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ベトナム武術 VOVINAM(ヴォヴィナム)-Võ Việt Nam(越南武道) 

 ”えっ、ベトナムにも独自の武道が??” -大半の日本人はそう感じると思いますが、ベトナム現地の青年会館や体育館では夕方などに「Vovinam(ヴォヴィナム=ベトナム武道)クラス」の練習風景が見られ、ベトナムに長く滞在する方は御存知かも知れません。

 私がベトナム人の夫と結婚した当初に住んでいた地区にお寺がありました。夕方4時頃からお寺の前庭がヴォヴィナムの演武練習場になり、丸坊主で黒道着を来た2-30人の団体演武練習風景を、柵の外から娘を抱っこしながら野次馬に混じってよく見てました。
 丸坊主で黒道着の団体は、昔テレビで見た中国拳法映画「少林寺」にそっくりで、武術動作も中国拳法に似てます。日本の空手や柔道とは類似性が薄いと感じた記憶があります。

 演武を見ながら、私の好奇心が湧きました。。(笑)
 それは、「この武道はいつ頃ベトナムで成立出来たのか?」ということ。なぜなら、ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)著書「天乎帝乎」に、仏領インドシナ時代のベトナム「学校教育・体育」についてこう書いてあるからです。
 
 「小学校の学科には、体操科がない」、「フランス人児童の小学校には、兵式操練場あり、運動場あり」「けだしヴェトナム人いやしくも壮健の児童あらば、大いにフランス人の憎むところとなる。」
            
 『天乎帝乎』より 

 先の記事「フランスの仏印植民地運営の失敗から見るベトナム人社員を管理する難しさ」に書いたように、仏印政府はベトナム人青少年の心身健全な成長を極力抑制する政策を執ったので、「武道」など許可しなかった筈です。
 そうなるとこの「ベトナム武道・ヴォヴィナム」は、やはり日本軍の「仏印平和進駐」!?と狙いを定めた😅私(←ただの主婦)。。。(笑)

 「開祖の名は、阮禄(グエン・ロック)、1912年北部ベトナム山西(ソン・タイ)省生まれ。幼少の頃より武を好み、世界の武術を見様見真似で学んだ。ベトナム古典武術を基礎に研究を加え、1938年頃ベトナム独自の武術を編み出し「VÕ VIỆT NAM(ヴォ・ベトナム)」と名付けた。」
     
『開祖阮禄(グエン・ロック)小史』より

 これ⇧は、開祖グエン・ロック氏の一番弟子、武道家黎創(レ・サン)氏回想録『開祖阮禄(グエン・ロック)小史』からです。

 設立年は日本軍第5師団(中村兵団)クオン・デ候・ベトナム復国同盟会のベトナム建国軍」の仏印北部ドンダン・ランソン進攻前夜、第2次欧州大戦勃発の直前でもありました。
 この頃は、高まるベトナム人民の独立要求へ対処する為、何年か前から仏印政府は徐々に法律や締め付けを緩くしましたので、この様な条件下になって初めて民族武術の誕生が可能になったのでしょう。

 「…1939年秋、ハノイ大劇場広場に於いてVÕ VIỆT NAM(ヴォ・ベトナム=ヴォヴィナム)門徒の演武をベトナム大衆に初披露し大成功を収めた。そして、1940年春、ハノイ師範学校(école Normale)で初めて「VÕ VIỆT NAM(ヴォ・ベトナム)」クラスを開いた。」

 ドイツのパリ陥落は1940年6月でしたから時節到来、ベトナム武術は活発に活動を開始しました。(因に、一番上⇧の写真が大勢の前で指導する黎創(レ・サン)氏、1966年頃のお姿です。😊😊)

