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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第13章 フランス密偵・潘伯玉(ファン・バ・ゴック)のこと~

 この時期、一人の元同志がフランス側へ寝返りました。
 フランス密偵となり、仲間を次々と罠に嵌めて行ったこの男の名が『潘伯玉(ファン・バ・ゴック)』

 この頃は、雨後の筍の如くフランス側へ寝返る元同志が多かった中で、何故この男のことだけ特別に丸々一章を割いているのでしょうか?

 その理由は、この潘伯玉(ファン・バ・ゴック)は実は、第7代咸宜(ハムギ)帝の勅を奉じて義軍を起こし、帝の流刑の後もフランス軍に投降せずに徹底抗戦を構え山間部屯田地で10年以上もフランス軍と戦った阮(グエン)朝の最大の忠臣、潘廷逢(ファン・ディン・フン)の実の息子です。そして、それは当時のベトナム国民なら誰もが知っていた有名な話です

 最期まで”仁(じん)”を守り抜いた祖国の英雄を父親に持ったこの男が、とうとうフランス側に寝返った…、この噂は、当時国内外のベトナム人義人たちに大きな波紋を呼んだに間違いありません。

 この頃、杭州に居た潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)がこの密偵に狙われているという確かな報告を得て、クオン・デ候は、忠臣の遺児への誅殺を決めました。しかし実際、クオン・デ候の胸中はどんなにか辛かったことでしょう。。。(この件に関しては、いつか別途詳細を記事にします。)
 
 1922年1月頃、旧正月の燈節(元宵節)の時、見物客でごった返していた杭州新市場の運動場のど真ん中で、ベトナム人の男が撃たれて死亡しました。
 翌朝の新聞社に、『或ベトナム人青年』の犯行声明文が掲載されましたが、結局犯人は判りませんでした。
 遺体が所持していた大金は、杭州警察が保管していましたが、結局ベトナムの遺族は誰も引き取りに現れなかったそうです。 
 
 (1922年1月)

 


*第13章 フランス密偵・潘伯玉(ファン・バ・ゴック)のこと*

 
 欧州大戦前の数年間は、海外で活動するベトナムの革命運動家達にとって最も悲しみに満ちた日々でした。

 その頃は、資金が欠乏して生活に困窮し、活動などしようにも何も出来ない、正にお手上げの状態でした。反対に、この時期にベトナム抗仏運動家の海外主戦力を壊滅させようと、反逆者らが猛攻を仕掛けて来たのです。
 
 その中でも、反国家活動として最も罪が重かったと思うのは、潘伯玉(ファン・ バ・ゴック)です。
 留学生として潘伯玉が日本に渡航して来たのは、1906年の7月か8月頃でした。3年間日本で学んだ後に支那へ渡り、香港や広州に居ましたが、1913年に北京に移ります。胡学覧に習い、蔣介石も学んだ中国でも聞こえの高い名門軍事学校、宝定軍官学校に入学しました。

 卒業後は杭州へ行き、浙江軍事演習所で中国名・鍾天富(しょう・てんぷ)を名乗って働いていました。

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