間柄だったので、 私の本探しの苦心談を彼にしたことがあった。それから何年経ったか忘れていたが、ある 日突然、思いがけない未知の呉成人(ゴ・タイン・ニャン)というユエ在住の人から小包が届き、開けてみると中から「潘佩珠自判」の写本上下2巻と、潘が晩年書いた「孔学燈」及 び大小型写真十数枚が出て来てビックリ仰天、夢かとばかり喜んだ。」
 この貴重な原本を受け取った内海氏が、苦心して漢語原本を日本語へ翻訳し出版して下さっていたことは、ベトナム語版の邦訳を志した私にとって奇跡の様に有難く、終始心強い守り神の様な存在でした。(中略)

 ファン・ボイ・チャウが序文で述べている通り、彼は自身の英雄伝を書き留める気など毛頭なく、失敗に満ちた私史を曝け出すことで後進への『失敗の手引書』となるのを望んでました。正しくその言葉通り、現代の私達が『自判』から学び取るべき教訓が数多くあると思います。それは例えば、西洋植民地主義打倒の為に革命を志したベトナム志士らが、武器購入の金策で多大な犠牲を払ったこと、要するに『金と資本』の掌から離れて居なかっ たこと。戦後アジアの≪反中≫≪反韓≫≪反日≫など、まやかしの嘘言に過ぎないこと。 目に見える巨悪より危険なモノは、獅子身中の虫、淫蕩堕落な自国政府の中に潜んでいること等々。
 そして何よりも、我々日本人が知るべきは、戦後日本で教えられるベトナム史-『虐げられた仏領インドシナに出現した救世主ホー・チ・ミンが、共産勢力を率いて日本ファシズムから独立し、独立戦争を戦い抜いて共産主義革命を成功させた』という現在のベトナム社会主義共和国の虚像です。ファン・ボイ・チャウやクオン・デ候の自伝、その他ベトナム志士達が遺した文章から浮き上がる真実の日越史を、令和の今こそ我々世代の日本人が 再考すべき時だと思います。そして、戦後日本が蒙り続ける不当な汚名や不利益を払拭し、戦後受益者によって故意に捏造された欺瞞や偽史に対して声を挙げ、戦争で犠牲となった先人達の正義と名誉を恢復しなければ、これからの将来に生まれて来る日越の子孫たちへ、一体何を遺して行けるというのでしょうか。
                                             何 祐子

 次回より、本文を分割して順次投稿して行きますので、宜しくお願いします。😊😊😊


 

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