 1940年秋には日本軍の仏印進駐があり、その日から1945年8月の敗戦まで、日本の軍隊、商社、官人、商売人、学生が大勢ベトナム入りしてます。もしかしてここでも日本が関係してたりして…と、武道、武道…と思い巡らすと、やはりこの当時仏印(ベトナム)に居た日本の「武道派」と云えば!「双水執流(そうすいしつりゅう)・隻流館(せきりゅうかん)」の「許斐(このみ)機関・許斐氏利(このみ うじとし)氏」を置いて他にいないんじゃないでしょうか。。。😅😅

 この「許斐(このみ)機関・許斐氏利(このみ うじとし)氏」のことは、牧久氏著「特務機関長 許斐氏利-風淅瀝として流水寒し」に詳しいです。私もいつか別途に仏領インドシナと戦前の日本人シリーズに纏めたいと思います。

 先の記事仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(1)」に登場しました、満鉄の「東亜経済調査局付属研究所(大川塾)第一期卒業生で元大南公司副社長の西川寛生(捨三郎)氏は現地で軍属し、「許斐機関の機関員」に配属されました。戦時に於ける「特務機関」とは、「軍の裏・下工作を隠密に行うインテリジェンス組織」のような存在だそうですが、やはり😁実際は全てこういった「非公式」の人々に依らねばならぬのが現地工作…、何となく昔の自分を思い出し親近感が湧きます。😅😅

 元々上海工作に従事していた許斐氏利氏は、仏印進駐前後に「印度支那派遣軍(=南方軍)」の長勇(ちょう いさむ)少将(当時)についてハノイ入りし「許斐機関」を率い、山根道一氏の「山根機関」などと同じくベトナム北部で重要特務を数年間に亘り担った方です。。。
 福岡県の宗像(むなかた)大社を護る「許斐城」城主の末裔、許斐氏利氏は、幼少の頃から博多の町道場「隻流館」で「双水執流」の稽古を積み、「博多一の暴れん坊」の異名を取ったそうです。

 「双水執流」とは、
 「…350余年前、豊後竹田藩士、二神半之助正聴を流祖とする武術」
で、「…福岡に残っている双水執流という当て身や投げ殺しを専門みたいにする珍しい柔道」「講道館流の柔道の手にはない。…投げる前に当て殺しておく福岡独特の柔道の手」とは、昭和6年の福岡日日新聞に掲載された玄洋社の杉山茂丸氏の息、夢野久作こと杉山泰三氏の小説の中の一節。。。 
 ええと、あれ、「双水執流」は柔道だ。。。。😅😅
 東京へ上京した許斐氏利氏は「講道館」にも入門しましたが、この講道館も勿論「柔道」。。。

 「越南武道・ヴォヴィナム」は、完全に少林寺風で中国拳法寄りですから、じゃあ日本の仏印進駐とは関係なさそう…と思いつつ、念の為YOU TUBEで「隻流館」の動画を探し「双水執流」を確認しましたが、残念、やはり「越南武道・ヴォヴィナム」とはあまり似てないように思います。
 ですが、更に探索したいと思います。。 

 ベトナムの皇子クオン・デ候の支援団体、松井石根大将の組織した『如月(きさらぎ)会』は、史料によると、福岡玄洋(げんよう)社「黒龍(こくりゅう)会(設立者は内田良平氏)」が主体でした。博多「隻流館」の門人に玄洋社の若者も多かったそうですが、玄洋社には元々「明道館」があります。
 「…自剛天真流は福岡藩に伝わる総合武術の流派だが、その柔術を明道館が受け継いでいる。「明道館」は玄洋社付属の柔道場であり、云々…」
        浦辺登氏著『玄洋社とは何者か』より

 。。。やはり、「柔術」、柔道。。😅
 それでは💦💦と、視点を変えその他関連書に接点を探し、2つ見つけました。
 一つ目は、ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)「自判」の、タイ・バンコク農業拠点にベトナム同志らを訪ねた時の記述です。

 「…この愛国開拓青年達の中に1人の老兵が居た。名を固坤(コ・コン)、正直、朴訥で古武士の風であった。まだ国許にいた時、(科挙の)武科試験に合格した習兵隊長であった。
 甲甲(1884)年=建福(キエン・フック)元年、フランス軍に従い乂安(ゲ・アン)城に入った彼は、
魚海(グ・ハイ)氏と出会って大義を悟り、軍を捨ててそのまま我が党へ入党した。蹶起失敗で山に隠れていたが、私がタイに居ると聞きつけて、タイへ渡って来た。年齢60歳位だったろうが身体は壮健でどう見ても30歳位にしか見えない。武術に秀でていた彼は早朝から棍術、拳法、刀槍術などを教えたので、若者らは大変喜んだ。」             『自判』より

 。。。そう云えばそうです。。。ベトナム阮(グエン)朝の科挙制度には元々「武科」がありました。この「武科」そのものが古くは支那の制度を摸倣したものだったのですから、1938年設立の「VÕ VIỆT NAM(ヴォ・ベトナム)」=越南武術が、少林寺風で中国拳法寄りは当然か。。

 もう一つおまけ、上記『玄洋社とは何者か』の巻末資料、「玄洋社の社友」名簿が有りまして、このような方のお名前がありました。
 「宗道臣(そう どうしん)1911~1980
 福岡出身といわれる。…軍事探偵として満州に渡る。そこで、嵩山少林寺伝来の中国拳法の一派を引き継ぐ。…満州での諜報活動に従事していた。敗戦後、四国の香川県多度津に少林寺拳法の道場を開く。尊敬する人として、頭山満、内田良平の両名を自著に記している。」

 やった。。。少林寺発見!!😭
 でも、詳細は解りません。。(笑)しかし、許斐氏利(このみ うじとし)氏も元々満州工作に従事してましたし、内田良平氏は後にクオン・デ候を支援した「黒龍会」主幹だった方です。
 ”すみませんが、今度北部でベトナム武道を立ち上げますのでひとつ宜しく。。”とか、クオン・デ候から如月会(黒龍会)へ頼んでたりして。許斐氏もハノイで「VÕ VIỆT NAM(ヴォ・ベトナム)」の演武を見たのかな…とか、勝手な想像ですけど、心が躍ります。。。😊😊

 上記、黎創(レ・サン)氏回想録『開祖阮禄(グエン・ロック)小史』には、日本との繋がりに言及はありません。しかし、あの時期あの狭いハノイで同じ武道派、お互いの存在を全く知らない筈はないと思います。
 また回想録には、1942年頃からの事がこの様に書かれています。
 
 「1942年になり、反フランス運動は公然と大きく膨れ上がり、ハノイ大学構内で両国青年間の空気が険悪になって来た。ベトナム青年側の主力がヴォヴィナムの門人だった為、仏印政府は師範大学での武道クラス停止と阮禄(グエン・ロック)氏の活動を禁止してしまった。」
 1945年、日本が軍事クーデターでフランスを倒し保大(バオ・ダイ)帝の委任を受けた陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏政府を成立させた。(中略)この頃のハノイ市内の治安維持は新政府の軍の管轄だったが、実際には大学生もヴォヴィナム門下生も含むあらゆる階層の人々の集まりで、その中でもヴォヴィナム門人が傑出していた。」

 「ヴォヴィナムとして特定の活動団体に師事したことは無い」とも書いてありますが、仏領インドシナ時代には、長い期間に亘り小学校に体育科が無く粗悪酒と阿片の強制購入で青壮年男子の虚弱体質化、無気力意欲低下、半病人化が推し進められましたが、いよいよその楔を破り武術鍛錬で心身ともに蘇ったベトナム人青年団体がこの時期誕生したのです。
 その後に続く第1次、2次インドシナ戦争(ベトナム戦争)で、史実に残るベトナム民族解放戦線側の数々の武勇伝に相当影響したでしょう、と私は想像しています。😐😐

 

 
 

  

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 
 
 
 

 
  

 

 
 
 
 


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